Culture
2020.10.13

運動会のプログラムに「美容術」⁉︎ 華族女学校はスポーツ教育のパイオニアだった!

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スポーツの秋。自粛生活でなまった身体を動かすには、良い時期になりました。
そして、秋と言えば運動会をイメージする方も多いのでは? 最近は、熱中症対策、行事の分散化などの理由から春に運動会を行う学校も増えています。残念ながら、2020年は新型コロナウイルス感染症予防の観点から、運動会などのイベントが中止となった学校も多いようですが……。

そんなことを考えつつ和樂webの記事を書くために資料調査をしていたある日、明治時代に行われた華族女学校の運動会プログラムの中に「美容術」という種目があることを発見!
運動会に「美容術」? 女学校に通うお嬢様の運動会のおしゃれコーデやヘアアレンジ、白肌を維持するUV対策や汗でも崩れないメイクといった美容テクを競う競技とは思えないし……。
気になったので、「美容術」という運動会の種目について調べてみました。

そもそも「美容術」ってどんな種目?

実は、「美容術」とは、体を美しく強健にするための体操のこと。華族女学校だけの特殊な種目ではなく、明治時代は学校の運動会の種目として行われていました。

小学館『日本国語大辞典』の「美容術」の項目には、次のような二つの意味が書かれていました。

(1)容姿を美しくするために施す術。美顔、整髪、着付など
(2)明治時代、軽い体操をいった語。

「美容」という言葉には「美しい顔」と「美しい姿」の両方の意味があり、運動会の種目「美容術」は、「美しい姿を作る術=体操」のことを言っていたのです!

『日本国語大辞典』の「美容術」の項目の出典資料として記載されていた『教育学字彙』(集英堂、明治19(1886)年)の「軽体操(Light Gymnastic)」の項目には、

軽体操トハ規定運動ノ器械ヲ用ヒズシテ為ス所ノ運動或ハ之ヲ用フルモ劇ニ渉ラザル所ノ運動ニシテ所謂美容術トハ此義ナリ

と書かれており、「軽運動とは、運動用の道具を使わない運動のことで、美容術と同じ意味である」と定義しています。

「美容術」という体操の説明は、明治18(1885)年に京都教育書房から刊行された遊佐盈作(ゆさ えいさく)編『改正小学美容術(上、下)』にも

美容術は身体を美容強壮にする体育法で、道具を用いずに行う体操で、必ず「用意」「始め」「止め」と言い、連続せずに行う

とあります。

「美容術」のやり方を図で解説!

明治37(1904)年1月に刊行された『改正小学体操法』では、「美容術」のやり方を11ページにわたってイラスト入りで紹介しています(『改正小学体操法』の3~13ページに掲載)。何となく、ラジオ体操にも似ているような?

「美容術」は、両腕を大きく回転させたり、左右に振ったり、水平に伸ばす体操で、身体の強健を図るとともに容姿を美しくするものでした。しかし、このような軽い体操が「美容術」と呼ばれていたのは明治時代後期頃まで。「美容術」という言葉は、次第に「美しい顔を作る方法」である化粧法に意味が限定されるようになりました。

お嬢様はスポーツNG?

明治に入り、「体操」が学校の授業の一つとしてカリキュラムに組まれるようになりますが、女学校では「体操」の授業を実施すること自体が問題になっていました。

身体を鍛えることがなかった明治以前の女性たち

明治時代以前は、日本の女性が身体を鍛えるために何かをするということはほとんどなかったのです。
例えば、江戸時代に浮世絵に描かれた女性たちを見るとわかるように、日本髪を結い、着物を着て、帯をきつく締めていました。

三代目歌川豊国、二代目歌川国久「江戸名所百人美女 霞ケ関」 国立国会図書館デジタルコレクション
将軍・徳川家斉の14男で、名古屋藩主となった徳川斉荘(とくがわ なりたか)の娘・利姫を描いたと言われています。大名家のお姫様にふさわしい、桜、杜若(かきつばた)、牡丹、梅、菊が雲形の間に散りばめられた華やかな打掛をきています。

このため、動作が制限され、歩幅は小さくなり、走ることはもちろん、飛んだり跳ねたりすることもできません。

身体を鍛えるカリキュラムが広まった理由

明治初期、イギリスの社会学者で哲学者のハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)の『教育論』が日本でも翻訳され、「スペンサーの教育論」として広まりました。この教育論に基づいて、「知識を学び、道徳心を育て、身体を鍛える」というカリキュラムが組まれるようになります。

男子の場合、「富国強兵」のスローガンのもと、欧米人に比べて見劣りする日本人の体格向上を図り、強い軍隊を作ることが緊急課題でした。また、コレラなどの感染症が流行して一度に数千人が命を失うことが珍しくなく、特に子どもの死亡率が高かったことから、子どもの健康づくりも重視されました。
 

「色が白い=美人」という抵抗勢力

一方、女子教育では、当初は体育そのものへの抵抗感がかなりあったと言われています。庶民の女性たちは、活発に動き回るために着物の裾を端折ることもありましたが、上流階級の女性は裾の長い着物を着て優雅に静かに動くことで、「働く必要がない」という身分の高さを表していました。何よりも、女性が人前で足を見せることは恥ずかしいこととされていたのです!

さらには、日本の美人の絶対的な条件の一つに「色の白さ」がありました。屋外に長時間いて日に当たれば、当然、肌は日焼けして黒くなります。そのため、女子に外で体操などをさせることを親が嫌がる風潮がありました。上流階級のお嬢さまは、必要がないかぎり、家の外には出ないものとされていました。

実際、明治半ば頃までは、色が青白いほど白く、やせてほっそりとして、憂いを帯びた女性が美人とされていました。農村などで見かける、日焼けして肌が小麦色に輝き、がっちりとした体型で、口を大きく開けて笑うような健康的な女性は、美人とはされなかったのです。
こうした美人観が社会に根強く存在していたので、女学校で体操を授業に取り入れることは悩ましい問題であったに違いありません。

運動会は、華族女学校の一大イベント!

日本の学校で運動会が最初に行われたのは、明治16(1883)年に東京帝国大学が行なった合同陸上競技会とされています。

華族女学校の先駆的なスポーツ教育

明治18(1885)年に開校した華族女学校では、第4代校長・細川潤次郎が体育と徳育を重視する教育方針のもと、体操の授業時間を増やすとともに、明治27(1894)年11月19日に第1回運動会を開催しました。
ちなみに、高等女学校における体育振興が行われるようになったのは、もう少し後になってから。明治36(1903)年、「高等女学校教授要目」が制定され、女学校のスポーツ教育が全国に広まっていきました。

華族女学校は、運動会の開催していただけではなく、遠足や校外見学などの課外の身体運動を含むレクリエーション活動にも力を入れ、先駆的で啓蒙的なスポーツ教育を展開していたのです!

盛大にわれた運動会

その後、運動会は年々盛んになり、明治30(1897)年からは春と秋の年2回開催されるようになります。明治31(1898)年からは皇后や皇太子妃の行啓があり、生徒の家族だけではなく皇族・外交官・教育関係者など2000人以上の参観者がありました。

第1回運動会は、遊戯・ポロネーズ・毬拾(まりひろい)・花取・豆嚢競走(とうのうきょうそう。豆を詰めた袋を投げ合い、相互にキャッチする運動)など、多彩な種目で構成されていました。運動会のプログラムは年々種目が増え、時間も延長されていきました。
明治38(1905)年10月に行われた第21回運動会では19種目に増え、午前8時から午後3時まで開催されました。そして、この第21回運動会の種目の10番目に「美容術、行進」があるのです!

『女子学習院五十年史』(女子学習院、1935年)より 国立国会図書館デジタルコレクション

当時、運動会は一般の学校行事になりつつありましたが、華族女学校の運動会は皇后の行啓を伴う行事であったこともあり、毎回新聞に掲載されました。また、雑誌『婦人画報』第1巻第1号(近時画報社、1905年)では、「華族女学校運動会(the 20th athletic meeting of the Peeresses’ School)」と挿絵入りで第20回運動会が報じられました。

このように、年々盛大に行われた運動会ですが、明治41(1908)年10月に行われて以降、廃止されます。
その後、大正6(1917)年になって、体操会として運動会の種目の一部が復活して行われるようになりました。

女性の体操服の改良

それまでは女性が運動するための服装は存在しなかったため、女子体育の普及には服装が重要な問題でした。当初、女学生は袴姿で体操を行っていましたが、やがてセーラー服が着用されるようになります。通学服と同様、運動服も時代によって複雑に変遷しました。
井口阿くり(通名:井口あくり)は、日本で最初に体操服としてブルマーを採用することを提言した人物で、女子体育教育の第一人者です。ボストン体操師範学校でスウェーデン式体操を学び、帰国後、女学生の指導・育成に携わりました。

井口あくり等著『体育之理論及実際』(国光社、明治39(1906)年)より 国立国会図書館デジタルコレクション

なお、ブルマーが実際に普及するのは大正時代末期のことでした。

スポーツをする少女が憧れの的に!

明治5(1872)年、女性の富士山登山や相撲見物が認められます。
このころから体操などの軽運動を行う女性も散見されるようになりますが、欧米から移入されたゴルフ・テニス・乗馬などの「近代スポーツ」は、男女とも、華族・士族・外交官などの政府関係者といったごく限られた階層の人々の楽しみでした。学校教育の場でも同様で、主に華族の子女が学んだ華族女学校は、欧米からの文化をいち早く受容できる環境と先進的な教育理念によって、女性の体育・スポーツ教育のパイオニア的存在でもあったのです。

女学校では、1週間に2~3時間の体操が必修とされました。しかし、過度の運動は「かよわくたおやかな伝統的な女性美を損なうのではないか」という否定的な意見が根強く、女子体育が定着するまでには時間がかかりました。一方の女子体育肯定派の主張も、欧米列強に対抗しうる頑強な子どもを生む「母性」の育成という観点から形成され、「女性性」が強く意識されたものでした。

大正10年代頃になると、女性の体操服の改良と普及が進みます。はつらつと運動する少女たちの姿から女子体育ブームが起こり、スポーツ少女が女学生の憧れの的となりました。

お嬢様の運動会に興味深々

明治時代の女学校の運動会を撮った当時の写真などを見る限り、袴姿の女学生たちが髪の毛をなびかせながら楽しそうに行っている様子がうかがえます。数百人もお嬢様が集まって行う華族女学校の運動会は、優雅な雰囲気もあった? もちろん、スポーツが苦手で、運動会が大嫌いなお嬢様もいたのではないかと思いますが。
もし、タイムスリップができるのであれば、来観者になって、お嬢様の運動会を実際に見てみたいと思いました。

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主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。