全ての子どもたちに教育を。日本でいち早く私立幼稚園を創設した野口幽香の功績

全ての子どもたちに教育を。日本でいち早く私立幼稚園を創設した野口幽香の功績

日本にまだ幼稚園の少なかった、明治初期。当時は珍しい私立幼稚園の先駆けとして「二葉幼稚園」は創設された。立ち上げたのは、華族女子校付属幼稚園で助教授を務めていた野口幽香(のぐちゆか)。この幼稚園は、他の幼稚園とは一線を画し、幼児教育のみならず貧しい子どもたちの生活支援も行っていた。野口幽香はなぜこのような私立幼稚園を創設したのか? 彼女の功績を辿る。

家族の死を経てキリスト教徒へ

野口幽香は、1866(慶應2)年に兵庫県姫路で生まれた。9歳のとき、父の生野銀山(兵庫県朝来市)への転勤が決まり、家族で生野へと引っ越す。
生野銀山には、政府が招へいしたフランスの技師や労働者たちが多く暮らしていた。幽香は彼らと交流するなかで、西洋の文化に触れて、衝撃を受けたに違いない。漢学や裁縫のほかに、英語を学び少女時代を過ごした。

1885(明治18)年、二十歳になった幽香は、上京し、東京女子師範学校に入学。しかし、1年後の1886(明治19)年に父、その2年後に母がこの世から去る。

悲しみに暮れる幽香を支えたのは、キリスト教の教えだった。

両親の死後、1888(明治21)年、キリスト教に受洗し、その教えを生涯全うすることを誓う。

日本初の幼稚園に勤務

日本の幼稚園は、1876(明治9)年に創設された東京女子師範学校付属幼稚園が始まりとされている。

1890(明治23)年、学校を卒業した幽香は、優秀な成績を修めていたため付属の幼稚園に勤めることになる。次いで1894(明治27)年には華族女子校(現在の学習院)に新設された付属幼稚園に助教授として就任。彼女がこのとき受け持っていた園児は、いずれも裕福な家の恵まれた子どもたちだ。

貧富の差を前に決意

西洋化が進むなか、その反動で日本の貧富の差は激しくなっていた。

幽香は通勤途中に道端で貧しい子どもたちを見るたび、心を痛めていた。自分が受け持つ園児たちと、道端で見る貧しい子どもたち、どちらも等しく幸せに暮らせるようにするには……。やがて、同じ思いを胸にした同僚の森島美根(もりしまみね)と共に「貧しい子どもたちのための教育の場」をつくる構想を抱く。

チャリティ音楽会を経て、幼稚園創設へ

森島美根は、アメリカで幼児教育を学んだエリートだった。

「幼稚園の生みの親」といわれるドイツの教育指導者、フレーベルについて、ふたりはよく語り合った。
フレーベルは、1840(天保11)年に世界最初の幼稚園を創設し、子どもの自立性を重視した自然に広く接する教育を積極的に採用していた。美根と幽香は、フレーベルの教育を、日本の貧しい子どもたちにも与えることを夢見た。

1898(明治31)年、幽香は美根と一緒に幼稚園創設の募金のために、上野の奏楽堂でチャリティ音楽会を開催する。音楽会はキリスト教徒たちに支えられて、大成功を収める。このときの資金などを使い、1900(明治33)年、ふたりは麹町に小さな家を借りて「二葉幼稚園」を創設した。

野口幽香、35歳の新しいスタートだ。

85歳まで、幼児教育のために活動

幽香は、あいかわらず華族女子校の付属幼稚園に勤めながら、二葉幼稚園を経営した。ここでは、家庭訪問や衛生指導、遠足など、子どもとその親たちの生活支援を全力で支援。キリスト教の精神のもと、フレーベルの教育方針を実践した。

幽香の体力、精神力ともに限界だったはずだが、それでも事業拡大のために尽力し続けたのは、幼稚園の創設がゴールではなかったからだ。

1906(明治39)年には、さらに多くの子どもたちを救うべく、東京・四谷鮫河橋(現在の新宿区南元町)へ移転。200名規模の幼稚園へと拡大する。1916(大正5)年、には二葉保育園と改名、1923(大正11)年、57歳で学習院を退職し、ようやく二葉保育園に専念できるようになった。さらに同年、小学校へ通えない子どもたちのために「小学部」、子どもとその母親の支援を目的とした母の家(現在の母子ホームの原型)を付設し、事業を拡げている。

すべての子どもたちに教育を。1950(昭和25)年、85歳でこの世を去るまで、野口幽香は幼児教育のために活動を続けた。

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アイキャッチ画像:メトロポリタン美術館より。イメージです。

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