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Culture
2020.11.19

平賀源内は「ひとたらし」だった?稀代の発明家の新しい横顔

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稀代の発明家としてエレキテルを世に出し、土用の丑の日など日本初のコピーライターとしても有名な平賀源内(ひらが げんない)。彼の出身地は穏やかな瀬戸内海に面する静かな街、香川県さぬき市。ここに平賀源内を愛する人々の想いが集結した「平賀源内記念館」があります。ここでしか見ることができない貴重な資料から、新しい源内の横顔が見えてきました。

わずか11歳で非凡な才能を発揮

四国霊場88番札所「志度寺」に向かう志度門前町の穏やかな街並みに佇む「平賀源内記念館」。通称“源内通り”と呼ばれる遍路道にあることから、歴史好きなお遍路さんも多く立ち寄るそうです。源内は、享保13(1728)年、讃岐の志度浦(しどうら。現在の香川県さぬき市志度町)で、高松藩の米蔵番をしていた白石茂左衛門の三男・四方吉(よもきち)として生まれました。一人で草木や石、職人の手仕事などをじっと観察するのが好きな子どもだったそうです。

平賀源内旧邸

小さなころからその才能の片鱗が見え隠れしていたようで「天狗小僧」と呼ばれていて様々な工夫やからくりで人々を驚かしていたといいます。中でも11歳の時に作ったからくり掛軸「御神酒天神」が傑作。天神さんにお酒を供えると顔が赤くなるからくり掛軸は、顔の部分を透明にして背後の肌色と赤色に塗った紙をスライドさせ、お酒を飲んだ天神さんの顔が赤くなるという趣向。11歳の子どものアイデアとしては超シュールだと思いませんか?

御神酒天神のからくり掛軸。記念館では詳しく仕組みを見ることができます

阿野郡南陶村の本草学者・三好喜右衛門から今の薬学・博物学である「本草学」を学び、藩の薬園にも関わるようになります。喜右衛門は漢学の造詣のみならず陶磁器も作ったことから、源内も製陶の知識を学んでいました。寛延2(1749)年、源内21歳の時に父茂左衛門の逝去により家督を継ぐことになります。そのことにより藩の米藏番になり、「平賀」の姓を名乗ることになります。また若き日の源内は俳諧に熱中し、俳号は李山。渡辺桃源ら志度の俳諧仲間との親交も伝えられています。浪花俳人の堀梅門が金比羅参詣のために来讃した際も桃源とともに梅門の旅宿を尋ね「囀(さえずり)りや花の余りを只の園」と詠んでいます。マルチな才能の片鱗はこの頃から見え隠れしていますね。

長崎で世界に触れお城勤めからフリーランスに

大きな転機となったのは宝暦2(1752)年、24歳の時の長崎遊学。オランダ語を学ぶとともに海外を知ったことは大きなカルチャーショックにでもあったことでしょう。源内は長崎で中国・オランダから高価な陶磁器が輸入されるのを見て、天草深江村の土が製陶に適しているのに気づきます。幕府天草代官に優れた天草の陶土を使って、意匠や色釉を工夫すれば立派な陶器が出来るし、大いに輸出することも可能であり、国益になると『陶器工夫書』を提出しますが、残念ながらそのプレゼンは取り上げられることはありませんでした。長崎からの帰途、備後鞆之津(福山市鞆)で陶土を見つけた源内が製陶を勧めた話は今も「源内生祠」(広島県史跡)として残っています。

宝暦4(1754)年、長崎から戻った源内は藩務退役を願い出ます。その当時、お役所勤めからフリーランスで独立の道を選ぶなんてなかなか尖った選択です。従弟の権太夫を妹の里与に入婿させ、平賀家の家督を譲った源内は大阪を経て、江戸に向かいます。江戸では本草学の大家、田村藍水に師事し、このころから更に頭角を現し、生来のアイデアマンの本領を発揮しはじめます。そのひとつが「物産会」や「薬品会」の開催です。全国の薬種や産物を展示し、交換する物産会は、学術的な発表の場であり、また一般大衆も日本各地の珍しい物品を見る場所でもありました。会主は師の藍水が務めたものの、実質的に現場を仕切ったのは源内でした。
江戸での評判を聞き及んだ松平頼恭公は源内を待遇も引き上げた条件で再度召しあげます。フリーからの待遇アップの再雇用、羨ましい限りです。この待遇を源内はプロデュース料をとらえていたのに対し、幕府は藩の薬草園を守る“坊主”という認識でした。この認識の違いから宝暦11(1761)年、再び辞職を願い出ます。願いは聞き届けられたものの、藩からは「仕官御構」という厳しい条件がつけられたのです。他藩への仕官はまかりならぬという条件は、源内の才能が他の藩で発揮されることに頼恭公は脅威を感じていたのかも知れませんね。

日本初の博覧会をプロデュース

自由の身となった源内が取り組んだのは第5回薬品会「東都薬品会」。これは日本初の画期的な規模の博覧会となりました。この時も源内は敏腕イベントプランナーとして活躍します。引札と呼ばれるチラシを全国に配布。同時に18国25拠点に物品の取次所を開設。物品は江戸へ運賃着払いで送ればOKとし、早々に返却する旨を確約するなど随所に細やかなアイデアも取り入れられていました。その結果、従来の2倍近い1300余りの物産を一挙に集めることに成功、日本における博覧会開催のマニュアルが完成したのです。源内が始めた薬品会(やくひんえ)は第5回を持って終了しましたがそれを模した見本市は後に京都や大阪などでも行われるようになりました。当の源内は薬品会の研究成果を収めた全6巻の『物類品隲(しつ)』を発刊し、本草家・平賀源内の名声をさらに高めてゆきます。

多くの人を魅了する「ひとたらし」

人間・平賀源内は、自信家で、鼻っ柱が強く、大風呂敷を広げることも多かったのですが、その才気と構想力で多くの人間を魅了しました。いわゆる「ひとたらし」。若い頃から支援者も多く、江戸で知り合った蘭学者の仲間内でも、つねに一目置かれる存在だったそうです。またあまりにも破天荒な生き方から山師(ペテン師)とそしられることも多かったそうですが、山師といっても、源内は小者の山師ではなく、幕府や資産家を巻き込んだ山師の中の山師だったのではないでしょうか。それもこれも源内の才能と愛される人柄ゆえと言えそうです。源内は後に名を遺す杉田玄白をはじめ、前野良沢、森島忠良、桂川甫周らとも交流がありその輪の中心は常に源内でした。中でも杉田玄白とは強い親交がありました。安永2年(1773年)に秋田藩の要請により鉱山開発の指導を行った源内は、秋田藩士小野田直武と藩主・佐竹曙山に西洋画の技法を伝えました。杉田玄白が解体新書の翻訳を手掛けた際、源内は扉絵や挿絵を加えることを提案。その絵を描いたのが小野田直武でした。このように源内は人と人、アイデアとアイデアをコラボさせることの相乗効果で新しいものを生み出す才能に長けていた有能なプロデューサーでもあったのです。

時代の先を行き過ぎた天才平賀源内は、人を殺めた罪で51歳で獄中で亡くなりました。杉田玄白は、平賀源内の一周忌に追悼の碑文を書いています。『ああ非常の人、非常の事を好み、行(おこない)もこれ非常、何ぞ非常に死するや』。類稀なる才能と破天荒で型破りな生き方で非常の死を迎えた源内に対し玄白はその死を惜しむ気持ちを碑文に記しました。早すぎた天才平賀源内と杉田玄白。二人の開いた蘭学の扉で医学は飛躍的に進歩し、日本人は世界を知ることになったのです。

平賀源内の魅力たっぷり!「平賀源内記念館」

平賀源内記念館は博物学研究、鉱山開発のため日本全国を歩いたことにちなみ「歩く」をコンセプトに「志度・高松」「長崎」「伊豆・秩父・秋田」「江戸」の4つの地域に分けて展示されています。
また江戸中期の画家に影響を与えた、源内唯一の油彩画や、現存する江戸時代中期の2台のエレキテルの内の1つなどここでしか見ることのできない貴重な展示品も。


ミュージアムショップでは源内らしいユニーク&とんがったオリジナルグッズも購入できます。栗林公園とここでしか購入できない源内のイラスト入りの梅ワイン(1,430円税込)や、オリジナルの和三盆糖(650円税込)、ファンにはたまらない源内ピアス(1.000円)などなど…。
また記念館から源内ゆかりの薬草園や旧邸までは徒歩数分。ぜひ立寄ってみてはいかがでしょうか。

薬草園

平賀源内記念館