スジャータ♪ スジャータ♪ 昭和の末期、優雅なメロディーに乗って国民的歌手・藤山一郎の笑顔とともに、テレビで繰り返し流れるコーヒーフレッシュ(クリームまたはミルク)のCMは、だれもが一度は目にしたことがあるのではないだろうか。
「褐色の恋人スジャータ」という商品名の由来についてずっと気になっていたのだが、後日、悟りを開く前のお釈迦(しゃか)さまに乳がゆを捧げた娘の名前だったことを知り、子どもの頃から身近に感じていたコーヒーフレッシュのヒミツをもっと知りたくなった。
この大ヒット商品を生み出した「スジャータめいらくグループ」の本社は名古屋市の東部・天白(てんぱく)区にある。同社のご協力の下、「褐色の恋人スジャータ」開発のヒミツと共に同社の歴史を追ってみた。
※文中、敬称は省略させていただいております。
写真はすべて「スジャータめいらくグループ」からご提供いただきました。
コーヒーフレッシュの代名詞 “褐色の恋人スジャータ”
コーヒーはブラック? それともミルク入り? 私は断然後者である。湯気と共に立ち昇る芳香はとてもすばらしいが、飲む時はミルクが欲しい。なので、コーヒーフレッシュは必需品。無いときは牛乳で代用する。濃い褐色のコーヒーに真っ白なフレッシュが溶けていく様子を見ていると、なんだかとても癒される。
中京圏で生まれ育った私にとって、「褐色の恋人スジャータ」はコーヒーフレッシュの代名詞。子どもの頃はコーヒーのほろ苦さが苦手でなかなか飲めなかったが、コーヒーフレッシュのおかげで苦みがマイルドになり、いつのまにか飲めるようになった。
それまでコーヒーといえば喫茶店で飲むものというイメージだったが、「褐色の恋人スジャータ」の発売とともに家庭でも手軽に飲めるようになった気がする。その開発には「スジャータめいらくグループ」の創業者である日比孝吉(ひび たかよし)の強い思いが込められていたのだった。
「褐色の恋人スジャータ」のヒ・ミ・ツ
「喫茶店の味をご家庭で」 昭和51(1976)年3月23日 「褐色の恋人スジャータ」誕生
昭和50(1975)年、「スジャータめいらくグループ」の前身である「名古屋製酪」の専務だった孝吉は、ある機械メーカーから家庭用のコーヒーフレッシュの開発を勧められた。しかし、当時は「『クリープ』を入れないコーヒーなんて」というCMが大流行しており、家庭用ではクリーミングパウダーが全盛期。液状のコーヒーフレッシュが一般家庭で受け入れられるという確信もなく、専用設備も必要だったため、孝吉も最初は乗り気ではなかった。しかし同社には創建当時からホテルやレストラン、喫茶店などを対象とした業務用のコーヒーフレッシュや牛乳、生クリームなどの乳製品を製造・販売していた実績があり、「喫茶店の味をご家庭で味わっていただきたい」と孝吉も強く思うようになったことから、昭和51(1976)年元旦、思い切って設備導入・開発を決断。社内に指示を出したのだった。
開発決断後、通常では半年かかる海外製の設備導入が、その約半分の期間で手配可能になり、3ヶ月という異例のスピードで商品化にこぎつけることができた。発売日は孝吉の母・きくのの命日に合わせて3月23日となった。
「褐色の恋人スジャータ」が発売されるまで「名古屋製酪」には一般家庭用商品の販売経験がなかったため、スーパーへのセールスは初めてで、難航を極めたという。日曜日に店頭に立って販売したり、サンプルを配るといったことはもちろん、営業マンは毎朝ポットにコーヒーを入れて「スジャータ」と一緒に営業先へ持参し、バイヤーや店長に試飲をしてもらうといった地道な営業努力を続けた結果、ロングセラーの大ヒット商品へと成長していった。
村の少女スジャータはお釈迦様の命の恩人?!
「スジャータ」という名前はコーヒーフレッシュの商品名を社内公募した際に、社員から提案されたという。それは仏教と深く関わっていた。古代北インドで釈迦族の皇子として生まれたお釈迦さま(ガウタマ・シッダールタ)は、人間の生老病死の苦しみを目の当たりにして出家を決意し、深夜に城を抜け出す。その後、悟りを開こうと6年間にわたり、断食などの苦行にあけくれるが、一向に悟りは開けなかった。骨と皮ばかりにやせ細り、木の下で瞑想するお釈迦さまを見て、スジャータという少女が乳がゆを捧げた。スジャータはお釈迦さまのことを神様か精霊だと思ったようだ。
ちなみに乳がゆというのは、キールと呼ばれるミルクがゆのことらしい。乳がゆを食べて元気を取り戻したお釈迦さまは苦行をやめ、菩提樹の下で悟りを開いて仏陀(ブッダ)になったとされる。もし、スジャータがいなかったら、お釈迦さまは苦行の果てに命を落としていたかもしれない。そう考えると、スジャータはお釈迦さまの命の恩人だ。彼女の名前は今も村の名前として、インド・ビハール州に残っている。
「スジャータめいらグループ」では平成28(2016)年、ビハール州の生活困窮者に対する支援を行っているNPO法人を通じて、スジャータ村の子どもたちに衣類(Tシャツ100枚)を寄贈している。
キャッチフレーズ“褐色の恋人”の“褐色”とはコーヒーのことだ。お釈迦さまに乳がゆを捧げたスジャータのように、いつもお客様の心に寄り添って楽しくおいしくコーヒーを味わってほしいとの願いが込められている。
藤山一郎のCMとともに、全国へ広がった「褐色の恋人スジャータ」
発売の翌月にはイメージキャラクターに当時の国民的歌手・藤山一郎を起用したテレビCMが始まった。作曲は青山八郎。藤山のさわやかな笑顔とともに、全国に「褐色の恋人スジャータ」の名が広まったのである。
茶色の厚みのあるポーションカップで中身の劣化を防ぐ
「褐色の恋人スジャータ」が入っている容器をよく見てほしい。ポーションカップと呼ばれる茶色の容器に入っている。これは内容物を劣化させる可能性のある紫外線を防ぐのに適しており、おいしさをキープするためだ。
366種類の誕生花からすもうの決まり手まで、バラエティ豊かなポーションカップの上蓋デザイン
ポーションカップの上蓋(うわぶた)デザインにも注目したい。これには366種類(1年365日+1日)の誕生花をはじめ、151種類の国旗や日本の祭、歴史好きにはたまらない日本の城、戦国武将などのほか、販売期間が短く“まぼろしのスジャータ”といわれている相撲の決まり手や童話、健康エクササイズなどのシリーズもあった。
平成17(2005)年の「愛知万博」では、万博のキャラクターだったモリゾーやキッコロがデザインされたポーションカップが期間中、販売されたこともある。
容器1個1個に印刷するピッチデザインを採用
「スジャータめいらくグループ」では印刷にもこだわっており、どこを使っても同じような「エンドレスデザイン」ではなく、1個1個のポーション容器にデザインを当てはめる「ピッチデザイン」という手法をとっている。当然コストは高くなるが、「コーヒータイムをより楽しんでいただきたい」との願いから、ピッチデザインを採用しているのだという。
飲むのが惜しくなるラテアート
カフェなどで人気のラテアートも「褐色の恋人スジャータ」で体験できる。コーヒーに「スジャータ」を流し込み、スティックやつまようじなどで伸ばしたり、細かい線を書き込んだりして形を整えていく。写真は「褐色の恋人スジャータ」のキャラクターであるスジャータぼうやのラテアートだ。小さい模様なら少ない分量でも可能だろう。オリジナルのラテアートを考案するのも楽しそうだ。
「スジャータ」ではコーンスープなども販売しており、冷たいスープの上に「褐色の恋人スジャータ」で描くスープアートも楽しめる。ホームページで紹介されている。
「褐色の恋人スジャータ」ならではの料理が楽しくなるさまざまな裏ワザ
「スジャータ」はコーヒーフレッシュとしてだけではなく、料理に使えるさまざまな裏ワザがある。焼く前の肉の表面に塗っておくと肉が柔らかくなるし、牛乳や生クリームの代わりとしてカレーに入れるとコクが出てまろやかに、オムレツに入れるとふんわりとして優しい仕上がりになる。
また、焼きリンゴの表面にかけることで、甘さが落ち着きまろやかな味になるばかりか、オシャレ感が増す。食べることは大好きだが、超のつくめんどくさがりやの私でも料理が楽しくなりそうだ。
“お客様ファースト”を貫く。「スジャータめいらくグループ」はじまりの物語
「スジャータめいらくグループ」は「名古屋製酪株式会社」をはじめとする国内外合わせて10のグループ会社から成り立ち、国内70カ所以上に営業拠点を持つ。年商はグループ全体で1309億(令和元年度)、従業員数は2706名(同2年度)。製品の種類も今ではコーヒーフレッシュのほか、ホイップクリームやレギュラーコーヒー、果汁、コーンポタージュ、アイスクリーム、ソフトクリームなど多数。
コーヒーフレッシュの市場では大手食品メーカーが並ぶ中、国内トップシェアを誇る。だが、本社は驚くほど質素だ。社訓は「報恩・奉仕・繁栄」。そこには私的な利益追求に走らず、常に社会への貢献と“お客様ファースト”を貫く同社の姿勢があった。
初代社長は日比冨之助といって、孝吉の父である。冨之助は岐阜県養老郡多良(たら)村馬瀬(まぜ)(現・岐阜県大垣市上石津町)の出身。多良は2020年に放映された大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀生誕地説の一つ「多羅城」があったとされる場所だ。
多良村の庄屋を務めていた日比家の三男として生まれた冨之助は幼い頃に母を亡くし、大家族の家事を一手に引き受けて働いた。青年になってからは村を挙げての土地改良事業などに従事した後、北海道での炭鉱労働や南米航路の船員、路線バスの運転手などを経て、妻・きくのの実家がある静岡県磐田市に身を寄せる。昭和3年、後に「スジャータめいらくグループ」の創始者となる孝吉が生まれた。
昭和21(1946)年、日比孝吉は名古屋市立第一工業高校を卒業後、父・冨之助と共に商いに従事するようになる。孝吉には絵の才能があり、一時は画家を志して京都に行ったこともあったが、生活苦にあえぐ家族のために夢をあきらめたのだった。孝吉は浜松名物や干し芋、反物などを持てるだけ持って行商の旅に出た。時には東北の山村にまで出かけ、10日以上家に帰れないこともあった。駅のホームや橋の下で野宿することもしばしばだったという。天竜川にかかる橋のたもとで、仕入れた商品を販売する掘立小屋のような店も出した。やがて孝吉は浜松の明治屋を訪ね、露店商となる。戦争に敗れた日本では失業者があふれ、食糧も不足して誰もが生きるために必死で闘っている時代だった。
チャンス到来! 露店商からアイスキャンディー屋へ
露店では文房具やグローブ、バット、ボールなどの野球道具を販売した。娯楽といえるようなものが何もなかった時代だけに品物は飛ぶように売れたという。幸い「明治屋」では孝吉の先輩が働いていたため、場所代をとられることもなかった。
チャンスは突然にやってくる。ある日、ブローカー仲間から「名鉄電車呼続(よびつぎ)駅前の田中製粉所のバラックを借りてアイスキャンディー屋をつくったからやらないか」と勧められた。冷凍庫は仲間の弟が用立ててくれるという。孝吉は(頼みもしないのに準備してくれるなんて不思議だなあ)と思ったが、ありがたく申し出を受け、名古屋市南区呼続で「日吉屋」というアイスキャンディーの店を始めた。日吉屋のアイスキャンディーはすべて手作りで、「大きくておいしい」と大評判。遠くから5円玉を握りしめて買いに来る小さなお客もあったようだ。孝吉は子どもたちから“大きいアイスキャンディーのおじちゃん”と呼ばれ、親しまれていたという。資金援助の手を差し伸べてくれた人もあり、商売は順調に伸びていった。製造は深夜まで続き、不眠不休の毎日だった。
専務自ら自転車で牛乳配達!
やがて孝吉は「東海酪乳社」の頼みで同社を買収。社員3人を引き継ぐとともに、東区内の町工場の一角を借りて業務用フレッシュクリームの製造を開始した。昭和27(1952)年には「名古屋製酪株式会社」」を設立。父を社長に立て、自分は専務となり、自らビン入り牛乳を自転車に乗って得意先に配達した。
社長の冨之助も率先して重い牛乳瓶を持って電車に乗り、一宮まで配達に出かけたという。ビン入り牛乳の配達は大変な重労働で、従業員の定着率は決して良くなかったが、孝吉たちはくじけずに頑張った。その甲斐あって、同28(1953)年には「明治アイスクリーム」の特約店となり、売上高日本一を達成。孝吉が考案したアズキ入りアイスキャンディーも大ヒットし、年間売上高1億円を突破するまでになった。
昭和版・桶狭間の戦い!社員と顧客のために全製品の容器を変更
ほとんど知られていないと思うが、「スジャータめいらく」には「株式会社ラトリア」というグループ会社がある。これは喫茶店などに卸すギフトや業務用の焼き菓子及びケーキ部門を担う会社で、同43(1968)年に設立された。その翌年、全乳製品をビンから紙容器へと切り替えた。
すでにアメリカでは乳製品の大部分が紙容器になっていたが、日本では大手乳業メーカーの一部がごく試験的に紙容器を採用しているに過ぎなかった。農林水産省も紙パック容器を推奨し、重労働だった牛乳配達の労務対策に力を入れていた。先に書いたように「名古屋製酪」でも社員は重いビン容器に入った牛乳を何十本と持ち、あるいは背負って名古屋の地下街、ビルの屋上に配達することもあり、若い社員でも腰痛に悩まされていた。また配達途中に誤って転倒し、割れたビン容器の破片でケガをする者も多かったという。創業当時自らビン入り牛乳を配達し、その大変さを身をもって実感していた孝吉は、社員がカタカタカチカチと音をさせながら配達する光景を見るたびに、いつも改革しなければと考えていた。
当時、紙容器には三角錐の形をしたテトラパック、四角柱の形をしたツーパック、屋根型の直方体容器のピュアパックの3種類があり、切り替えにあたって「名古屋製酪」では生産、販売が一体となって、形状やパックの種類、価格、強度、充填機の価格、能力、特徴、納期、他社採用状況などさまざまな角度から検討が行われた。その結果、ほとんどの社員がパック代が安く、充填機の価格も安いツーパックを推す中、孝吉はお客様にとっての便利さ、使いやすさを考え、ツーパックよりもコストのかかるピュアパックの採用に踏み切ったのである。後に孝吉はこの時のことを振り返り、「日本で初めての全製品ワンウェイ化は、織田信長が今川義元に斬り込み、打ち破ったと同じく画期的なことです」と述べている。牛乳パックの出現は、まさに業界の常識を覆す一大転機となった。現在、使い終わった牛乳パックは資源ゴミとして回収されている。
トランス脂肪酸は0.0g!新幹線「ひかり」でも採用
その後も孝吉は業界に先駆けて、果敢に新しい試みに挑戦する。その一つが、昭和51(1976)年に発売された「褐色の恋人スジャータ」だった。誕生のいきさつについては先に紹介したとおりである。
同53(1978)年には東海道山陽新幹線「ひかり」の社内販売で「スジャータ」が正式に採用され、その後「都ホテル列車食堂」をかわきりに、全列車へと拡大され、さらに需要は広がった。以後、ボトル入りやコーヒーが冷めないように3ml入り容器のミニタイプ、低脂肪入り、豆乳入り、乳脂肪45%の超リッチな「褐色の恋人 スジャータプレミアム」などが次々と発売された。
「スジャータ」には植物性脂肪と動物性脂肪の2種類があるが、植物性脂肪に関しては原料と製法に工夫を加え、悪玉として名高いトランス脂肪酸を0.0gとすることに成功。
またコーヒーフレッシュの主原料であるパーム油を調達するにあたり、サスティナビリティ(持続可能性)の観点から、平成30(2018)年12月に「持続可能なパーム油生産を目的とする非営利団体RSPO」に入会した。
香りも楽しめる「恋人の恋人」を開発
平成2(1990)年にはとうとうコーヒーそのものを発売する。孝吉は生鮮食品と同じように、農産物であるコーヒー豆も冷凍・冷蔵すれば鮮度が維持できるのではと考えたのだった。「美味しさの秘密は、鮮度だ」この発想に当時の開発員は設備がない中で、急速冷却の実験を地道に続けた。やがて焙煎したコーヒー豆を液体窒素で急速に冷却することで、コーヒーの命とも言える「アロマ(香り)」をコーヒー豆の中に封じ込めることに成功。初代・冨之助の妻・きくのの名前をとって「きくのIFCコーヒー スペシャルブレンド」と名付けられ、業界初の冷凍・冷蔵のコーヒーが誕生した。
30年が経ち、「きくのIFCコーヒー」は「Frozen Aroma Coffee(フローズン アロマ コーヒー)としてさらなる進化を遂げ、健康を意識した製品となっている。
シンカンセンスゴイカタイアイス、爆誕!
ところで「スジャータ」といえば、もう一つ忘れられない商品がある。それは平成4(1991)年頃から、東海道新幹線の「こだま」か「ひかり」の車内で販売が開始されたアイスクリームだ。新幹線名物ともいえるカチンカチンに凍ったアイスで、しばらく室温になじませて、溶けかかった頃に食べるのが楽しみだった。
そのヒミツは製法にあった。濃厚でしっとりした食感を出すため、“オーバーラン”と呼ばれる“アイスクリーム中の空気の含有量”を抑えてアイスの密度を高めることで、一般的なアイスよりも溶けにくくなるのだそうだ。また、新幹線の車内という特殊な状況下においての販売となるため、JRによる徹底した温度管理がなされ、通常よりも固い状態で提供することで、よりおいしく食べることができる。
このアイスクリームについても、孝吉自らが先頭に立って開発を指示したという。原料は生乳、生クリーム、砂糖、卵黄のみというシンプルなもの。乳脂肪分は15.5%で、乳化剤や安定剤などの添加物は使用せず、香りづけに最高級の天然バニラ香料を使用。生乳ならではのフレッシュさや生クリームのコクを前面に出し、よりナチュラルな乳の風味が感じられる。抹茶アイスには愛知県西尾産の抹茶、生乳、北海道産の生クリームを使用し、抹茶本来の風味が味わえる。この後、「静岡産紅ほっぺ」」や「とちおとめいちご」、また五郎島金時という加賀伝統野菜のサツマイモを使ったご当地アイスクリーム的な商品も開発された。
一生懸命働けば必ず報われる会社を目指して
「スジャータめいらくグループ」の創業者で「褐色の恋人スジャータ」の生みの親である日比孝吉は、平成29(2017)年3月に88歳でこの世を去った。現在は息子の日比治雄が代表である。「愛知県剣道道場連盟」の会長を務めており、剣道を通じて青少年の育成に力を注ぐ。
元々業務用製品から出発した「スジャータめいらくグループ」はその技術を家庭用製品の開発に生かし、「褐色の恋人スジャータ」を生み出した。同社は今年で創業75周年、令和3(2021)年3月23日には「スジャータ」発売45周年を迎える。大きな成果と喜びと、その裏にあるそれ以上の苦労とともに歩んだ日々だった。
戦後、焦土と化した日本で、焼け跡の露天商から身を起こし、地道な努力を続けることで日比孝吉は大きなチャンスをつかんだ。それは決して降って湧いたという偶然の産物ではなく、常に人が喜んでくれるものを、人にとってより良いものを作って提供していきたいというポジティブな姿勢がもたらしたものだろう。それが信頼を得ることにもつながった。
日比孝吉は「めいらく60周年記念誌」の中で、次のように語っている。
60周年は社員の皆さんの血と汗で積み重ねられた歴史でもあります。一生懸命働けば必ず報われる環境をつくろうと努力してきましたが、まだ不充分です。100周年に向け、社員一人一人が経営者という意識を持ち、夢と意欲をもって仕事に取り組んでもらえるような環境を作りたいと思います。
〔取材・写真提供〕
「スジャータめいらくグループ」https://www.sujahta.co.jp/
※3/23は、一般社団法人 日本記念日協会に「スジャータの日」として登録されることとなった。
〔参考文献〕
『二人の道』「スジャータめいらくグループ」発行
『めいらく60周年記念誌』「スジャータめいらくグループ」発行
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