自分が当たり前と思っていることが、異なる文化では超絶驚かれる、ということはままあることです。
そして、その驚きがまた新たな文化をつくっていく、ということも歴史は繰り返してきました。
さて、仙台藩士・支倉六右衛門常長(はせくらろくえもんつねなが)は、伊達政宗に仕え、1613年に政宗の命で慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した人物です。
当時のヨーロッパでは日本人の存在は非常に珍しく、ローマではパレードまで行われたとか。そんな日本人の珍しさを象徴するエピソードがあります。それは、
「支倉一行がくしゃみをしたときに使って捨てた鼻紙が、後日ローマの博物館に展示されていた」
というもの。
……汚ったね。なんでそんなもの集めたの? 刀とか甲冑とかもっと他に保存しておく物あるでしょうに。
という疑問を感じたので、どういうことなのか文献をあさって調べてみたところ、行き着いたのはローマの「アンジェリカ図書館」でした。
まずは教科書にも載っている「慶長遣欧使節」をおさらい
1613年10月28日(慶長18年9月15日)、仙台藩主・伊達政宗は家臣の支倉常長を現在のメキシコ経由でスペイン及びローマへ派遣しました。
目的は、メキシコとの直接通商交渉など。スペイン人の通訳を含む180人余りが帆船に乗り込み、太平洋を横断して南アメリカ大陸へ、そしてその後大西洋を渡り、ヨーロッパへと向かいました。
この一行は「慶長遣欧使節」と呼ばれ、その30年ほど前に出発した「天正遣欧使節」と並び日本史上画期的な事績として、教科書にも必ず載っているほど。
支倉はローマにしばらく滞在し、市民権まで得て、出帆から7年後の1620年に帰国しました。そのとき持ち帰った当時のローマ法王・パウロ5世の肖像画やキリスト教の祭具などは、「江戸時代初期の日欧交渉の実態を物語る」貴重な資料として、2001年に国宝に指定されています。
2520泊2521日の旅
現代ならば太平洋廻りでも飛行機で1日あればローマまで行けますが、支倉一行はなんと2年間もかけてローマに向かいました。
出発したのは1613年10月。そこから太平洋を横断し、南米・アカプルコまでまず3ヶ月かかりました。そして、メキシコに滞在した後、1614年3月24日に同地を出発し、スペイン・セビリアまで6ヶ月。
そこから陸路でスペインを縦断し、バルセロナからは海路でイタリアへ。
ローマに到着したのはスペイン発からさらに1年後、仙台出発から丸2年後の1615年10月のことでした。
この道程、実は長い間「バルセロナを出帆した支倉一行は、その後イタリアへ直行した」と思われていました。
ところが20世紀に入って、パリのフランス国立図書館で思わぬ資料が見つかります。それはフランスの小さな港町、サン・トロペ(Saint-Tropez)を治めていたサン・トロペ侯爵とその夫人の手記と手紙でした。
バルセロナを出航した使節団は地中海で嵐に遭い、この地に急遽寄港したのだそうで、これが日本人が初めてフランスの土を踏んだ瞬間でした(この手記の発見まで、フランスを初めて訪れた日本人は、1862年の江戸幕府による遣欧使節団長・竹内保徳だと考えられていました。記録を250年以上も更新する日仏交流の歴史上重大な発見でした)。
鼻紙に詰めかけるフランスの民衆たち
このサン・トロペで「鼻紙事件」が起きます(勝手に命名)。
当時の侯爵夫人の手記を、歴史学者・石田幹之助氏の翻訳で見てみましょう。
「彼等は略ゝ手掌(てのひら)大の支那絹の紙(papier de soie de la Chine)の手巾で洟をかみ洟をかむ毎にその紙を地に棄てゝ決して同じ手巾を二度と用ゐることがなかつた。
日本人等はこの手巾を恰も宮女の最も豪奢な恋文の如く彼等の衣服のうちにしまつてゐた。彼等は懐中に相当の量を所持していたが、彼等はこれ迄の長途の旅にも十分なほど用意してきたのであつた。
サン・トゥロペの人々は日本人の外出を待ち受けていたといふが誠にそれはさもあるべきことであつた。彼等は日本人の誰かゝ手巾を使用して棄てると駆寄つてそれを拾つた。人々はこの貴重な記念物を手に入れようと撲ち合ひをした。
中でも最も貴重視せられたのは支倉その人の手巾であつた。支倉の手巾は人々の眼には歴史的価値を有してゐたのである」
(石田幹之助「伊達政宗の欧州遣使に関する新事実に就いて」『石田幹之助著作集 第三巻』(1986年、六興出版)。読みやすいよう適宜改行した)
侯爵夫人は一行が鼻をかんでいたのは「絹のハンカチ」だと見たようですが、これは「懐紙」であると推測されます。
その他の記述でこの「絹」に、
「筆で上方から下方へと[字を]書くのである」
とあることや、それぞれが懐中にかなりの量を持っていたという記述から、石田氏もそう推測しています(上から下に文字を書くということも珍しかったのですね)。
日本では、江戸時代の川柳に「鼻をかむ紙は上田か浅草か」と詠われたように、浅草近辺で作られていた浅草紙(漉き返しの再生紙)や長野の上田紙など、鼻をかむときは紙を用いるのが一般的でした。(参考:東京和紙株式会社「和紙のおはなし」)
一方、当時のヨーロッパでは、鼻をかむのはハンカチもしくは手を使うのが一般的だったようです。紙を使うのは非常に珍しかったのでしょう。
そんな二つの文化が出会った結果、
支倉「へーっくし!」
↓↓↓
鼻をかんだ紙をポイ
↓↓↓
フランスの人々「わー! 僕にも/私にもちょうだい!!」
↓↓↓
鼻紙を争って殴り合いのケンカ
というなんとも不思議な構図ができあがったのでした。
チンドン屋さんが次から次へと撒くビラに子供たちが群がる、みたいな光景が、17世紀フランスで起きていたのですね。
しかも、支倉一行も若干調子に乗って、ガンガン鼻をかんでどんどん捨てていたらしい。
それが日本人とフランス人との初めての出会いだったとは。なんともシュールな絵面(えづら)で始まった両国の歴史。この他にも、侯爵夫人は支倉の風貌や一行の服装、それぞれが差していた刀などについても詳しく記述しています。
ローマの図書館に尋ねてみた
この支倉一行がかみ散らかした数々の鼻紙はその後、おそらく「人類史上最高の扱いを受けた鼻紙」となります。
なんと、ローマまで運ばれて、博物館に展示されたらしいのです。
山内昶著『「食」の歴史人類学』(1994年、人文書院)によると、
「ローマのアンジェリカ博物館と人類学博物館に、今もなお支倉の塵紙とされる数葉が保管されている」
(注:アンジェリカ博物館は正式には「Biblioteca Angelica」なので「図書館」とすべき)
とあります。
……マジで?
世の中には変わった博物館が種種あることは知っていましたが(世界の仮面だけを集めたオンライン博物館とか)、誰かが一度かんだ鼻紙まで保管してあるとはちょっと信じがたく、アンジェリカ図書館に問い合わせてみました。
私「お忙しいところすみません。……という話を聞いたのですが、本当でしょうか?」
アンナ・レッツィア・ディ・カルロさん(アンジェリカ図書館貴重書籍室)
「はい、本当です。Faxicuraの鼻紙は、当図書館にいまもあります」※支倉常長の名前は「Philip Francis Faxicura」や「Felipe Francisco Faxicura」などとも表記される
……本当にあった(たぶんないだろうと思ってた)。
アンナさん「その紙は、1615年に記された雑記資料とともに保管してあります。これがその資料です」
……全然読めない。教えてGoogle先生!
Google先生「これはラテン語だね。『REGIS VOXU IAPONI LEGATIS』とあるでしょ? これは『Japan’s ambassadors』という意味だよ。1615年11月3日、ローマ教皇庁聖ピエトロ聖堂において催された日本国奥州王使節のローマ教皇への公式謁見式についての資料だね」
さすがGoogle先生!ありがとうございます!
アンナさん「この本の中に、お探しの鼻紙が所収されていますよ」
確かに、他のページと紙質が異なっており、この部分だけ和紙であることが分かります。
やはり懐紙だったのですね。
残念ながら鼻水の跡は見られませんが(何を探しているのやら)、確かに支倉がかんだ鼻紙はローマに保管されていました。
アンナさん「当館には、Faxicuraの肖像画も伝わっていますよ」
それが、これ。
服装も髪型も超絶珍しかったのでしょう。妙にふっくらしている袖の描き方や脇差が右の腰に刺さっているところなど、おそらく描いた人も「なんじゃこりゃ!?」と思いながら描いたのであろうことが想像できます。
実はこのアンジェリカ図書館は、1604年に聖アウグスチノ修道会の司教アンジェロ・ロッカによって設立された、なんとヨーロッパ初の公共図書館。
非常に歴史ある図書館で、トム・ハンクス主演で映画化されたダン・ブラウン原作の『天使と悪魔』の撮影でも使われたのだそう。
残念ながら、この図書館になぜこの鼻紙が所蔵されているのか、アンジェロ・ロッカ司教が集めたものなのか、保管だけでなく展示されたことがあるのかなどはわかりませんでした。
ただ、資料は間違いなく1615年のもので、アンナさんはこの他にも関連する記述のページを送ってくれました。
(が、翻訳に死ぬほど時間がかかるのでここでは割愛しますが今後も調べてみたいと思います)
さすがすべての道が通じているローマ。蔵書のレベルも、エグい。
自分とは異なる「常識」と出会った時こそ
異文化との出会いは、時に衝撃を持って受け入れられます。その衝撃の大きさ故に、そうした文化を見下したり、拒否したり、あるいは排除したりすることも、人類は繰り返してきました。
ヨーロッパでは支倉渡欧時も、そしてその後も長く戦争の時代が続いていた事実も忘れてはいけませんが、400年以上丁寧に保管されてきたこの鼻紙や、詳しく書き留めた数々の記録からは、当時の人々が支倉一行の様子や日本人の風習を単に見世物的に珍しがるのではなく、それらを研究し、そこから何かを学び取ろうとしていたように感じるのは私だけでしょうか。
自分とは異なる「常識」や「当たり前」に接した時、どのような態度で臨むのか。
現代日本に生きる私たちも、この「人類史上最も丁重に扱われた鼻紙」に学ぶことが多いような気もするのです。
(ちなみに、アメリカ・ウィスコンシンのKimberly-Clark社がティッシュを開発・販売したのは、支倉の渡欧から250年後の1872年のことで、支倉をきっかけにしてヨーロッパで鼻を紙でかむ習慣が広まった、ということはないようです)。
支倉常長、そして慶長遣欧使節については、実は明治に入るまでその存在すら知られていなかった、スペインには当時彼らと関係を持ったとされる女性たちの子孫が「ハポン(Japon)」という姓で現在も大勢いるなど、興味深いエピソードがいくつもありますので、興味ある方はこちらもどうぞ。
本文に記載した以外の参考文献
:太田尚樹『支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産−−その旅路と日本姓スペイン人たち』(山川出版社、2013年)
:大泉光一『支倉六右衛門常長「慶長遣欧使節」研究史料集成』(雄山閣、2010年)