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2021.05.28

実は両者ミスだらけ?本当はこうだった「鳥羽伏見の戦い」勝利の影に隠れた意外な真相とは

この記事を書いた人

はじめに

一般に流布されている通説と現実との乖離が大きい幕末維新史のなかでも、戊辰戦争の発端に関することは、最も誤解が多いと思います。

戊辰戦争の「戊辰」とは、慶応4年=明治元年の干支で、この年の正月早々に大坂から北上した旧幕府軍と、京を根拠地とする新政府軍とが激突した、鳥羽伏見の戦いをもって「開戦」とみなしています。

しかし、その年越し前に発生した江戸薩摩藩邸焼き討ち事件も、旧幕府側は正規軍を動員して軍事行動をとっているため、事実上の開戦だと考える研究者もいます。

それはさておき、一般に認知されている通説とは、学術的に確定された定説のことではありません。この記事では、誤解に基づいた通説によらず、学術的に正しいことを書いていきます。

また、鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争勃発とします。このとき旧幕府軍が宣戦布告に相当する、薩摩藩討伐の趣旨を述べた「討薩ノ表」を携えていたからです。薩摩藩邸焼き討ち事件は、現代に当てはめると治安出動(一般の警察力では治安維持が困難な場合に、内閣総理大臣の命令または都道府県知事の要請による自衛隊の出動)に類似した出動で、戦争行為とはいえないだろうと思ったからです。

旧幕府と新政府側の軍事力を比較すると、圧倒的に旧幕府側の優勢です。ことに海軍力は、新政府側諸藩の軍艦が束になっても、艦隊決戦など覚束ないくらいに大きな戦力差がありました。また、第二次幕長戦争で劣勢を強いられた幕府は、フランスから軍事顧問団を招聘して、陸軍を大幅に強化しています。ことにフランス人が教育した伝習歩兵および伝習砲兵は、編制・装備ともに日本最強であったと断言できます。

以上のことを前提として、この先を読み進めてくださいませ。

破壊工作中止指令

大政奉還が実現したら、武力行使してまで幕府を倒す意味はありません。幕府を倒すのは、新体制を築くための手段であって、目的ではないからです。それでも幕府を倒したい、と考えた人たちもいます。手段の自己目的化というヤツですね。強大な幕府を倒そうとする俺たちカッコイイみたいな自己陶酔なのかもしれません。

一方で、大政奉還を否定、幕府再興を真剣に唱えた人たちは、平和的な新政権樹立にも反対で、武力に訴えてでも幕府の権力を恢復したいと考えていました。落ち目になった幕府を最後まで支え続ける俺たちカッコイイみたいな自己陶酔なのかもしれません。

守旧派も急進派も、下っ端の方はフンベツのない人が多かったけれど、武力による討幕を視野に入れていた人々も、指導者クラスは「あえて危ない橋を渡る意味がない」ことを悟っていました。大政奉還によって「討幕の密勅」は取り消されて無効となり、戦争に訴える大義名聞もなくなりました。【大政奉還の回参照

その一方で、江戸では薩摩藩邸を根城にして破壊工作を試みていた相楽総三ら、いわゆる薩邸浪士をどうするかが問題です。

慶応3年10月25日(1867年11月20日)に京都薩摩藩邸の吉井友実から江戸薩摩藩邸の益満休之助に宛てた書状では関東での破壊工作を見合わせるよう指示したうえ、薩摩藩が諸侯会議を是認する立場であることを述べています。これは、通説でいわれる「薩摩藩は諸侯会議を否定して倒幕戦争を目指し、関東での破壊工作を指令した」というシナリオにそぐわない内容ですが、事実は「鎮静」を指示しています。

在京鹿児島藩士吉井幸輔、書を在江戸同藩士益満休之丞「行高」・伊牟田尚平に致し、上国の形勢及本藩の態度を告げ、江戸藩邸内の諸浪人を姑く鎮静し、後報を待たんことを求む

『維新史料綱要』7巻 p310より

その書状で肝心なのは、この部分です。

云々之事状御見合可被成候、東西繰違ニテハ大ニ不宜、尤モ何事モ諸侯会議之上、朝議相居候……

『維新史料綱要データベース』KE150-0208より

なにごとも諸侯会議のうえで決めるというからには、この時点で武力行使を考えていなかったことは確かです。

また、11月9日には吉井幸輔(友実)から江戸藩邸留守居篠崎彦十郎宛に、浪士らを邸内に「召し置く」よう指示し、さらに12月10日にも幸輔から益満・伊牟田に宛てて「御鎮静くだされ」と、重ねて軽挙妄動を慎むよう指示しています。しかし、御用盗といわれる金品強奪事件は終熄せず、江戸は不穏な空気に包まれます。

幻の連立政権

慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古クーデターがあり、公卿や在京諸侯とその重臣らによって、徳川慶喜に対し「辞官納地」を要求することが議決されました。辞官とは内大臣の辞職、納地とは領土を朝廷に返納することです。【王政復古の回参照

慶喜が滞在していた二条城は、御所の目と鼻の先の位置関係です。そもそも大政奉還を納得していない幕臣が多数いて、一触即発の危険な状況でした。

旧幕府若年寄大河内正質「豊前守・大多喜藩主」・若年寄並兼陸軍奉行竹中重固「丹後守」等、二条城に麾下士及会津・桑名二藩の重臣を召集し、鹿児島藩討伐の策を議す。決せず。議論益沸騰す。

『維新史料綱要』7巻 p426より

大河内正質は、このあと15日には老中格に昇進していますから閣僚級の大物で、そんな人までが武力行使を唱えていたのです。

新政府を代表して交渉に当たっていた松平春嶽(前福井藩主)は、11日、慶喜に対して二条城からの退去を勧告します。ひとまず「距離を置いてください」ということです。慶喜は12日に二条城を退去、13日には大坂城に入りました。

大坂へ退去した慶喜は、政権に関与することを諦めたわけではありません。16日には大坂城黒書院にフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロイセン、オランダの公使を集め、王政復古の概略を説明したうえで「各国との交際はなお其責に任ず」と宣言しています。新政府には外交権を掌握できる能力はないと見ていたからです。

元征夷大将軍徳川慶喜、大坂城に仏国全権公使ロッシュ・英国特派全権公使パークス・米国弁理公使ファン・ファルケンブルグ・伊国特派全権公使ラ・ツール・普国代理公使フォン・ブラント・蘭国総領事ファン・ポルスブルックを引見し、大政奉還より王政復古に至る顛末を告げ、各国との交際はなお其責に任ずるを以て、益交誼を厚うせんことを望む旨を陳ぶ。

『維新史料綱要』巻7 p447より

新政府側も18日の朝議(朝廷の会議)では、幕府を廃して王政復古したことを諸外国に宣言すべく、その案が検討されました。

大日本国太政官、海外各国ノ公使等ニ移ス、天子、諸外国帝王ト、其臣民ニ対シ、祝辞ヲ宣フ、天子、酋帥有司ト詢リ、汝ニ告ルコト如左、
第一、往年、国政ヲ委任セル将軍ノ職ヲ廃スルナリ、
第二、大日本ノ総政治ハ、内外ノ事共ニ、皆酋帥有司ノ会議ヲ尽シ、奏スル処ヲ以テ、天子之ヲ決スヘシ、
第三、条約ハ大君ノ名ヲ以テ結フト雖モ、以後太政官ニ換フヘシ、是カ為ニ有司ニ命シ、外国ノ有司ト応接セシメン、其未定ノ間ハ、旧ノ条約ニ従フヘシ。

『復古記』第1冊 p309~310より

この通告案は、いったん決議されたものの、どうした事情か、通告は見合わされました。

同日、あらたに革政所を設置することが提案されました。諸藩の人材を結集させて、いわば日本代表チームを構成しようとするものです。その人選は以下のとおりです。

列藩(藩主級)
徳川内府(慶喜)松平閑叟(鍋島直正/佐賀藩隠居)
松平備前守(池田茂政/慶喜の実弟)伊達伊予守(宗城/宇和島藩隠居)
秋月右京亮(種樹/若年寄・高鍋藩世子)脇坂淡路守(安斐/龍野藩主)
池田信濃守(政詮→章政/備前新田藩主)長岡良之助(護美/熊本藩主の実弟)

諸藩士
徳川
永井玄蕃頭(尚志/若年寄)戸田大和守(忠至/山稜奉行)
平山図書頭(敬忠/外国総奉行)勝安房守(海舟・義邦→安芳/無役)
大久保一翁(忠寛/無役)西周助(周/目付)
山岡鉄太郎(鉄舟・高歩)松岡萬(新徴組発起人)

薩州
小松帯刀(清廉)高崎兵部(五六)
高崎左京(正風)五代才助(友厚)
桂右衛門(久武)

肥後
横井平四郎(小楠)

越前
三岡八郎(由利公正)

柳川
十時摂津(雪斎)

大垣
小原仁兵衛(鉄心・忠寛)

長州
桂小五郎事木戸準一郎(孝允)

因州
土肥謙蔵(實匡)

備前
牧野権六郎(成憲)

『復古記』第1冊 p310~311より

まず徳川慶喜が筆頭に掲げられていることに目を引かれます。また、諸藩士のうち徳川から8名、薩摩から5名、その他は1名ずつで、徳川家を与党第一党とする連立政権を形成しようとする案です。かつて倒幕戦争を覚悟していた人々からすれば、大幅な譲歩だといえます。しかし、慶喜は「辞官納地」の条件緩和を求めて交渉は難航、結局は戊辰戦争の勃発で革政所の構想は幻となりました。

江戸薩摩藩邸焼き討ち

王政復古クーデターからおよそ半月を経た12月25日、旧幕府は刷新された陸軍を動員して江戸の三田に位置した薩摩藩邸を焼き討ちしました。薩摩藩邸を拠点とする浪士らによって、市中の取り締まりに当たっていた庄内藩の屯所に鉄炮が撃ち込まれるという挑発行為があったからだとされます。

その浪士らは「関東浮浪の巨魁」といわれた水戸浪士の中村勇吉、相楽総三ほか関東草莽の志士たちで、もともとは乾退助(のち板垣と改姓)を頼って、築地の土佐藩中屋敷を拠点としていましたが、土佐藩の藩庁に危険な活動家を隠匿していることが知られてしまい、退助は失脚、浪士らは薩摩藩邸に移ったのでした。その経緯については、栗原亮一、宇田友猪 著『板垣退助君伝』第1巻に詳しく出ています。

「破壊工作中止指令」の項で述べたとおり、京都から江戸へ「鎮静」を指示していながら、浪士らの活動は止まらなかったのですが、いわゆる御用盗に関していえば、模倣犯の横行があり、本来は取り締まる側である庄内藩預かりの新徴組隊士による犯行があったくらいで、薩摩藩邸の浪士らが「鎮静」したところで、おさまるはずがないのです。

一金五千両余 日本橋 飛脚問屋 和泉屋某
右金子ハ諸家より京坂へ登せ金預かり分のよし、然る処当時市中取締庄内酒井侯より呼出有之、手代共罷出し処、此度賊難の儀糺有之、委細申立しに、酒井家附属新徴組の内に不埒のもの有之しを兼て押込置たるに、右申立の時日員数等符号に付、相違も有之間敷就てハ右の金子差戻すべし、尤も内金何程遣捨候哉、残金の儀ハ相渡べき旨に付成敗申付候間見置べく様申渡賊十余人為引出(引き出され)、不残(残らず)首斬て見せたるに和泉屋某驚き腰立兼漸々這出し其場を退き門外より駕籠にて帰宅せりと云

『嘉永明治年間録 巻16』40丁目より

なんと5000両もの被害に遭った飛脚問屋の和泉屋に、酒井家の側から新徴組による犯行だと通告したというのです。どれだけ残っているかはわからないけれど、犯行グループが遣い残した金を返還することに。いまなら元金に利子をつけたうえ慰謝料まで払わねばならない場合でしょうが、理不尽な封建社会にあっては、身内の犯行であることを申し出ただけでも酒井家は正直だといわねばなりません。そして、十人あまりの斬首刑を見せられた和泉屋は驚いて腰を抜かしたそうで、踏んだり蹴ったり、気の毒なことでした。

薩摩討つべし!

蒸気船を使えば江戸から京・大坂までは3日もあれば行けました。江戸で薩摩藩邸焼き討ちが検討されていることは、大坂城の慶喜にまで伝わっています。

慶応三年十二月二十五日薩藩邸焼討に関する談話
薩邸焼討の事は、板倉(勝静、老中)はいたく不同意なりき。初江戸に火事ありし時、庄内始めの人数多く集まりたれば、此機に乗じて薩邸を焼討すべしとの説ありしも、宥むる者ありて中止となりしが、此事京都に聞えしかば、板倉いたく憂慮して、「そは以ての外なり。上方も江戸も、ひたすらに静まり居り、薩藩をして乗ずるの機会なからしむること肝要なり」といへり。本来斯かる暴徒は直に打ち払ふべき筈なれども、今は其力もなく、且其関係する所重大なるをもて斯く憂慮せしなるに.江戸にては之に反して、焼討を機会に、上方の挙兵を誘はんとしたれば、遂に形の如き始末となれるなり。

渋沢栄一 著『徳川慶喜公伝』p259より

ここでいう「江戸に火事ありし時」とは、慶応3年12月23日の江戸城二の丸の火災をさしていて、薩摩藩士が放火したとの流言もありました。情勢不穏ななかですから、庄内藩兵をはじめ人数が多く集まってきたので、「この際、薩摩藩邸を襲撃しよう」という話になったけれども、このときは宥める者がいた、ということです。

新政府と慶喜との交渉は、慶喜の側が優勢に進んでいました。慶喜からすれば、あえて戦争という危険を冒す意味がありません。老中の板倉勝静も(武力行使は)「もってのほか」と言っていたけれども、江戸では事を起こしてしまいました。そのことを慶喜は、江戸の幕臣たちが「焼討を機会に、上方の挙兵を誘はんとした」からだと見ています。そして、その目論見どおり、大坂城の幕臣、会津藩、桑名藩などは薩摩藩邸焼き討ちを機に、薩摩藩との全面衝突に踏み切ろうとしていました。幕府権力の恢復に執着する守旧派たちの憤激は、ついに爆発したのでした。

かねて新政府は、慶喜に”軽装での上京”を求めていました。京・大坂間を頻繁に往復しながらの交渉では、時間がかかるからです。

慶喜の回想によると、

前に朝廷から軽装で私に上京しろといふことであつた。軽装で行くなら残らず行けといふ勢で、そこで尚上京しろといふ命令があつたからそれを幸ひ、先供でござると言つて出て来た。処が関門があつて通ることがならぬ、是は上京するやうにといふ朝命だ、朝命に依つて上京するのだから関門を御開きなさい、いや通すことはならぬ、朝命だから御通しなさいといふのだね。そこで押問答をして居る中に、其談判をして居る向ふの隊が後へ引いた、陣屋へ引いてしまふと、後から大砲を撃つた、そこで前から潰れた、すると左右に藪がある、藪の中へ予て兵がすつかり廻してあつた、それで横を撃たれたから、此方の隊が残らず潰れ掛つた、それで再び隊を整へて出た、斯ういふ訳である。其時の此方の言ひ分といふものは、上京をしろと仰しやつたから上京をするんだ、それをならぬといふのは朝命違反だといふ。向ふの方の言ひ分は、上京するなら上京するで宜いが、甲胄を著て上京するに及ばぬ、それだから撃つたと斯う言ふ。それはつまり喧嘩だ。まあさういふやうな塩梅で、唯無茶苦茶にやったのだ。

渋沢栄一 著『徳川慶喜公伝』巻7 p278~279より

最前線を見たはずもない慶喜が、正確に状況を把握していることに驚かされました。各種史料を検討すれば、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いの緒戦は、概ねこの通りだったとわかります。いずれの陣営も首脳陣は戦争を望まなかったけれど、現場の憤激を抑えがたく、ついに始まったわけです。

このとき徳川勢の先頭にいた大目付の滝川具知は、『討薩表』という朝廷に捧呈する出兵の趣意書を携えていましたが、それは慶喜の真意を記したものではなかったようです。そのとき江戸にいた若年寄の浅野氏祐が伝え聞いたのは、以下のとおりです。

君側の悪を払ふと云奏聞状の如きも、慶喜公には御同意なくて、既に墨を以て一度は消し給ひしが、後には寧ろ慶喜公を刺し奉りても、徳川の御家には代へ難しと言ふが如き暴論ありて閣老初これを制御する不能、

渋沢栄一 著『徳川慶喜公伝』巻7 p281~282より

主君を刺し殺してでも戦をしたい……主君のために死ぬのが武士のさだめ、自分たちのために主君を殺すとは、どう考えても本末転倒で不忠の極みですけれど、頭に血が上ると人は見境を失うものなのでしょうね。

この肝心な時に、慶喜は体調を崩していました。

……私は不快で、其前から風を引いて臥せつて居た。もういかぬといふので、寝衣のまゝで始終居た。するなら勝手にしろといふやうな少し考もあつた。

渋沢栄一 著『徳川慶喜公伝』巻7 p281より

この「するなら勝手にしろ」が、慶喜の運命を決してしまいました。慶喜の腹心、平岡円四郎と原市之進があいついで暗殺されていなければ、慶喜はドタンバを乗り切っていたかもしれません。

鳥羽街道での開戦

日本最強の旧幕府陸軍が、圧倒的な兵力で京を目指して行進するあいだ、劣勢な新政府側は指をくわえて傍観するだろう……とでも考えていたらしく、旧幕府側の作戦計画は、京都市内の要所を占領確保したうえで開戦する手筈でした。

○軍配書
一奈良街道小堀口 牧野駿河守
一御城近傍一円市中巡邏 撒兵組
一福王駿河守荘勘兵衛附属一大隊
   右者、大津ヨリ三条大橋マテ繰込候事、
一松平讃岐守人数 黒谷同断
一稲垣平右衛門人数 大仏兵糧護衛
一松平伊予守 天保山
一御城廻リ巡邏 会藩板倉伊賀守人数
一松平刑部大輔 御門々勤番 但、戸田采女正へ交代
一紀伊殿人数 天王寺真田山並ニ市中巡邏
一御城廻リ関門十四ヶ所 小林端一歩兵一大隊、外ニ外国人旅宿廻リ巡邏之事、
一大坂御城御警衛 戸田肥後守 大久保能登守 奥詰銃隊八小隊 杉浦八郎五郎 三浦新十郎 撒兵四小隊 但、御城御門々勤番二小隊ニテ相心得候事、
  天野鈞之丞守城砲
一大坂蔵屋敷 天野加賀守 塙健次郎 撒兵九小隊 吉田直次郎砲兵二門 会藩四百人
一兵庫 須田敬一撒兵半大隊 大砲二門
一西之宮 酒井雅楽頭人数 松平阿波守人数半大隊 撤兵一中隊 頭取一人
一橋本関門酒井若狭守 松平下総守人数
一淀本営 騎兵三騎 別手組十人
  松平豊前守出張差図次第京都へ繰込候事、
  松平豊前守一小隊四十人 室賀甲斐守二小隊 戸田采女正人数五百人
一鳥羽街道 竹中丹後守 秋山下総守歩兵一大隊 小笠原石見守歩兵一大隊 谷土佐守砲兵二門
 桑名四中隊 砲兵六門 騎兵三騎 築造兵四十人 松平右近将監家来三十人
  右、攻撃当朝鳥羽ニ出張、東寺へ向候事、
一伏見 城 和泉守 窪田備前守歩兵一大隊 大沢顕一郎歩兵一大隊 間宮銕太郎砲兵六門
 新撰組百五十人 騎兵三騎 築造兵四十人
老、攻撃前日出張之事、
一二条御城 大久保主膳正 徳山出羽守歩兵二大隊 砲兵四門 騎兵三騎 佐々木只三郎見巡組四百人
 本国寺二百人 築造兵四十人、騎兵四騎
  右、攻撃前々日出張繰入候事、
一大仏 高力主計頭 横田伊豆守歩兵二大隊 砲兵二門 騎兵三騎 築造兵四十人 会藩四百人 砲兵一座
  右、攻撃前日大仏へ出張之事、
一黒谷 佐久間近江守 河野佐渡守歩兵二大隊 騎兵三騎 安藤?太郎砲兵四門 築造兵四十人
 会藩四百人 砲一座
  右、攻撃前日黒谷へ出張之事

『復古記』第九冊 p2~4より

堂々たる布陣です。この態勢から開戦すれば、新政府側は一昼夜で壊滅したことでしょう。しかし、行軍の途中で阻止されることを想定していなかったのは致命的ミスでした。ことに鳥羽街道では、長い押し問答の間、歩兵に弾込めすらさせず、ただただ棒立ちさせておき、開戦劈頭、一方的に撃たれるばかりの状況を生んでいます。指揮官の滝川具知は、薩摩藩兵の第一発目の砲撃を至近に受け、乗馬のまま味方を蹴散らしながら一目散に逃走、自軍を大混乱させています。こうなっては日本最強の陸軍だって戦いようがありません。

見損じを見損じる

伏見市街地の状況については、ワタクシの祖父である大山柏(故人)の『戊辰役戦史』から、旧幕府側のもうひとつの致命的ミスを御紹介します。

なお、この日の戦闘で少なくともその初期には土佐藩は参戦していない。土藩の渋谷伝之助小隊の正面には、会兵が来て問答のすえ、「土佐守備地域の右翼を迂回前進するのは勝手次第」という返答を得た。会の白井五郎太夫の大砲隊は砲三門を途中に捨てて一門だけを持ち、土兵守備地域の右を回り、その背後に出て伏見堺町の薩摩屋敷を襲ったが、空邸だったので火を放った。なおも竹田街道(伏見北西から竹田を経、鴨川に沿って京都の南東部に至る街道を北進したが、途中で正面の戦闘が不利なるをもって呼返された。その一部は、なお退却せずに京都に入り、その帰路竹田付近で夜半鳥羽方面の薩左翼の外城一、二番隊と戦った。

だが、この際の措置もまずかった。折角「竹田街道無守備」という報を得て一部の会兵が前進したのだから、若しこの報が適時に竹中指揮官に達したなら、正面の一部の過剰幕兵(当時なお一大隊は伏見南端の浜町付近に待機しておった模様)を会兵に追及せしめ、土兵の背後に出で東方に向かって攻勢をとれたであろう。さすれば逆に、長、薩兵の右背を完全に包囲攻撃できたものを、恐らく竹中は「竹田街道に敵なし」の報告を受けず、全く知らなかったものと判断される。また会兵自体も北上ばかりせず独力で西方から側背攻撃をしたら、奉行所や御堂付近の友軍に協力できたものを、惜しいことをした。

(大山柏『戊辰役戦史』上 p74~75 時事通信社 昭和43年 初版より)

新政府側は竹田街道を守備すべきことを見損じていて、会津兵がそれに気づいたけれども、局地的な劣勢に目を奪われて、迂回に成功した部隊を呼び戻してしまったのでした。その後方に、狭い市街地に投入しきれなかった兵力があったのだから、それを竹田街道に送り込んでいれば、数時間後には旧幕府側が京都市街地の要所を占領できていたことでしょう。新政府側の見損じを、旧幕府側が見損じているわけです。

錦の御旗はホンモノか?

開戦の翌日にあたる1月4日、新政府軍の本営を設置した東寺に錦の御旗が掲げられました。それはニセモノじゃないのかと、よくいわれておりますけれども……

天皇みずからが、重臣列座の席で宮様に授けた旗を、誰が「それニセモノですよね」といえるでしょうか? 材質だの意匠だの、そんなことはハッキリいってどうでも良いのです。天皇陛下から授与されたことがホンモノの証しです。

後年、陸軍の聯隊旗は戦場で傷つき、擦り切れ、破れ、ほとんど旗の形状をとどめなくなって飾り房だけが残っているような状態でも、天皇に授けられたものだからといって、神聖視していました。旗そのものより、天皇から授かったという物語の方が大事だったのです。ですから、鳥羽伏見の戦いで掲げられた錦の御旗も、天皇から宮様へ授与されたという時点で、揺るぎない存在価値が生じていたのです。

『戊辰戦記絵巻物』より 征討大将軍錦旗節刀拝受出典:国立国会図書館デジタルコレクション

錦旗を戦場に掲げることは、スンナリ決まったわけではありません。なにせ圧倒的兵力を有した旧幕府軍が京都へ迫ってきているのですから逡巡するのは当然です。

はるかのち、明治39年に首相となった西園寺公望は、このとき満18歳、若年の公家でした。五摂家に次ぐ九精華と呼ばれる格の高い西園寺家の当主だったので、宮中で軽んじられるはずもなく、勃発した鳥羽伏見の戦いを朝廷としてどのように受け止めるかについての論議に加わっていました。

伏見に戦端が開けたとの報が宮中に達した、すると其藩から出て居た参与の某々が、戦争が始まったらこれは私闘にしてお仕舞なさい、然らざれば他日朝廷のために如何なる憂を遺すかも知れませんといった、その時私は言下に、此戦を以て私闘とするが如きことあらば、天下の大事去るといった、所が岩倉が側に居って思はず知らず、小僧能く見た、この戦を私闘にしてはどうもならん哩……と叫んだ、全体岩倉といふ人は其頃は厳々格々といふ事を口癖にいふて、言葉遣ひなど切口上で以て、小僧には相違ないが同席に向って殊に斯の如き席上にて小僧などとは決して言はぬ人であった、其時はよほど嬉しかったと見える、実は此場合は油断のならぬ刹那であって、随分アントリーグもあった時です、私も賛成を得てホッと息を吐いたことを覚えて居ます。

西園寺公望 『陶庵随筆』 p81より

引用の冒頭から「その藩から出ていた参与の某々」が、徳川家と薩摩藩との私闘ということにしてしまおう、などと発言しています。名前を伏せていますが、状況から考えると芸州広島藩の辻将曹という人です。薩摩、土佐、芸州の三藩は「天下の大政を議する全権は朝廷にあり、我皇国の制度法則一切万機議事室より出るを要す」 という内容の密約を交わし、新政権樹立に加わるはずだったのが、いざ戦争が始まってみると、こういうことを言ったわけです。この一言がなかったら、勝ち組になった薩長土肥の間に芸も入っていたに相違ございません。

若き公望は、「この戦いを私闘にしてしまったら、天下の大事は去る」と反論しました。新政府側を官軍と位置づければ、たとえ戦いに敗れても慶喜は官軍に敵対した朝敵だということになります。そうすれば新政府側は勢力挽回の機会を窺うことができます。しかし、目先の安全のために薩摩藩を見捨てて私闘ということにしてしまえば、このあと朝廷の側に立って戦おうとする勢力はいなくなってしまう……ということが「天下の大事去る」の意味であるように思えます。

ふだんは厳格な岩倉具視が「小僧、よく見た」と、思わず知らず叫んでいたというのですから劇的な場面です。公家としての格は岩倉家よりも西園寺家の方がずっと高いので、小僧呼ばわりされたのには公望も驚いたことでしょう。

この青年公家の一言をきっかけに、薩摩、長州、土佐、いわゆる薩長土の三藩は官軍となりました。この場面に限っていえば「勝てば官軍」ではなく、「負けを覚悟で官軍」だったのです。
公望は「随分アントリーグ(密会)もあった」と証言していますけれども、もとより日本人同士の内戦ですから、噂話レベルで情報はダダ漏れだったと考えなければなりません。

まったくの余談ですが、岩倉が「小僧」呼ばわりしたことについて、同席していた東久世通禧は以下のように回顧しています。

其時西園寺公望未だ十七八歳なる末席より進み出で今日の戦ひを私闘になさらば朝廷は必ず滅亡に至りますぞと呼つた、岩倉卿これを聞て天晴ぼんちよう言うたと賛成したれば朝議立ろに決して討幕の議は即ち定まつた

東久世通禧 述『維新前後:竹亭回顧録』p234~235より

なるほど「小僧、よく見た」だと厳めしいけれど、「あっぱれボンチよう言うた」なら、お公家サンらしい言葉つきですね。いずれが事実かは、みなさまの御想像にお任せしますけれども、大筋において「若造」を意味する言葉で呼ばれたのは間違いないでしょう。

天皇脱出路を確保せよ

まずは舌戦で大金星を獲得した青年公望に、丹波への出陣が命じられました。

何故に山陰道へ出たか……これは御尤な疑問です、かういふ訳であったのです、元来昔から京都で敵を防ぎて勝った例がない、是は頼山陽などの説から来たやうです、いつも 天子様は叡山へ難を避け給ふたが、叡山は地の利を得ない、よって万一の事があったら西の方へ行って、彼の明智光秀の上って来たといふ老ノ坂から丹波の方へ出て亀山の城を乗取って、丹波の方で防がう、それから山陰道をズッと従へて長州と手を合する事にしようといふ相談がきまったのです、蓋し真に枢機を握って居た人々には別に見る処があったかも知りませんが、兔も角も万一の時は山陰道の方へ御遷坐を願はうといふ覚悟であった、そこで私は伏見の戦が始まると直ぐ山陰道鎮撫総督といふものになって、何でも長州と薩州の兵隊を大勢引連れて丹波の方へ行きました。

西園寺公望 『陶庵随筆』 p91より

公望からすれば、山陰道への出兵は唐突な命令だったようです。旅費の用意もないので、ありあうカネを引っ掻き集め、慌ただしく出発しています。しかし、西郷隆盛や岩倉具視にとって、鳥羽伏見の敗北と、天皇を動座(旧幕府側からすれば、連れ去られることを意味します)させることは想定のうちでした。

西園寺公望。出典:大山柏『戊辰役戦史』

大政奉還と時を同じくして「討幕の密勅」が作成され、それが取り消されることがありました。未発に終わった戦争計画でも、旧幕府軍に京都を攻めさせ、討幕軍は天皇を連れ去って西国に逃げるというプランでした。

大意
・開戦前夜に天皇を秘かに御所から移す
・砲声が響いたら堂々と鳳輦(天皇の乗物)を移動させる(オトリ)
・その間に天皇を山陰道に逃がす
・もし大坂で戦うなら天皇は京都に留める
・中山忠能(明治天皇の外祖父)は是非とも山陰道へ御供すること。
・警衛の人数を考えておく
・岩倉卿は京に踏みとどまって存分に戦うこと

多田好問『岩倉公実記』下巻 1 p231より

鳥羽伏見の戦いに備えて用意されたプランではありませんが、このプランを流用して、山陰方面に天皇の脱出路を開こう、ということで公望が山陰道に派遣されたのでした。公望にとっては唐突な出張命令でした。「えっ、聞いてないよ」とでも言いたかったことでしょう。

まさに「こんなこともあろうかと」みたいに発表された脱出計画を知って公卿たちは安堵したようです。東久世通禧の回想を見てみましょう。

幕府の勢ひは甚だ強烈にして、動もすれば官軍苦戦に陥ることあり、殊に当時薩州長州の兵極めて少く土佐の兵も僅に一大隊に過ず、此時官軍の戦闘力は幕軍の兵力に対して其半にも及ばず、比に於て公卿は皆恐怖し動揺して策の出る処を知らず、餅は餅屋に任せざる可らず西郷隆盛は此の大艱難の際に泰然として策を決したる也彼は三条卿、岩倉卿に議して万一伏見鳥羽の官軍敗れて幕軍京都に入んとする場合には天皇を丹波路より山陰道へ御供いたし行在所を中国に建て、安芸、長防の兵を以て中国より攻上るべし、先づ西園寺卿を山陰道総督として、先発せしむべしとて黒田嘉右衛門清綱を参謀とし二中隊の兵を率いて丹波路へ赴かしめた、是は四日の早天の事である、

東久世通禧 述『維新前後:竹亭回顧録』p238より

公望の出発が四日の早朝なら、「小僧」呼ばわりされたのは三日の深夜でしょうね。山陰道への進軍は、長州藩による事前工作が奏功して、丹波弓箭組という地域横断型の広域民間団体が西園寺総督のもとに結集するなど、順調でした。行く先々で味方を増やした公望一行は、最終的に態度不明瞭だった松江藩へ挑戦状を叩き付けるほどの兵力に膨れあがっています。

結果的に、鳥羽伏見の戦いは新政府側の完勝でしたから、公望の山陰道への出兵は、格別な重要性を失ってしまいました。しかし、旧幕府軍が順当に勝利していれば、山陰道への天皇脱出は決行されていたはずです。尊王派が強かった因幡鳥取藩あたりが、亡命政権を受け入れたかもしれません。そうなれば、後醍醐天皇の故事に倣って、船上山に陣を構えて旧幕府軍を迎え撃ったりしたかもしれませんね。

思ってもいなかった大勝利

両軍とも致命的失策をおかしながら、結局のところ新政府側はミスをカバーでき、旧幕府側は更に失策を重ねて敗北した感じです。

最も大きな要因は、5日に仁和寺宮さまが錦旗を携えて最前線まで出たことでしょう。この報が大坂に達したがゆえに、もともと戦意が乏しかった慶喜は、6日に大坂城を脱出してしまいました。そのあと旧幕府側は支離滅裂です。

錦旗とて、旗を掲げているのが公家であれば衝撃的な効果は得られなかったでしょうけれど、宮様が持っているのではニセモノ呼ばわりも出来ませんからね。ちなみに錦旗と宮様を護衛したのは、西本願寺が独自に編成した歩兵部隊でした。新政府側は薩長だけじゃないのです。

さて、鳥羽伏見の戦いに関しては、なにが起きなかったどころじゃありません。大きな事象だけでも

・革政所構想が潰えて連立政権が幻に
・画餅に帰した旧幕府軍の『軍配書』
・未発におわった山陰道への天皇脱出

三つもあります。

鳥羽伏見の戦いの勝敗を分けたのは、互いの人為的なミスが作用していますけれども、偶然の要素も大きいです。戦争って、不確定要素が大きいから、アリエナイことが起きてしまうこともありまして、ともあれ鳥羽伏見の戦いは、新政府側に思ってもいなかった大勝利をもたらしたのでした。

参考文献

戊辰戦争の発端についての学術的な最新研究は、町田明広さん(神田外語大学 外国語学部 国際コミュニケーション学科 准教授)による「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察―「三田品川戦争」への再定義」(軍事史学第56巻第3号所収)です。専門誌は入手が面倒なうえ、コロナ禍で図書館が利用できなかったり、なかなかハードルは高いけれども、戊辰戦争に興味がある方は是非どうぞ。

ネットで閲覧できるなかでは2003年の論文で高橋秀直(故人)『「公議政体派」と薩摩倒幕派:王政復古クーデター再考』が、ずいぶん読みやすいのでオススメです。

※著名な故人に対しては敬称をつけないのが礼儀です。たとえば川端康成サンと敬称をつけて良いのは、生前に交際があった人くらいではないでしょうか。
 この「王政復古クーデター再考」は、一般に流布している俗説とは大きく異なる歴史的事実を綴っていますから、内容に驚く人も多いだろうと思います。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。