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2021.06.30

五色の短冊を笹竹につけて飾るのはいつから?七夕の由来と行事の変遷 【彬子女王殿下と知る日本文化入門】

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日本の節句のうち、空を見上げ当日の天気にドキドキ、ソワソワとするのは七夕ならではのような気がします。「年中行事で知る日本文化」をテーマにした彬子女王殿下の連載。今回は七夕の由来や、さまざまな形で続いてきた七夕の行事についてです。

子どもの頃の記憶を呼び起こす七夕バス

文・彬子女王

七夕が近くなると、京都の市バスは七夕の装飾をしたバスを走らせる。外側は、天の川のように星が貼られ、内側は近隣の子どもたちが書いた短冊や天の川、網、提灯などが、笹の葉に吊るされたもので覆われるのである。

子どものころは、我が家でも笹を切ってきて、宮家職員や側衛さんたちにも短冊を書いてもらって飾っていた。女子職員と一緒に、折り紙で短冊や輪飾りなどを作り、事務所や側衛さんたちに短冊を配って、「早く書いて!」と催促に回ったものだ。新しく来た職員の字が意外ときれいなことに驚いたり、この人はこんなことをお願いするのかとニヤニヤしたり。笹を取り付けた階段に座って、七夕飾りを眺めながら、あれこれと思いをはせるのが好きだった。いつの頃からか七夕飾りの習慣も廃れてしまい、お願いごとを書くこともなくなった。だから、その七夕バスは、そんな子どもの頃の記憶をいつも呼び起こしてくれるのである。

座った席のあたりの短冊は、ついつい読み込んでしまう。「ケーキやさんになりたい」とか「サッカーせんしゅになりたい」といったお馴染みの願いごともあるし、「いちまんえんください」とか「大きいテレビがほしい」といったとても現実的で現代的な願いごとも。「ばいきんまんがすき」とか「かいじゅうになりたい」とか、強烈な個性を放つ短冊は思わず二度見してしまう。どんな子が書いたんだろうなと想像していると、あっという間にバスに揺られる時間は終わっている。

そこでふと思った。なぜ、七夕に願いごとをするのだろうと。

『千代田の大奥 七夕』 国立国会図書館デジタルコレクションより

本来は女性のお祭りに近い?七夕の由来

七夕は、中国から伝わってきた乞巧奠(きこうてん/きっこうてん/きっこうでん)の行事に由来している。乞巧とは、「巧みを乞う」、奠は「祭り」という意味。つまり、手芸に巧みな織姫にあやかり、女性たちが手芸の上達を「乞い願う」お祭りなのである。今は、3月3日の桃の節句の方が女性のお祭りのように思われているけれど、笹竹の節句の方が本来は女性のお祭りに近いのだろう。いつの間にか、手芸の上達どころか、織姫さまと彦星さまにお願いごとをしてもいい日になっているのは、ハロウィンもクリスマスも受け入れて、日本風に変えていく日本らしい。

6世紀の中国、長江中流域の年中行事を記した『荊楚歳時記(けいそさいじき)』にはこのような一節がある。

「天河の東に織女有り。天帝の子なり。年々機杼もて役に労め、雲錦の天衣を織り成す。天帝其の独り処るを哀れみ、河西の牽牛郎に許配す。嫁ぎし後、遂に織紝を廃す。天帝怒り責めて、河東に帰らしむ。唯だ毎年七月七日夜にのみ、河を渡り一たび会はしむ。」

天の川の東に住んでいた、天帝の娘である織女はいつも熱心に機織りをして、美しい衣を織っていた。一人でいるのを哀れんだ天帝が、天の川の西に住む牽牛に嫁がせたが、機織りをやめてしまった。それを怒った天帝は天の川の東に帰らせ、一年に一度だけ川を渡って会うことを許した、というお話である。

子どものころから慣れ親しんだ七夕伝説だけれど、新暦の7月7日は梅雨の最中。空を見上げても、天の川は見えないことが多い。「今年も雨で会えそうにないね」とある人に言ったら、「大勢の人に見上げられるより、年に一度だけなら二人きりでひっそりと逢瀬の方がよいんじゃないですか」と言われた。たしかに。その方が余程ロマンティックかもしれない。それ以来、雨の七夕が嫌なものではなくなった。

日本における七夕行事の変遷

日本では、奈良時代頃にこの伝説と乞巧奠の行事が中国から伝来したと言われている。そして、機織りであった織女のお話と、日本に昔からある、乙女が水辺の棚に設けた機屋 (はたや) にこもり、神の降臨を待って一夜を過ごすという棚機女(たなばたつめ)の伝承が一緒になり、7月7日を七夕(たなばた)と言うようになったようだ。

桃、梨、茄子、瓜、大豆、干鯛、薄鮑などを清涼殿の東庭に供え、蓮の果托を盛り、楸(ひさぎ)の葉一枚をおき、金・銀の針各7本をさし、7つの孔に五色の糸をより合わせて貫く。灯明を立て、終夜香をたき、天皇は庭の倚子(いし)に出御され、二星の会合を祈られるという乞巧奠。平安時代には、貴族たちも邸宅で行うようになり、二星会合と裁縫や詩歌、染織など、技芸が巧みになるようにとの願いを梶の葉に書きとどめたことが平家物語にも記されている。茄子や瓜、蓮などがお供えされているあたりは、どことなくお盆の行事も感じさせる。いろいろなものを取り入れて、新しいものを作ることが、昔から日本人は得意なのだろう。そのDNAが脈々と受け継がれていることがなんだか誇らしくもある。

南北朝時代のころからは、七遊といい、七百首の詩歌、七調子の管絃、七十韻の連句・連歌、七献の酒など、七の数に掛けた各種の遊びも行われるようになり、江戸時代には五節句のひとつとして広く一般家庭にも広がったようだ。和歌や願いごとを書いた五色の短冊・色紙、切紙細工を笹竹につけて飾るという、現代に伝わる七夕文化が形作られたのである。

『千代田の大奥 七夕』 国立国会図書館デジタルコレクションより

裁縫の上達を願うお祭りが、裁縫などの技芸の上達を願うお祭りになり、どんなお願いごとをしてもいい日に変化していく過程は、おおらかで、ある意味とても日本らしい。今年は、本義にかえって手芸の上達を二星にお祈りしようか。いや、やはり今年も、この落ち着かない世の中で、少しでも多くの方たちの心が穏やかでありますようにと祈りたい。会いたくてもなかなか会えない、牽牛と織女の思いを心から理解できる今だからこそ。

書いた人

1981年12月20日寛仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。