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2021.07.31

徳川家康、前田利家…五大老の「刀」を言い当てた!?天下人「豊臣秀吉」は、ズバリ人間観察の鬼だった!

この記事を書いた人

「『刀』と『車』ってさ、ある意味似てない?」
「はあ?」
やれやれ、この夕食時に。禅問答のようなワケ分からん話がまた始まった…。そんなダダ漏れの声を、あえて無視して話を続ける。既に彼の困惑顔は見慣れている。というか、暫く見ていないと、逆に見たくなる。

「つまり、戦国武将にとっての『刀』って、現代人でいうところの『車』かなと」
「それって『馬』じゃねえ? 『車』に当たるのは『馬』」
「はあ?」
今度は私が聞き返す番だ。「刀」が「車」で。その「車」が「馬」で。いやいや、連想ゲームじゃないのだから。入り組んでややこしくなる前に、とにかく話を先に進める。

「ウチの車を選んだ理由って?」
「北海道の雪道に強そうだから」
でも、(移住先の)名古屋じゃ不向きなんだよな、とぼやく彼。

さて、いつものウチの会話はこれくらいにして。
「車」には、乗る人の性格がよく表れるように思う。考えてみれば、メーカーやら車種やら色まで。1つの車を選ぶのに、その組み合わせは途方もなく多い。個性が滲み出るのも頷ける。

一方、戦国時代では。
商売道具の「刀」は、自分の命運を左右する重要なモノの1つ。もちろん、彼ら戦国武将のこだわりも半端なかったに違いない。種類や長さのみならず。刀工、製法、デザインなど、自分好みの一刀を追求する者もさぞや多かったことだろう。

逆をいえば。
「刀」を見れば、その人となりが分かるもの。そんな個性豊かな「刀」の持ち主を、誰一人間違えることなく言い当てた人物がいる。驚くべき観察眼を持ち合わせ、天下統一まで成し遂げたあのお方。

その名も、豊臣秀吉公。

歌川延一 「佐久間盛政秀吉ヲ襲ウ 」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

ちなみに、誰の刀かというと。
出てくるメンバーは錚々たる顔ぶれ。
宇喜多秀家(うきたひでいえ)、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、徳川家康の「五大老」。

一体、彼らはどのような刀を好んでいたのか。
もちろん、この5人の性格、バックグラウンド、戦い方などを知った上で。それぞれの刀を推察した秀吉の驚くべき能力も必見。それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、月岡芳年 「大日本名将鑑」「豊臣秀吉公」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります
※この記事は、「豊臣秀吉」の表記で統一して書かれています

武田勝頼を惜しんで、信玄には軽口?

と、その前に。
まずは、豊臣秀吉の「観察眼」について、触れておきたい。

豊臣秀吉の経歴は、まさに戦国の「下剋上」をそのまま体現したようなもの。織田信長の草履取りに始まって、あれよあれよと出世し、いつしか代々仕えている武将らとも肩を並べる存在に。

そこまでかと思いきや。自分を取り立ててくれた主君の信長が、まさかの「本能寺の変」で自刃。じつに、天下を取る一歩前というタイミング。そんな信長には二男、三男、はたまた長男の孫までいながら。権力のバトンタッチは、なかなかどうしてうまくいかず。

その隙を狙って。漁夫の利の如く、横からこそっと天下をかっさらったのが、なんとこの豊臣秀吉であった。信長の意志、政策を受け継ぎつつ、さらに独自の進化を加え、晴れて天下人となったのである。

これだけ見れば。
単に「強運の持ち主」だからと思えなくもない。しかし、天下取りの偉業は、人の懐に入り込むのが得意だった秀吉だからこそ成し得たコト。対象人物の一挙手一投足をじっくりと観察し、どのような出方がベストなのかを判断する。この「観察眼」は、出自にコンプレックスを持つ彼ならではの武器。

だからなのか。秀吉は「観察眼」を発揮して、古今東西、多くの人物を評価していたようだ。例えば、コチラのお方。「甲斐(山梨県)の虎」で有名な武田信玄。

月岡芳年 「大日本名将鑑武田大膳太夫晴信入道信玄」「大日本名将鑑」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

信玄は、実力、タイミングと、天下取りに必要なスキルを兼ね備えていたのだが。「上洛」を目指すも、道半ばでこの世を去る。そんな彼に対して、秀吉はというと。

「その謙信・信玄の両坊主ともに早く死んで外聞がよいことぞ。もし今まで生きておれば、わしの乗り物の先に立ち、朱傘をもたせ上洛の伴をさせたのに、早く死んだためにいちだんとしあわせだった」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

早く死んで良かったと。
まさかの武田信玄のみならず、上杉謙信に対しても、この言い草。ただ、見方を変えれば。秀吉がこうして軽口を叩くのは、彼らの実力を認めていた裏返し。そんな心情の表れといえるのかもしれない。

さて、そんな2人の名将を亡くした両家だが。
その後は、対極の結末が待っていた。

まずは、一族内で跡目争いが勃発した「上杉家」。
その先行きに大きな不安を抱くも、紆余曲折を経て勝利したのは「上杉景勝(かげかつ)」。秀吉に臣従し、のちに「五大老」の1人となって、上杉家を会津120万石の大名へと導く人物である。ちなみに、コチラの景勝は、次の「刀」の話にも登場する。

一方で、悲劇的な結末を迎えたのが。
武田家を率いた「武田勝頼(かつより)」。

歌川国綱(2世)筆 「天目山勝頼討死ノ圖」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

領土拡大に勢いがあったのも「長篠の戦い」まで。これが武田家のターニングポイントとなる。武田家二十四将らの多くを失い、その後は家臣たちの心も離れる始末。こうして、裏切りの連続の末、武田家は滅亡の道を辿る。

そんな悲劇のプリンスである「武田勝頼」。
彼に対して、秀吉はこんな言葉を残している。

「勝頼が死んで甲斐が平定されたと伝え聞いて、大息し『勝頼のような人を殺したのは惜しいことだ。わしがもし軍中にいたなら、強いて諫めて勝頼に甲斐と信濃の二州を与え、関東の先陣にしたとすれば、東国はたちまち押しまくれたものを』とくり返して悔やんだ」
(同上より一部抜粋)

なぜか、勝頼に対しては、思いっきりの上司目線。「こんな家臣が欲しいものよ」と、惜しい気持ちが前面に出ている。なんといっても、勝頼はあの名門武田家、そして諏訪家出身でもある。少々生意気だが、あの勝気な性格をうまく使えば、と考えたのだろうか。

滅亡という結末はあまりにも勿体ない。
ただ、それも人心掌握術に長けた秀吉だからこそ言えるコト。
「上杉景勝」を飼いならしたように。「武田勝頼」のそんな姿も見てみたかった気もする。

5人の刀をピタリと当てたその理由

さて、いよいよ本題へ。
そんな豊臣秀吉ご自慢の「観察眼」をもってして。周囲の人を驚かせたエピソードがある。それが「刀当て」の話である。

場所は伏見城。
どのようなシチュエーションだったかというと。秀吉が広間に出たところで、ちょうど、刀が目に入ったのだとか。そこには5本の刀があった。

傍にいたのは、五奉行の1人である「前田玄以(まえだげんい)」。秀吉は気の向くまま。それぞれを指さしながら、誰のものか当ててやろうと持ちかけた。そうして、その持ち主を、間違えることなく全て言い当てたというのである。

これには、前田玄以も非常に驚き、「神智の持ち主」だと大絶賛。秀吉は、何ら変わったことはしていないと。その理由を語ったという。それでは、お待ちかね。秀吉はどのようにして刀の持ち主を見分けたのか。種明かしといこうではないか。

まずはコチラの2人。
「宇喜多秀家」と「上杉景勝」。

落合芳幾「太平記英勇伝」「九十三」「浮田中納言秀家」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

「宇喜多秀家」は、幼い頃に父の直家を亡くし、秀吉の庇護を受けた人物。父の遺領を継いで岡山城主となり、のちに五大老へと出世。秀吉の養女である「豪姫(ごうひめ)」を娶ったことでも名が知られている。

一方、「上杉景勝」は、先ほどご紹介した通り。
この2人の性格から、秀吉は彼らの刀をこのように見立てたという。

「まず(宇喜多)秀家は美麗を好む性質なので、金装の刀は秀家の品と分かる。(上杉)景勝は長いものを好むので、寸の長い刀であろう」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)

補足すれば。
上杉謙信は有名な愛刀家。そして鑑定家でもあった。じつは、子の景勝も同様で、お気に入りの刀剣を選び「上杉家御手選三十五腰(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)」なる名刀リストも作成しているほど。

謙信は長刀が好みだったようだが、その性質が引き継がれたのを、秀吉は見抜いていたのかもしれない。なお、宇喜多秀家に関しては、言葉通り。幼少期より接していたため、華麗なモノ好きだと知っていたのだろう。

次の2人はコチラ。
「前田利家」と「毛利輝元」。

楊斎延一「桶狭間前田犬千代軍功」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

前田利家は、名門の跡取り息子というワケではない。秀吉と同じような境遇で、どちらかというと、信長から大柄な体格とその腕を見込まれたとも。信長に仕え、若かりし頃より秀吉と友情を育んできた。つまり、親友でもある利家の好みは、秀吉も熟知しているであろう。

一方で、毛利輝元はというと。中国地方の覇者である「毛利元就(もとなり)」の孫。秀吉が天下人となる最初のきっかけとなった「中国大返し」も、毛利家がスピーディーに講和条約に応じたから。追撃もしなかったことに恩義を感じているのか、秀吉は毛利家を厚遇している。輝元自身は、温厚な性格だったともいわれている。

そんな2人の刀を、秀吉はこのように推測する。

「前田利家は又左衛門といっていたころから魁殿(かいでん、さきがけとしんがりのこと)の武功によって、いまは大国を領しているが、昔を忘れずに革をまいた柄の刀、これは利家をおいて他に持ち主はないと思った。毛利輝元は異風好みであるから、一風変わった飾りの刀であろう」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

秀吉の推察はお見事。
2人の特徴をよくとらえている。特に、利家に関しては、消去法というよりは、真っ先にこの刀が利家のものだと選んだようにも感じられる。共に信長の下で武功を重ねたからか。そんな懐かしい思いも甦ったのかもしれない。

これで4人の刀をご紹介してきたが。
残った最後の1人が、コチラの方。「徳川家康」である。

秀吉と家康は、何かと互いを認め合う、そんな特殊な関係だ。「小牧・長久手の戦い」で、直接に対峙して以来、彼らは共にバランスを保とうとしているようにも見受けられる。さても、そんな家康の刀を、秀吉はどのように見立てたのか。非常に気になるところ。その内容はというと。

「徳川家康は大勇で、一剣を頼りにするような気持ちはない。別にとり繕うこともなく、また人の目を引くような刀でもないのこそ彼の志に叶っている」
(同上より一部抜粋)

簡単にいえば、家康は、刀剣の製作に心を傾けるタイプではないというコト。実力があり、なおかつ、自分自身もそれを十分に知っている。つまり、自分に自信があるのだ。だからこそ、刀などの小手先を重視しない。装飾も美麗さも不要で、普通の刀であれば十分。秀吉は、そんな見立てをしたようだ。

それにしても、秀吉の「観察眼」には恐れ入る。戦うには、まず敵の全てを知ることから。いや、敵だけではない。味方をもしっかりと知る必要がある。秀吉はそんな当たり前のことを、私たちに教えてくれる。

最後に。
これは、何も戦国時代に限ったことではない。
現代社会でも、「観察眼」は、人間関係を構築する上で重要なスキルといえるだろう。

ただでさえ、コロナ禍でのマスク着用は必至。
口元が見えない分。余計に、その表情は捉えにくい。

だからこそ、「観察眼」の出番である。

些細な仕草であっても。
間違わずに、相手からのシグナルを受け取りたいものである。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『豊臣家臣団の系図』 菊池浩之著 株式会社KADOKAWA 2019年11月
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年6月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。