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2021.08.29

練習艦だった比叡と金剛がなぜトルコに?エルトゥールル号遭難事件の裏側に迫る

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明治23(1890)年9月16日夜半、トルコ軍艦エルトゥールル号(以後「エ号」と称する)が和歌山県沖で座礁・沈没した事件は、死者が500名を超える(生存者69名)という大惨事となりました。このとき献身的に救助にあたった当時の大島村(現串本町)の住民の行動を始めとする日本側の対応は、その後のイラン・イラク戦争における救援機の派出というトルコ政府の恩返しともいえる美談とともに日本・トルコの友好の証となっています。
参考:日本とトルコの絆をつないだ物語|串本町

生存者69名は、軍艦「比叡」と「金剛」によって本国に送還されますが、それは少尉候補生の遠洋練習航海を兼ねてのトルコへの航海でした。その派遣の決定からトルコへの航海について、あまり知られていないことを紹介したいと思います。

どんなエピソードがでてくるのかな

エルトゥールル号 『土耳其國軍艦エルトグルル號』駐日土耳其國大使館(海外印刷所 昭和20年刊行)国会図書館デジタルコレクション

比叡・金剛に乗艦していたのは実習員(少尉候補生)だった

比叡・金剛は当時練習艦として運用されていました。練習艦といっても立派な軍艦で、艦長以下約20名の士官と200名くらいの下士官・水兵が乗っていて、当然大砲も装備しています。実習員が乗るスペースは、若干大砲の数を少なくしたりして空間を確保します。そして、艦長以下の乗組員がみんな教官役・手本を示す役となり、実習員は多くのことを学ぶのです。

練習艦として運営されていたこと、乗船人数が多いことにびっくり!

比叡と金剛に、実習員として乗艦していたのは、同年7月17日、広島県江田島にある海軍兵学校を17期生として卒業し、少尉候補生となった88名で、卒業後しばらく江田島に待機し、8月23日に比叡・金剛に分かれて乗艦して実習を開始、同月27日に品川着、そして9月18日に両艦は横須賀に碇泊(ていはく)していました。

通常であれば、このあと遠洋練習航海へ出発、外国訪問となるところですが、この年は軍艦「筑波」によるウラジオストック~ホノルルへの遠洋練習航海が実施中でした(6月16日~12月24日)。筑波には機関学校から転校して、海軍兵学校を卒業した少尉候補生29名が乗艦していました。機関学校の教育を士官学校である海軍兵学校に含めたことから、修業生が年に2回発生してしまったのです。このため予算上の制約から、兵学校17期生の海外への航海はなくなり、日本国内を一周する航海が計画されていました。

実習効果としては何といっても海外を見るチャンスを逸するという損失が大きいのです。遠洋練習航海は明治8(1875)年に始まり、おおむね毎年、海軍士官の卵である海軍兵学校在学中の生徒の教育の仕上げとして、明治20(1887)年からは海軍兵学校を卒業したての少尉候補生を実習させ海外へ航海し、その視野を広げる貴重な機会でした。

研修を終え総仕上げ!という時に……残念。

比叡(上)と金剛(下) 『土耳其國軍艦エルトグルル號』駐日土耳其國大使館(海外印刷所 昭和20年刊行)国会図書館デジタルコレクション

エルトゥールル号の遭難とドイツ軍艦ウオルフ号の活躍

エ号の遭難は9月16日夜間で、その遭難の報告が東京に届いたのは2日後の18日深夜から19日未明にかけてでした。そして19日に海軍省は横須賀に碇泊していた軍艦「八重山」を救難のために派出することを決定しますが、同じく横須賀に停泊していた比叡・金剛を派出することはなく、9月19日付けで、「少尉候補生練習トシテ本邦環海回航」つまり、日本一周の練習航海の命を出したのでした。なぜ比叡・金剛は救難任務に出なかったのかは、あまり議論にはなっていませんが、これは練習航海という本務が優先されたのでしょう。

この時点ではトルコに行く様子はないな……

9月17日朝、遭難したトルコ軍人の生存者から事情を聞いた大島村の村長である沖周(おき あまね)は、当時暴風雨を避けて、大島に入港していた民間船「防長丸」に依頼し、エ号の当初の行き先であった神戸へ生存者のうち士官2名を便乗させ、向かわせました(18日朝出航、同日夜に神戸入港)。

神戸では兵庫県が対応にあたり、たまたま神戸を訪れていたドイツ軍艦「ウオルフ号」が、救助を申し入れ、このウオルフ号に県の外務課の職員が便乗し、救難のため大島に向います(19日夜出航、翌20日朝入港)。そして、ウオルフ号は、生存者のうち2名を遺体・遺留品の確認のために残して、65名を乗せ、20日昼過ぎに大島を出航し、翌21日朝、神戸に入港したのです。

想像以上にスピーディーな対応!

結果的に横須賀から派出された八重山が、9月21日大島に到着したとき、生存者のほとんどは、すでにウオルフ号によって神戸へと運ばれていました。八重山は、その後、遺体の収容や埋葬などを支援し、遺体・遺留品の確認のために残っていた2名を乗せ、22日朝、大島を出港し、神戸へ向かいました(同日入港)。この八重山の遭難現場への到着が外国の軍艦に先を越されたという事実は、その後生存者をトルコ本国に送り返すことへの世論の形成に利用されることとなったといわれています。

比叡・金剛のトルコへの派遣

さて横須賀に碇泊中の比叡・金剛は、日本国内の巡航とはいえ、一応の長期航海を目的とした準備はできていて、実習員たる少尉候補生もすでに乗艦しているとなれば、海軍がトルコへの生存者送還を前向きに捉えるのは当然でした。

9月22日生存者全員が神戸に集まりました。東京では、その2日後の24日にはトルコへの生存者送還の調整が始まっていました。そして比叡・金剛は急遽、品川に回航となり、翌25日海軍省は、トルコへの送還についての予算を大蔵省へ問い合せ、翌26日には予算の調整もついて派遣決定となりました。遭難の報告を受けた19日から、わずか1週間での派遣決定と、超がつくような迅速な処置だったのです。

「ウオルフ号」の件が影響しているんですね!それにしてもすごいスピード感!

生存者をトルコに送る比叡・金剛の当初の航海計画は、往路80日、トルコの首都コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)での碇泊21日、復路は風の状況を見ながら航路を選定し、112日又は109日となっていました。そして、行きは速やかにトルコへ、帰りは帆走を多用し少尉候補生の訓練重視の計画で、帰国の標準は3月31日という指示がだされました。

比叡・金剛は10月5日品川を出航し、トルコで生存者を引き渡すまでが85日、その後40日間以上をコンスタンチノーブルに停泊し、ここで大歓迎を受けました。予定を過ぎても出航しないので、本国から「速かに出航すべし」との電報を受け、翌明治24(1891)年2月10日にようやくコンスタンチノーブルを出航しました。しかし、帰国の標準とされた3月31日に間に合うわけもありません。途中でさらに本国から「早く帰朝せよ」と催促の電報が届きました。2回の催促を受けて、途中計画していた錨泊中の訓練などは中止し、トルコ出航から90日後の5月9日に品川に帰還しました。

日本の軍艦がスエズ運河を超えたのは、この事件の12年前、明治11(1878)年軍艦「清輝」のヨーロッパ航海以来でした。そして、比叡・金剛による航海の後は、明治35(1902)年英国皇帝戴冠式に伴う観艦式参加(2隻派遣)まで実績はありません。海軍兵学校17期の少尉候補生は幸運だったのです。なお、この少尉候補生の中に司馬遼太郎『坂の上の雲』で有名な秋山真之が含まれていました。

実はすごいことだったんだな〜

トルコでの大歓迎の様子

トルコ皇帝の好意によりボスポラス海峡(欧州とアジアを隔てた海峡)の海岸にある離宮が士官らに解放され、寝泊まり自由、食事総てが用意されました。比叡・金剛の士官らは、隔日で離宮に赴き、くつろいだ日々を過ごしました。そしてトルコ国内は軍事施設も含め総て見学させてくれるという皇帝の配慮により、様々な施設を見学しました。特に建国以来の皇室の宝を納める宝庫は凄かったと記録されています。一代の皇帝が亡くなったら、その使用していたものは総て宝庫に納められるので、歴代の皇帝ゆかりの品々総てが残されていたのです。当時トルコは外国に対して多くの借金があり、「この宝物を売れば総て返済できる」と案内してくれたトルコ政府の役人が冗談を言ったとか。

また歓迎の宮中晩餐会の席で、トルコ皇帝から日本の天皇は何が好きかと聞かれ、「馬が大変好きである」と答えたところ、皇帝は馬を2頭を贈ると即決し、馬を軍艦に載せて持って帰るよう比叡艦長に言いました。さすがにそれは無理なので、主計官を残し別便で馬と伴に帰国させることになりました。贈り物もお国柄がでますね。

このような歓迎に対し、日本側としても帰国前にお返しとして主な人々を艦に招いて宴をしようかとトルコ側に相談したのですが、客人に接待させるのはもっての外と言われ、お茶会程度の招きはしたものの、返礼の宴をすることなく、比叡・金剛はトルコを後にしました(早く帰ってこいと本国から催促来てるし)。 

トルコライスの起源はエルトゥールル号事件にあり

「トルコライス」の起源は諸説あります。

トルコという名がついている以上、トルコと関連した起源を求めるのは自然なことでしょう。もっとも古い説は、明治26(1893)年で福澤諭吉創刊の「時事新報」の料理コーナーに「鶏肉または牛肉のスープで炊いたご飯をバター炒めにしたもの」と紹介されています。

ここで福沢諭吉が出てくるとは!

比叡・金剛がトルコへ航海したのはその2年前で、比叡艦長の田中網常(海軍大佐)は、航海の様子やトルコの国情などを報告書として海軍省に提出していました。その中にトルコ人の食事を調査した内容もあります。

そこには、

中流以上の家庭は概ね洋食を喫す。食事には必ず「ピラウ」と称する米飯を加えるのが常。
その作り方は、炊上る寸前の米に羊肉の油片、バター、食塩を煮てつくる肉汁を加えて蒸らす。 
『明治24年 公文備考 艦船部下巻5(防衛省防衛研究所)』より

と紹介されています。その味は、トルコ人がいうには風味絶佳であるが、日本人にとっては、敢えて賞賛するほどではないと、日本人の口には合わなかったようです。

この肉汁をお米にかけるという食べ方を、報告書を読んだか、田中艦長と会う機会があったのかはわかりませんが、おそらくこれを福沢諭吉が知ったのではないでしょうか。そして、日本人の口に合うように工夫した結果が、「鶏肉または牛肉のスープで炊いたご飯をバター炒めにした」のではないかと筆者は思っています。

参考文献
『近世帝国海軍史要』廣瀬彦太
『明治24年 公文備考 艦船部下巻5』防衛省防衛研究所
『日本海軍史 第11巻』 海軍歴史保存会
内閣府災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月『一八九〇 エルトゥールル号事件』
『東の太陽、西の新月-日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件-』山田邦紀・坂本俊夫

書いた人

神奈川県横須賀市在住。海上自衛隊を定年退官し、会社員の傍ら、関心の薄い明治初期の海軍を中心に研究を進めている。お祭りが大好きで地域の子供たちにお囃子を教えている(現在はコロナで休止中)。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『アートラジオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。