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大人だけが知っている!「静寂の京都」

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2021.10.01

琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る。——幕末維新クロニクル1846年4月

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 謹慎処分を受けながら、活溌に活動する黄門さま=水戸家の御隠居・徳川斉昭は、今回また登場します。ちなみに「黄門」とは唐代の門下省次官の黄門侍郎のことで、日本の官制にあてはめると中納言に相当します。斉昭は天保8年に権中納言になっているので、黄門さまと呼んでも差し支えないでしょう。

※サムネイル画像は大正11年頃に撮影された首里城正殿の様子(坂口総一郎著『沖縄写真帖』国立国会図書館デジタルコレクションより)

弘化3年丙午

4月(小の月)

朔日(1846年4月26日)

幕府、岡藩主中川久昭「修理大夫」・久居藩主藤堂高聴「佐渡守」ノ帰藩ヲ停メ、明石藩主松平慶憲「兵部大輔」ノ就封ヲ允ス。

4日

觸穢ノ期訖ルヲ以テ、清秡ヲ修ス。是日、始テ叙位ノ式ヲ行フ。

 触穢(しょくえ)は、 穢=ケガレに触れること。仁孝天皇の崩御から一定期間が過ぎたので、この日、御祓いを受けました。

5日

英国船一艘、那覇「琉球」ニ来ル。明日、英医ベッテルハイムB.J.Bettelheim、妻子ヲ伴ウテ上陸シ、滞留ヲ請フ。

 イギリス船籍のスターリング号が、琉球の那覇に来航しました。翌日には医師のベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim 1811 – 1870)が妻子とともに上陸し、琉球王国に滞在したいと申し入れました。ベッテルハイムはハンガリー王国に生まれたユダヤ系で、1840年に基督教に改宗し、プロテスタントの宣教師でもありました。琉球王国は、事実上、薩摩藩の支配を受けていましたが、幕府の権力が及ばない地域で、海禁政策の枠外でした。

7日

琉球中山府布政官座喜味親方「尚栄保」書ヲ英医ベッテルハイムニ致シテ退去ヲ促ス。

 ベッテルハイム先生、どうやら歓迎はして貰えないようですね。琉球中山府は琉球王国の政庁で、親方(うぇーかた)は琉球王国で王族に次ぐ地位を示す称号です。日本と異なるのは身分が世襲されないことで、親方の子でも親方になれない場合がありました。

仏国軍艦サビーヌSabine、那覇ニ来リ、不日同国提督艦隊ヲ率ヰ来リテ互市ヲ求ムベキヲ告グ。乗員、上陸シテ付近ヲ測量ス。

 琉球王国は千客万来、今度はフランスの軍艦サビーヌ号が来ました。1844年にもフランスの軍艦アルクメーヌ号(L’Alcmene)が琉球を訪れており、通商を求めるとともに、カトリックの宣教師フォルカード(Theodore-Augustin Forcade 1816- 1885)を残置して去っています。

8日

英国船、英医ベッテルハイム等ヲ残留セシメテ那覇ヲ去ル。中山府、之ヲ護道院ニ置キ、更ニ護国寺ニ館セシム。

 退去を促されたベッテルハイム先生、居座ってしまいましたね。フランス人のカトリック宣教師が琉球には既にいるということで、イギリス国籍のプロテスタント宣教師を強引に追い返すわけにも行かなかったようです。

10日

英医ベッテルハイム、英・仏・清三国条約書及宗教書・造船書等ヲ琉球王及布政官ニ贈ル。

 友好のために贈り物をしたというよりは「これでも読んで勉強しろ」ということでしょうか?

13日

幕府、釈奠ヲ大成殿「江戸湯島」ニ行フ。

 釈奠(せきてん)は孔子を祀る祭典で、大成殿は湯島聖堂にある孔子廟の正殿です。江戸時代には年2回、春と秋に釈奠が行われました。儒教は江戸時代の武家社会では基礎的教養でした。

15日

名古屋藩主徳川慶臧「左近衛権中将」ヲ参議ニ任ズ。

 名古屋藩は尾張藩ともいう、徳川御三家の一つです。殿様の名前は(よしつぐ)と読みます。

金沢藩主前田斉泰「加賀守」 就封ニ依リ、鹿児島藩主島津斉興「大隅守」・会津藩主松平容敬「肥後守」・久保田藩主佐竹義厚「右京大夫」・二本松藩主丹羽長富「左京大夫」・高知藩主山内豊煕「土佐守」・金沢藩世子前田慶寧「筑前守」・米沢藩主上杉斉憲「弾正大弼」・岡山藩主池田慶政「内蔵頭」・宇和島藩主伊達宗城「遠江守」・中村藩主相馬充胤「大膳亮」・長門府中藩主毛利元運「左京亮」・出石藩主仙石久利「讃岐守」・本庄藩主六郷政恒「兵庫頭」・佐伯藩主毛利高泰「安房守」・八戸藩主南部信順「遠江守」・一ノ関藩主田村邦行「右京大夫」・大溝藩主分部光貞「若狭守」・仁正寺藩主市橋長和「下総守」・菰野藩主土方雄嘉「備中守」・柳本藩主織田秀陽「後信陽・安芸守」・多度津藩主京極高琢「壱岐守」・下手渡藩主立花種温「主膳正」参府ニ依リ、各登営ス。

 これだけ大勢の殿様が、それなりの数の供を連れて登城するのですから、あんなに江戸城が大きいのも納得です。

琉球中山府布政官座喜味親方、仏国艦長等ヲ泊村公館ニ饗シ、物ヲ贈ル。尋デ、艦長、亦布政官以下ヲ其艦ニ招ク。

 イギリス船は去ったけれど、まだフランス軍艦サビーヌ号は琉球にいます。互いに賓客として饗応しあっていますが、かねて申し入れてある通商に関して、「はい、どうぞ」と琉球側が答えてくれるかどうか、腹を探っている感じです。

18日

津山藩主松平斉民「三河守」・福井藩主松平慶永「越前守」・徳島藩主蜂須賀斉裕「阿波守」・熊本藩主細川斉護「越中守」・仙台藩主伊達慶邦「陸奥守」・萩藩主毛利慶親「大膳大夫」・鳥取藩主池田慶行「因幡守」・大聖寺藩主前田利平「備後守」大洲藩主加藤泰幹「遠江守」三田藩主九鬼隆徳「長門守」・佐土原藩主島津忠寛「淡路守」・日出藩主木下俊敦「左衛門佐」・赤穂藩主森忠徳「越中守」・苗木藩主遠山友詳「美濃守」・小城藩主鍋島直尭「紀伊守」・鳥取藩支藩「後鹿奴」主池田仲律「壱岐守」・宇土藩主細川之寿「豊前守」伊予吉田藩主伊達宗孝「若狭守」・園部藩主小出英教「信濃守」・岡山藩支藩「後鴨方」主池田政善「信濃守」・栢原藩主織田信貞「出雲守」・新見藩主関長道「但馬守」・豊岡藩主京極高行「甲斐守」・森藩主久留島通嘉「伊予守」・山家藩主谷衛弼「播磨守」麻田藩主青木重竜「駿河守」芝村藩主織田長恭「丹後守」・小野藩主一柳末延「土佐守」・黒石藩主津軽承保「出雲守」・狭山藩主北条氏久「相模守」・清末藩主毛利元承「出雲守」就封ニ依リ、小松藩主一柳頼紹「兵部少輔」参府ニ依リ、各登営ス。

23日

幕府、萩藩主毛利慶親ノ治績ヲ賞ス。

 萩藩は長州藩ともいいます。殿様の慶親は、のちに「そうせい侯」とアダナされてバカ殿のように思われた人ですが、若い頃には御三卿の田安徳川家から養子に欲しいといわれたほど才覚に優れていました。もしかしたら将軍になっていたかもしれない人なのです。このときは藩政改革に成功したことを、幕府から賞せられています。

24日

賀茂祭

 賀茂祭は京都三大祭りの一つで、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ。下鴨神社)と賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ。上賀茂神社)にて行われる例祭です。王朝文化の名残を伝える”貴族の祭”でもあります。

27日

会津藩主松平容敬、高須藩主松平義建「摂津守」ノ男容保「銈之允・後若狭守・肥後守」ヲ養子ト為ス。

 ごぞんじ松平容保が登場しました。美濃の高須藩は尾張徳川家御連枝にあたります。殿様の義建(よしたつ)の父で、容保の祖父にあたる義和(よしなり)は、水戸徳川家からの養子でした。

28日

参議東坊城聡長ヲ日光東照宮奉幣使ト為ス。尋デ「5月朔日」聡長、京ヲ発ス。

 東照宮奉幣使は日光例幣使ともいい、朝廷から日光東照宮の例大祭に遣わされた勅使のことです。

幕府ノ使者大沢基昭「右京大夫・高家」参内、踐祚ヲ賀ス。

 3月17日に上京を命じられていた、高家の大沢基昭が御所に参内しました。準備も含めると、1ヶ月以上かかっているのですね。

川越藩主松平斉典「大和守」・丸亀藩主京極高朗「長門守」就封ニ依リ、蓮池藩主鍋島直紀「統太郎・後甲斐守」参府ニ依リ、各登営ス。

是ヨリ先、川越藩主松平斉典、相模警備ノ任ニ在リ、内海防備ノ策ヲ具シテ幕府ノ指揮ヲ請フ。是日、老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」之ニ批答シ、厳ニ外国船ノ江戸内海ニ入ルヲ防止セシム。

 この時期、外国船が江戸湾にも出没していたため、相模の警備を担当させられた武州川越藩から、どのように守備するか指示して欲しいといわれていたのを、老中の阿部正弘が「江戸湾に入らせないように」と、回答しました。

是月

前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」鹿児島藩世子島津斉彬「修理大夫」ト互ニ蔵書ヲ交換シ、意ヲ経世有用ノ学芸ヲ攻究スルニ留ム。

 おとなしくしていられない水戸の御隠居さま、今度は鹿児島藩=薩摩藩の世継ぎである島津斉彬と蔵書を交換しています。経世とは、世を治めることで、そのために役立つ学芸を攻究することに留意した、とのことです。

5月(大の月)

朔日(1846年5月25日)

彦根藩主井伊直亮「掃部頭」・佐倉藩主堀田正篤「後正睦・備中守」就封ニ依リ、各登営ス。

7日

仏国軍艦サビーヌSabine、那覇「琉球」ヨリ運天港「同上」ニ廻航シ、艦長等、強ヒテ上陸宿営シ、且其付近ヲ測量ス。

 フランス軍艦サビーヌ号、まだ琉球に粘っています。運天港は沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する、沖縄本島北部の重要な港湾です。その付近を測量したということは、また来る気でいるのは間違いないところです。

10日

典侍橋本経子「仁孝天皇女房」著帯ノ儀ヲ行フ。

 着帯の儀は皇室行事で、皇族の安産祈願のために行われます。「著」と「着」はもともと同じ字で、むかしは区別がなかったので古い本では混用されています。やがて生まれてくるのは、孝明天皇の弟か妹です。さあ、どちらでしょうか。

日暈現ハル。

 日暈(にちうん)は、太陽の周囲を囲むリング状の光のことで、「ひのかさ」ともいいます。巻層雲の氷片によって太陽光が屈折して起きる現象だそうです。自然現象ではありますが、なにかの吉兆と考える人もいたようです。

11日

米国人7名、択捉島ニ漂著ス。松前藩主松前昌広「志摩守」状ヲ幕府ニ報ジ、指揮ヲ請フ。

 まったく言葉が通じないなかで、 アメリカ人であること、母船を失って艀(はしけ)で漂着したことが、かろうじて通じたみたいです。当時、アメリカは西海岸に港湾を持っておらず、当然ながら太平洋航路もなく、大西洋から喜望峰をまわってインド洋を横断、ようやく西太平洋に入ってきました。なにしに来たかといえば、捕鯨です。「ジャパン・グラウンド」(ハワイ—小笠原諸島—北海道を結んだ三角形の海域)というマッコウクジラの漁場があったからです。このとき漂着した7人も捕鯨船の乗組員でしたが、彼らの処遇が決定されるのは後日のことでした。幕府に「指揮ヲ請フ」といっても外国に関わることは長崎奉行の管轄でしたから、択捉島と九州の長崎とで文書を往復させるわけですよ。かなり時間がかかるのです。

13日

仏国印度支那艦隊司令官海軍少将セシーユLe Contre amiral Cecille、軍艦クレオパトルCleopatre、ヴィクトリューズVictorieuseヲ率ヰ、運天港ニ来ル。

琉球在番奉行平田善太夫「正賢」属員ヲ名護間切「琉球」ニ遣シ、仏国艦隊ト応接ノ事ニ与カラシム。尋デ、善太夫、亦其地ニ赴イテ之ヲ指揮ス。

 琉球王国に居座っているサビーヌ号の仲間が来て、3隻になってしまいました。琉球在番奉行は薩摩藩の役職で、琉球王国を間接統治するために那覇に常駐させていました。「間切」は琉球王国の行政区分で、名護間切は現在の名護市辺りです。まず小役人を名護まで差し向けたあと、奉行が運天港に出張したとのことです。

17日

仁孝天皇百箇日法会ヲ般舟三昧院ニ修ス。

 前に水戸の御隠居さまが「皇室が仏式なのはイケナイ」と意見していましたが、この日は仁孝天皇さまの百箇日法要(仏式)です。

18日

幕府、熊本藩主細川斉護「越中守」ニ、高祖重賢「越中守」以来ノ治績ヲ賞ス。

 細川重賢は宝暦の改革で藩財政を立て直し、また、藩校時習館を設立するなど教育政策にも熱心だった人です。それ以後、熊本藩は発展を続けていました。

22日

即位式ノ期ヲ明年秋ト定ム。

 さらっと書いてありますが、おカネかかるんですよ、即位の礼って。いまの貨幣価値だと億単位でしょう。朝廷の御料は、たった3万石でしたから、外部から資金を引っ張ってこなければなりません。

24日

琉球中山府、国頭按司ヲ総理官ト称セシメテ、仏国提督「セシーユ」ト応接セシム。提督、通好互市ヲ請フ。

 国頭(くにがみ、くんじゃん)は沖縄本島北東に所在する地名です。按司(あじ)とは琉球における地方の支配者の称号ですが、この時代には琉球王国の王族の分家の称号として用いられ、日本の宮家のような存在でした。で、やはりフランスは通商を求めてきましたね。外国商人からすれば、琉球で水、食糧、燃料を補給できるだけでも便利になりますが、琉球で日本産の絹や茶を買えるなら商売として魅力的です。しかし、西洋の産物には東洋人が欲しがる物がありません。隣国ではイギリスが持ち込んだ阿片が人気商品でしたけれども……。

26日

仏国提督セシーユ、国頭按司ノ館ヲ訪ヒ、通好互市要求ニ対スル回答ヲ促ス。尋デ、按司、亦提督ノ艦ニ抵リ、応対ス。

 フランスの提督が按司の館を訪れ、按司が提督の乗艦を訪れたとのことですが、用件は「通商要求に対する回答を聞きたい」ということでした。

28日

幕府、関宿藩主久世広周「出雲守・後大和守」ノ江戸藩邸類焼及領内損耗ニ依リ、金5000両ヲ貸与ス。

 久世広周は旗本の子で、世継ぎが無いままで死去した久世広運の末期養子として、急遽殿様にされちゃった人です。江戸藩邸が焼けたり、領内に損耗があって幕府から5000両を貸与されたとのことです。関宿藩は人工河川の利根川と江戸川の分岐点に接していて、たびたび水害に襲われた地域でした。

川越藩主松平斉典「大和守」居城焼失ニ依リ、在府ノ延期ヲ請フ。是日、幕府、之ヲ允ス。

 松平斉典は財政難に苦しんだ殿様で、幕府に働きかけて経済状態が良い出羽庄内藩への国替えを図りました。天保11年(1840)、庄内藩は越後長岡へ、長岡藩は武州川越へ、三角トレードしようとしたけれど、庄内藩の領民が猛烈な反対運動を起こして抵抗したため、撤回されています。斉典は、大御所徳川家斉の子、斉省を養子にしていたので特別扱いされていました。

29日

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」英・仏船琉球来航ノ状ヲ長崎奉行ニ報ズ。尋デ、琉球在番奉行平田善太夫ニ命ジテ措置平穏ヲ旨トセシム。

 薩摩藩から長崎奉行へ、フランス船が琉球に居座っていることが報告されました。そして、琉球駐在の在番奉行には「措置平穏」が指示されております。平穏にお引き取りいただけますかどうか。

是月

西尾藩主松平乗全「和泉守」領内損耗高ヲ幕府ニ申報ス。

 三河西尾藩は現在の愛知県西尾市辺りで、殿様の名前は乗全(のりやす)と読みます。寺社奉行や大坂城代を務めた経歴がありました。老中の阿部正弘は母方の従弟にあたります。ざっと調べてみましたが、この時期の自然災害は見当たらないので、「損耗」は農作物の病虫害かもしれませんね。

シリーズ「幕末維新クロニクル」

オランダ国書を見た黄門さま——1846年3月

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。