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2020.02.24

消せるボールペン「フリクション」世界累計30億本を超えるヒット商品の強さに迫る

この記事を書いた人

骨太の歌唱で知られる河島英五は、忘れたいことがある時に男は酒を飲む、という趣旨の歌で多くの人の心をつかみました。酒の力を借りるかどうか別にして、消してしまいたい過去や、なかったことにしたい失敗の一つや二つは誰にでもあるもの。

しかし、神ならぬ身では昔の過ちや不都合を簡単にリセットすることはできません。ところが、あるボールペンで書いた文字なら、特殊ラバーでゴシゴシこすれば跡形もなく消すことができます。パイロットコーポレーションの消せるボールペン、フリクションシリーズ(以下、フリクション)です。発売以来の販売数は世界累計30億本。空前のヒット商品はどのようにして生まれたのでしょうか。

一度消した箇所に何度でも繰り返し書き直せる

手帳に書いた予定が変わったときやノートに書いたメモを直したいとき、従来のボールペンや万年筆などで書いた文字は消しゴムできれいに消すことができません。消したい部分に線を引いて、余白に書こうとすると、見にくくなります。こんなとき、書いた文字や線を簡単に消して、何度でも書き直せる筆記具があれば便利ではないか。

ボールペンで書いた文字はきれいに消せないという「常識」をくつがえしたフリクション(ノック式)

フリクションは、そんな声に応えて開発された筆記具です。フリクションは一定の温度を超えると色が消える特殊なインキを使っています。このインキは軸の頭部にある専用ラバーでこすると、摩擦熱で透明になる性質があります。つまり、色を拭い去るのではなく、透明の状態にするのです。一度消した箇所には何度でも繰り返し書き直すことができます。きれいに消えるばかりでなく、しっかり書けるのも大きな特長です。

色を拭い去るのではなく、摩擦熱で透明の状態にする=消えたように見える

始まりはお風呂で遊ぶおもちゃだった

では、摩擦熱で透明になる性質はどのように発見され、実用化されたのでしょうか。フリクションの開発は1975年に誕生した「温度で色が変わるインキ」(メタモインキ)から始まります。同社はもともと万年筆とインキを手がけていました。ペン先だけを作る部品メーカーもありましたが、創業者は万年筆製造に必要な部品を輸入に頼ることなく、すべて自社で作ることを誇りとしていました。ですから、筆記具の可能性を追求するための研究開発には定評があります。

1976年に発売された「魔法のコップ」。水を注ぐと花が咲く

しかし、温度で色が変わるという特性は初めから筆記具に生かされたわけではありません。開発当初はお風呂に入れると色が変わる玩具や印刷用のインキとして利用されていました。本業の筆記具に採用されたのは2005年。実に、30年の年月を要しました。

筆記具に採用される前の玩具「メルちゃんのまほうのフライDEこんがり」(1985年)

社内では「不夜城」と呼ばれていた研究室

開発の過程で最も苦労したのは対応する温度の幅を広げることと、色素の粒子を微細にすることでした。開発当初のインキはわずかな温度変化で色が変わってしまったからです。それでは使い物になりません。

一般的に、ペン先の細かい隙間から滑らかに出るようにするため、筆記具のインキには色素の粒子が微細で、均一であることが求められます。しかし、フリクションの開発当初、目指す温度で色を変えたり戻したりするのに必要な「色が変わる温度と元に戻る温度」をつかさどる材料は市販の薬品や化成品には存在していませんでした。

世の中になければ、新規の化学物質を自ら設計、合成するしかありません。しかし、目標とする機能を得ることは言うほど容易ではなく、研究室で来る日も来る日も合成と評価を繰り返すという、長く、先の見えない道のりを強いられました。そんな研究室は社内で「不夜城」と呼ばれていたほどです。

発売当初のフリクションシリーズ

作り出された1000種類以上もの化合物

本業である筆記具に応用できる可能性が見えてきたのは21世紀になってからのことです。実用化を目指し、急ピッチで進められた開発で、+65℃から-20℃の範囲内では消えた状態が保たれるようにする色素を作るために1000種類以上もの化合物を作り出しました。

フリクションインキは特殊なマイクロカプセルが色素の役割を果たします。大雑把に説明すると、カプセルに含まれる3種類の組み合わせが摩擦熱で変化することでインキが透明になるのです。

この仕組みを図で説明しましょう。カプセルには発色剤(ロイコ染料、図A)、発色させる成分(顕色剤、図B)、変色温度調整剤(図C)という3つの成分が均一に封入されています。ロイコ染料は赤や青などの色を決めるものですが、単体では発色せず、顕色剤と化学的に結び付くと発色する性質を持っています。

フリクションインキが消える仕組み

変色温度調整剤は温度が上がると色を消し、温度が下がると色を戻す働きをします。開発当初はその加減が緩やかで、筆記具としての実用性を備えていなかったため、より鋭敏に反応するように改良が加えられました。その作業に充てられた時間が「不夜城」を生んだのです。

温度変化で筆跡が消える筆記具という新領域を創出

では、フリクションは筆記具業界にどんな変化をもたらしたのでしょうか。すでに成熟しているとはいえ、筆記具の世界は日々進化しています。同じように見えるボールペンも、書き味や品質の向上が常になされています。

実際、筆記具に携わる同業社は「書く」ことを快適に、楽しく、便利にするための商品開発にしのぎを削り、たくさんの新しい製品を生み出し、世の中に送り出しています。それを求める筆記具愛好家も少なくありません。その意味で、フリクションは温度変化で筆跡が消える筆記具という新たなカテゴリーを創出したといえるでしょう。

マーカーのシリーズ「フリクションライトナチュラルカラー」

フリクションが変えた欧州の教室の風景

フリクションの登場は単に新しい筆記具を一種類増やしたということにとどまりません。最も大きな影響は欧州の教室の風景を変えたことでしょう。欧州の多くの国では、学習時に鉛筆を使いません。万年筆やボールペン、サインペンなど、インキを用いたペンを使うのが当たり前だからです。

鉛筆やシャープペンシルなどで文字を書く習慣がないため、子どもたちは文字や線を消すのに苦労していました。このため、フリクションが登場するまで、子どもたちは「書くペン」「消去ペン」「書き直すための別のペン」の3本を揃える必要があったのです。こうした背景があったことから、フリクションは1本ですべてをこなし、何度でも書き直しができる画期的な筆記具として爆発的に普及しました。

インキを用いたペンを授業で使う欧州では画期的な筆記具として爆発的に普及した

しっかり書けて、きれいに消える

前述のように、フリクションの販売総数は世界累計で30億本を数えます(シリーズ計、2006.1~2019.12)。それほど支持されている理由について、営業企画部の田中万理さんは「しっかり書けて、きれいに消えるという機能が認められたから」と言い切ります。「消せるとはいえ良く消えない、消せるけれど筆跡がはっきりしない、手でこすると薄くなってしまう、消せるけれど書き味が悪い――。もし、ボールペンとしての基本性能に不満があれば愛用していただけなかったはずです」

きれいさっぱり消えて、しっかりと何度でも書ける

「フリクションのこれまでにない機能、つまり、温度で色を変化させる(透明化する=消える)という消し方はこれまでの発想にはありません。消しゴムで物理的にこすり取る方式の、従来の消せるボールペンにはない『きれいさっぱり消えて、しかもしっかりと何度でも書ける』という特長が認めていただけたということでしょう」

今なお受け継がれる創業者の精神

パイロットコーポレーションの歴史は、東京高等商船学校出身で同校教授の並木良輔が同窓の和田正雄の協力を得て万年筆の製造販売を始めた1918年に始まります。

パイロットコーポレーションの前身、㈱並木製作所の創業時の風景

製品第1号(1918年)

商船の機関士と航海士として船上で出会った並木と和田は意気投合し「いつか世界に認められる製品を作って売ろう」と夢を語り合います。ちなみに、パイロットには老練なる船長という意味があります。並木らは万年筆の第一人者という自負を社名に込めたのでした。1926年に初の海外拠点を設けて以来、同社は現在、世界180カ国以上に販売を広げています。

創業から100年以上を経た今日、累計で30億本を売り上げたフリクションをはじめ、数多くの製品が世界で愛用されています。創業者が「パイロット」として製品に込めた思いは1世紀を経ても連綿と受け継がれているようです。

新製品「フリクションポイントノック04」

書いた人

新聞記者、雑誌編集者を経て小さな編プロを営む。医療、製造業、経営分野を長く担当。『難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に』(©井上ひさし)書くことを心がける。東京五輪64、大阪万博70のリアルな体験者。人生で大抵のことはしてきた。愛知県生まれ。日々是自然体。