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Culture
2021.11.20

短いながらも鮮烈!『鬼滅の刃』の舞台、ロマンとデモクラシーの大正時代を3分で解説

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人気アニメ『鬼滅の刃』の舞台でもある「大正」といえば、みなさんはどんなイメージを持っていますか?
ロマン、デモクラシー、それともハイカラ?

おしゃれなイメージがあります♡


今回は、激動の大正時代を3分(目標)でご紹介いたします。

大正時代はどんな時代?

一般的には、大正元(1912)年~大正15(1926)年までの、大正天皇が在位した期間を指します(明治より、天皇一代につき元号はひとつとなりました)。

大正天皇即位の礼の様子(画像出典:『御大礼記念写真帖』国立国会図書館デジタルコレクションより)

明治は45年、昭和は64年、平成は31年までと考えると、大正は短く感じるでしょうか。しかし、変化と騒動に満ち、明治の名残も昭和の兆しも感じられる時代です。

大正時代の文化や雰囲気を表すとき、よく使われる言葉が「大正ロマン」。「ロマン」は、感情や個性に重きを置いたロマン主義が由来です。
ただし、日本でこの思想が盛んになったのは明治中期から後期にかけて。
実はロマン主義の盛りが過ぎていたものの、大正とは民衆の存在感が高まった時代でした。

大正デモクラシーって何があったの?

大正デモクラシーとは、明治後期から大正にかけて活発に行われた、大衆が政治や社会を変えようとした動きです。
デモクラシーの意味は「民主主義」(大正デモクラシーの場合は「民本主義(みんぽんしゅぎ)」と訳される)。一般の人々のなかで政治への関心が高まった時期でした。

特に大きな転機となったのが、大正7(1918)年の米騒動事件。
その少し前、日本は第一次世界大戦の影響で好景気にわきました。いきなり富裕層になった「成金(なりきん)」が生まれたのもこの時期です。
しかし、この恩恵を受けたのは一部の資本家のみ。民衆の多くは物価の高騰に苦しみ、貧富の差が拡大しました。
また、工業化が進む一方で、農業は停滞傾向にありました。そして米の価格が高騰したことを機に、日本のあちこちで暴動が起こります。
この騒動を受けて当時の内閣は退陣し、平民宰相と言われる原敬(はらたかし)の内閣が生まれました。

▼米騒動について詳しく知るならこちら
富山の小さな町から全国に波及した「米騒動」甲子園を中止に追い込んだ社会運動の是非

こうした社会の動きは、たくさんの庶民に影響を与えます。
たとえば、それまでの政治は、限られた人たちの間で決めるものでした。しかし、民衆にも参政の権利を与えるよう求める声が増えていきます。
大正14(1925)年になって、普通選挙法が成立します。けれども、このとき参加の制限が緩和されたのは男性のみ。しかも、第1回普通選挙は昭和に入ってから行われ、一般女性の参政権は戦後に与えられました。
とはいえ、明治期から続いた運動がやっと確かな形になったのが大正時代と言えるのではないでしょうか。

現代の選挙は投票率の低さがよく話題に上りますが、もともと選挙権は一般庶民が戦って勝ち取ったものでした。

人々の服装が変化したきっかけは?

明治時代、洋装は上流階級の正装とされました。特に男性は、ヨーロッパの宮廷服を参考に大礼服(たいれいふく)を着るように決められます。

(画像出典:『東風俗福づくし 大礼ふく』楊洲周延 メトロポリタン美術館より)

庶民はといえば、軍人や鉄道員など一部の職業の人々が制服として着用したものの、大正時代前半はまだ和装が多数派。
西洋文化がだいぶ定着したことで洋風の柄の着物が登場したり、鮮やかな色や柄が特徴の平織り絹織物・銘仙(めいせん)が流行ったりしました。

「和モダン」「和洋折衷」のようなおしゃれな服装が登場したのは、このためなんですね!

本格的に洋装が一般化するのは、関東大震災以降です。震災時、和装で身動きが取りづらくなって亡くなる人が多く、動きやすい洋服が広まったとされます。

ところで、明治や大正というと、袴に編み上げブーツを合わせた女学生を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
明治期は「袴は男性が履くもの」という声がまだ根強く、女学生の袴着用が認められなかった時期もありました。しかし、動きやすい袴はやはり便利。
女子の就学率の上昇と女袴の誕生を経て、大正時代になると袴姿の女学生はすっかりおなじみの存在に。

これは明治末期に出版された本の挿絵ですが、大正時代にもこうした女学生の姿が見られたことでしょう。(画像出典:『少女スケッチ』国立国会図書館デジタルコレクションより)

洋装が普及するとさらなる変化が訪れ、大正後期から昭和初期にかけて、女学生制服の主流はセーラー服へと移っていきました。

都市文化の形成と関東大震災

第一次世界大戦の特需で、農村部から都市部への人口流入が起きました。
サラリーマンと呼ばれる人々が現れ、大正3(1914)年ごろからビールが普及し始めます。
この年は辰野金吾(たつのきんご)設計の東京駅駅舎が建築されたり、上野公園では東京大正博覧会が開催されたり、宝塚歌劇団の初演が行われたりと、華やかな出来事がいくつもありました。
また、ビアホールのほか、活動写真やカフェーなど娯楽施設が発達し、都市部は新しい文化を形成していきます。

洋風化・近代化が進んでいくなか、大正12(1923)年に関東大震災が発生します。
死者・行方不明者は推定でも10万人以上。建物の多くが、倒壊や火災によって失われました。

被災した浅草の惨状を伝える写真。人々の意志によって社会がどんどん変化していった大正時代ですが、この震災のように変わらざるをえない出来事もありました。(画像出典:国立国会図書館デジタルコレクションより『関東大震大火記念写真帖』)

これをきっかけに、東京郊外や地方都市への人口流出が起き、各地で東京の文化が広まります。逆に、地方から上京する人々もおり、新しい文化が東京にもたらされました。

経済も震災で大きな打撃を受けましたが、復興が進められ、インフラが整っていきます。
地下鉄をはじめ交通機関が発達し、水道・ガスの供給事業が本格化します。大正14(1925)年にはラジオ放送が始まりました。
また、モガ(モダンガール)・モボ(モダンボーイ)と呼ばれる、最先端の文化を楽しむ若者たちが現れます。

女性を取り巻く環境の新旧

大正に入る直前の明治44(1911)年、平塚らいてうは雑誌『青鞜』創刊を祝って「元始、女性は太陽であった」という文章を寄せました。この言葉は、女性解放運動の象徴的な存在となります。

▼平塚らいてうについて詳しくはこちら
平塚らいてうとはどんな人?大正時代に事実婚を選択した、時代の先端を行く女性の人生を紹介

大正時代は女性の社会への進出が活発化した時期で、職業婦人と呼ばれる人々が生まれました。
当時の女性の職業は、工場労働者、教師、看護婦、事務員、タイピスト、電話交換手、バス車掌などがあります。

まだ女性蔑視が強い時代。働く女性を好ましく思わない人は一定数いました。職業婦人たちの一部は洋装を始めますが、これも女学生の袴と同様、批判の対象になります。
しかし、女性の社会進出が浸透するにつれて、職業婦人の制服着用も普及しました。

一方で、江戸時代より続いていたものもあります。そのひとつが、吉原遊郭です。
江戸文化の代表格として扱われる傾向にある吉原遊郭ですが、実は昭和時代まで存在していました。

明治5(1872)年に娼妓解放令(しょうぎかいほうれい)が出されたものの、明治政府は公娼(こうしょう/公に営業を許された娼婦)を認めており、吉原は引き続き大正時代も営業を続けていました。

ただし、もともと吉原は都市部から離れたところにあり、社交場としては不便です。中心地に近い花街に人気が移り、次第に規模が縮小していきます。
それでも、遊郭としての吉原が正式に幕を下ろしたのは昭和32(1957)年のこと。「意外と最近!」とびっくりする方もいるかもしれませんね。

私の父親・母親が生まれたあたりの時代! めちゃくちゃ最近!

大正時代は、天皇の代替わりと元号によって区切られた期間です。少々短くはありますが、前後の時代とのつながりを踏まえたうえで見ていくと、とても面白い時代です!
明治と昭和に挟まれたなかで、大きなうねりが確かにそこにはありました。

アイキャッチ画像:国立国会図書館デジタルコレクションより『関東大震大火記念写真帖

主な参考文献
『大正文化 1905-1927』  南博・社会心理研究所/編 勁草書房  1965年
『大正文化 帝国のユートピア 世界史の転換期と大衆消費社会の形成』 竹村民郎/著 三元社  2004年
『大正ロマン手帖 ノスタルジック&モダンの世界』 石川桂子/編  河出書房新社 2009年
『ビジュアル大正クロニクル 懐かしくて、どこか新しい100年前の日本へ』 近現代史編纂会
/編著 世界文化社 2012年

書いた人

日本文化や美術を中心に、興味があちこちにありすぎたため、何者にもなれなかった代わりに行動力だけはある。展示施設にて来館者への解説に励んだり、ゲームのシナリオを書いたりと落ち着かない動きを取るが、本人は「より大勢の人と楽しいことを共有したいだけだ」と主張する。