Culture
2019.03.20

日本人はなぜ桜の下で花見をするんだろう?桜と日本文化の深〜く長〜い物語

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長かった冬がようやく終わり、春がやってきたことを告げるかのように満開に咲き競う桜。桜の花は、入学や入社など人生の門出を飾る花として、日本人の心に鮮やかな印象を残してきました。

日本人はなぜ桜の下で花見をするのか、桜と日本文化の深く長い物語

神話の時代から桜は、はかなく美しい存在だった

日本人と桜の縁は非常に古く、『古事記』『日本書紀』では天孫降臨した天照大御神の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)に求婚される美しき木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が、はかなく散るものの象徴(=桜の花)として書かれていて、桜という名称は「咲耶」から転じたという説があります。

また、民俗学においては、田の神を意味する「さ」と神の御座の「くら」が結びついたという説があります。満開の桜には田の神が宿り、田植えから収穫まで見守ってくれるありがたい存在として、農耕民から崇められていたのです。
日本人はなぜ桜の下で花見をするのか、桜と日本文化の深く長い物語

桜、梅の後塵を拝す

奈良時代になると大陸文化の流入によって、中国で愛好されていた香り高く色鮮やかな梅が貴族の間でもてはやされるようになります。それは『万葉集』に詠まれた歌の数にも表れていて、桜の歌が43首、梅の歌は110首。いかに梅が当時の人々の心をとらえていたのかよくわかります。

しかし、庶民にとって春の花といえば、やはり桜。田の神が宿る木であり、農耕の時季を知らせてくれるありがたい花として、決して欠かせない存在だったのです。
日本人はなぜ桜の下で花見をするのか、桜と日本文化の深く長い物語

平安時代、桜が植物界の天下を取る

遣唐使が廃止され、国風文化が花開いた平安時代になると、支配層における梅と桜の立場も逆転します。平安京に遷都した桓武天皇が紫宸殿に植えた左近の梅が、仁明天皇によって桜に植え替えられたことも手伝って、貴族たちは桜を貴ぶようになったのです。

文献に最も早い花見として登場するのが天長8(831)年。嵯峨天皇が神泉苑で行った「花宴の節」がそれで、それ以後は宮中の定例行事となり、その様子は『源氏物語』の「花宴(はなのえん)」に描かれています。
日本人はなぜ桜の下で花見をするのか、桜と日本文化の深く長い物語

平安人の桜LOVEを今に伝える数多くの和歌

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
これは平安時代初期に成立した『伊勢物語』の主人公・在原業平が、桜によって心が乱されることを詠嘆した歌。

ひさかたのひかりのどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
これは『小倉百人一首』で紀友則が桜の花の盛りの短さを惜しんだ歌。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
同じく『小倉百人一首』で、美貌で知られた小野小町が衰えゆく容色を桜に重ねて詠んたもの。

ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらきのもちつきのころ
これは桜の名所・吉野に通いつめ、桜への想い託した歌を数多く残した西行が、死ぬその時まで桜を愛でていたいと切望した歌。
日本人はなぜ桜の下で花見をするのか、桜と日本文化の深く長い物語

これら平安時代後期から鎌倉時代にかけての3首に「花」と詠まれているのはいずれも「桜」のこと。この時代に桜は花を代表するような圧倒的な存在になっていたことがわかります。

鎌倉時代も桜好みは受け継がれ、兼好法師の随筆『徒然草』には、貴族が桜を上品に鑑賞するのに対して、上京したての田舎者は酒を飲み連歌をして大騒ぎをしていたと書かれています。

秀吉の大規模な花見がのちの宴会行事のモデルケースになる

そして、安土桃山時代になると、豊臣秀吉による大がかりな花見が世をにぎわせました。
文禄3(1594)年の「吉野の花見」は、大坂から1000本もの桜を移植した吉野の山に、徳川家康や前田利家、伊達政宗など有力武将ら5000人を招いて5日間も行ったというかつてない盛大なスケール。続く慶長3(1598)年の「醍醐の花見」は、醍醐寺に700本の桜を移植し、1300人を招いたことが記されています。
日本人はなぜ桜の下で花見をするのか、桜と日本文化の深く長い物語
桜に覆いつくされた奈良の吉野山。下千本、中千本、上千本と、その姿はまさに壮観
Photo by sanographix

秀吉が催した大花見会を機に、花見は宴会行事として定着。それに伴って京都の寺社や山々には桜が植えられるようになったと伝わります。

暴れん坊将軍が桜の名所を江戸各所につくった

さらに、江戸時代に入ると3代将軍徳川家光が創建した寛永寺に吉野の山桜が大量に移植され、江戸で初めての桜並木が出現します。
その後、8代将軍吉宗は庶民の行楽のための桜の名所を江戸の各地につくります。そこで催された花見の宴では身分を問わず無礼講が許され、江戸庶民は花見を心待ちにして、桜に対する思い入れを深くしていきます。
それにより、江戸中期の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)の「敷島の大和心を人問わば朝日ににほふ山桜花」の歌のように、桜は日本人の心の象徴とされるようになったのです。
日本人はなぜ桜の下で花見をするのか、桜と日本文化の深く長い物語
桜の花びらが水面に積み重なった「花筏」。桜を表した美しい言葉がたくさん生まれたのも、日本人の桜に対する想いの表れか

ソメイヨシノとともに日本全国に花見が広がる

桜にとってさらに大きな出来事が、江戸末期から明治にかけての品種改良によるソメイヨシノの誕生です。従来の山桜の花弁は白く、花と葉が同時に現れるのに対して、ソメイヨシノはほんのり紅をさした花だけが先に開き、いっせいに散り、その様子は華麗そのもの。ソメイヨシノが全国に植えられることによって、桜の美しさやその意味は全国に広がったのです。

春の一時期だけしか見られないにもかかわらず、日本人にとってこの上なく大きな意味をもつ桜。その理由は、人々の暮らしに密着し、心に寄り添い続けてきた記憶の継承にあります。だからこそ桜は今も日本人にとって最もなじみ深く、特別な存在となり得ているのです。

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