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『源氏物語』は恋愛のお手本! 馬場あき子×小島ゆかり対談・1【現代人にも響く『源氏物語』の恋模様】
【馬場あき子×小島ゆかり 対談】その2
高貴な女性たちと光源氏の〝かなわぬ恋〟
馬場:六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)についてはどう思いますか?
小島:哀しい人だと思うけど、清潔な人柄を感じます。生霊(※注5)になったということは、ある意味での潔癖さの裏返し。どこかで折り合いをつけられる人であったら、そうならなかったはずです。潔癖さのエネルギーを生霊という形にするなど、紫式部はよく考えついたと感心します。
馬場:生霊になるまで人を愛することができるなんて、すごく純粋ですよ。
小島:六条御息所は先の皇太子妃で、行く末は中宮(※注6)になるはずだったのに、夫に死なれ、女の子を抱えて未亡人になった人ですよね。
馬場:トップレディの座から滑り落ち、永久にその立場のまま生きていかなければならない。これはつらいですよ。
小島:そこに源氏が通うことになった。
馬場:それほどの身分の女性ですから、源氏以外に通える(身分の)男はいないのです。藤原の男では無理。皇族の血筋でありながら皇族ではない源氏というのは、いちばん適した男です。
小島:紫式部はすごくいい条件を光源氏に設定したわけですね。しかも、六条御息所は、藤壺への思いの身代わりのような匂いもある。
馬場:最高級の調度と文化に囲まれている藤壺と、皇太子妃として築き上げていた文化と品位をもつ六条御息所。ふたりには共通のものが感じられたのでしょう。
小島:いくら慕っていても、藤壺のもとをたびたび訪れることはできませんしね。
馬場:六条御息所は源氏より7歳年上で、もしも見捨てられたら、それは御息所にとって、とても恥ずかしいことです。
小島:プライドがずたずたになるから、捨てられるわけにはいかない。
馬場:それで精神的な怨みだけで終わらず、生霊となって夕顔と葵上(あおいのうえ)を殺すにいたるのです。
小島:生霊として葵上のもとに現れ、暴力を振るっていますよね。
馬場:葵上が身ごもっている子に対しても乱暴に揺さぶっている。そのような、女がもっている生々しい情念の強さを、いちばん高貴な六条御息所に託しているところに、紫式部の筆の力を感じます。いかなる高貴な女も、こういう情念をもっているということですからね。
小島:六条御息所の生霊がふたりを殺めたことを知った源氏は、どう扱えばいいのか悩み、だんだん避けるようになっていきますね。
馬場:それに六条御息所は気がついて、娘と一緒に伊勢(※注7)に下るわけです。
小島:さりげなく身を引くのですが、その心は女の哀しみにあふれていて。
馬場:「賢木」(※注8)の巻の別れの件はいいですね。
小島:あの場面は断然、(源氏よりも)六条御息所のほうが魅力的です。決断した女の強さとともに隠しきれない寂しさがよく表されているから。
馬場:自分たちの愛し合った歳月をひと晩かけて語り合い、夜が明けたら源氏が六条の手をとらえ、これでお別れだねと言って発つ。そこで、ほのぼのとした空を見ながら歌を詠み交わす。ぞっとするような、いい場面です。
小島:葵上はどうですか。私は葵上もかわいそうな人だと思いますが。
馬場:左大臣家の姫君として高い気位と気品と美意識をもって、姿勢をひとつも崩さず育てられたのに、そのまま死んでしまう。それも、生霊によって恐い思いさせられながら。
小島:最後に子供を生むときに、ほんの少しですけど、源氏と心を通わせるところがあって、ちょっとほっとしますね。
馬場:でも、葵上の車争いの場面(※注9)は。
小島:恐いですよね。
馬場:あれは葵上の気位の表出です。葵上は六条御息所に仕返しをするけれど、直接ではないのね。家来たちがやったわけで。
小島:葵上のほうが圧倒的に家来の人数が多くて、御息所の車にひどいことをして。
馬場:あの車争いは、藤原家と天皇家の争いとして読むことができます。御息所は天皇家の嫁、葵上は藤原家の娘ですから。
小島:源氏物語の怨(えん)は、恋の怨であり、また政治の怨でもあるということですね。朧月夜もそうですが、制度で縛られている恋には、今とは違うストイックなものがありますね。
馬場:藤壺は桐壺更衣に似ているという理由で宮廷に連れてこられる。六条御息所は最高級の女性だから源氏が憧れる。葵上はちょっと違うけど、やはり〝制度の恋〟。天皇家から下りた源氏と、藤原氏一番の権力者である左大臣家の娘との政略結婚ですから。たぶん紫式部は、平安朝に本当の恋があったのかを問いたかったのではないかしら。
小島:なるほど、そう考えられますね。
※注5 生霊(いきりょう)
平安時代当時 、原因不明の病気や現象は 、すべて物の怪の仕業と考えられ 、生霊は物の怪のひとつ 。
※注6 中宮(ちゅうぐう)
平安時代の皇后の名称 。ふたり以上いる場合は皇后に次ぐ地位 。
※注7 伊勢 いせ
六条御息所の娘は伊勢神宮に仕える斎宮(さいくう)となり 、御息所は娘とともに伊勢に移り住んだ。
※注8 賢木(さかき)
第10帖の名称。源氏と朧月夜(おぼろづきよ)との不倫が露見し、六条御息所との別れを描く。
※注9 車争い(くるまあらそい)
第9帖「葵」で、賀茂祭(かもまつり)の見物に出かけた六条御息所の牛車は 、葵上の家来たちによって押しのけられる 。それがもとで、御息所は葵上に対する深い恨みを抱く。
Profile 馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:https://www.ikuharu-movie.com)でも注目を集めている。
Profile 小島ゆかり
歌人。1956年名古屋市生まれ。早稲田大学在学中にコスモス短歌会に入会し、宮柊二に師事。1997年の河野愛子賞を受賞以来、若山牧水賞、迢空賞、芸術選奨文部科学大臣賞、詩歌文学館賞、紫綬褒章など受賞。青山学院女子短期大学講師。産経新聞、中日新聞などの歌壇選者。全国高校生短歌大会特別審査員。令和5年1月、歌会始の儀で召人を務める。2015年『和歌で楽しむ源氏物語 女はいかに生きたのか』(角川学芸出版)など、わかりやすい短歌の本でも人気。
※本記事は雑誌『和樂(2007年10月号)』の転載です。構成/山本 毅