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2024.01.16

あの女と文通? ご冗談でしょ? 藤原道長の母・時姫が耐えた結婚生活のリアル

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時姫(ときひめ)は、平安時代に一条天皇の摂政をつとめた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の嫡妻(ちゃくさい/正式な妻)で、藤原道長(みちなが)の母。2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、三石琴乃さんが演じます。

御曹司と結婚するも、夫には女性がたくさん

時姫は摂津守藤原中正(なかまさ)の娘と伝えられています。摂津は現在の大阪府北西部と兵庫県南東部にあたり、交易の要所となる港がありました。時姫は裕福な受領(ずりょう、地方官のこと)の娘だったと推測されます。
摂関家の御曹司だった兼家と結婚し、天皇の元に入内(じゅだい)した2人の娘、超子(ちょうし)、詮子(せんし/あきこ)と、摂政関白にまで出世した3人の息子、道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道長の母となりました。

▼藤原兼家・藤原道長についてはこちら。
兄弟仲が悪すぎる! 藤原兼家の人物像や”めんどくさい”エピソード
平安のテッペンをとった男!藤原道長の人物像やしたことを解説

平安時代の歴史物語『大鏡』には、時姫が若い頃に、栄華を予言される不思議な体験をしたことが記されています。

この御母君(時姫)がまだお若いころ、二条大路で夕辻占(ゆうつじうら/夕刻に、道行く人の言葉を聞いて吉凶を占うこと)をなさったことがありました。すると白髪の老女が立ち止まり、「どんなことでも、思うことはすべて叶うでしょう。この大路よりも広く長く栄えていかれることでしょう」と言って、去って行ったのです。
神仏が老女の姿を借りて、未来を告げられたのでしょう。
(『大鏡』より)

しかし実際の結婚生活では、夫の兼家は次々と新しい女性を作り、時姫を顧みない日々も多かったようです。嫡妻として暮らせるようになったのは、結婚から20年ほどが過ぎてからのことでした。そのあやうい結婚生活の一端を、兼家のもう一人の妻である藤原道綱(みちつな)母がつづった『蜻蛉(かげろう)日記』から知ることができます。

藤原道綱母に時空を超えてインタビューしちゃった(?)記事はこちら! 女のマウンティング合戦!『蜻蛉日記』作者・道綱くんママとランチ会 PART1【妄想インタビュー】

もう一人の妻からの手紙にイラッ

時姫は天暦7(953)年に、長男の道隆を出産しています。つまり夫・兼家との結婚生活は、それ以前からスタートしていました。

『蜻蛉日記』の作者である道綱母は、天暦8(954)年頃に兼家が口説き落として妻にした女性です。父は伊勢守藤原倫寧(ともやす)で、こちらも裕福な受領の娘でした。本名は不明で、兼家の次男にあたる道綱を出産したことから、道綱母と呼ばれています。
道綱母は和歌の才能があると評判で、諸氏の系図をまとめた『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によると、本朝三美人にも数えられる美貌の持ち主だったとか。

平安時代の貴族の結婚生活は、夫が妻の家を訪ねる「妻問婚(つまどいこん)」です。夫が通う相手は一人ではないことが一般的でした。

『蜻蛉日記』には天暦10(956)年5月、兼家が新しい女性の元へと通い始めて、来訪が途絶えがちになったときに、道綱母が時姫に手紙を送ったことが記されています。

われのみならず、年ごろのところにも絶えにたなりと聞きて(中略)かくいひやる。
道綱母「そこにさへ かるといふなる 真菰草 いかなる沢に 根をとどむらむ」

時姫「真菰草 かるとはよどの沢なれや ねをとどむてふ 沢はそことか」
(『蜻蛉日記』より)

夫を水辺の真菰草(まこもぐさ)に例えて「夫はそちらにも通っていないと聞きました。一体どんな女性のところに根を張って(夜を過ごして)いるのでしょうね」と愚痴をこぼす道綱母。

時姫を年ごろのところ(以前から通っているところ)と言いながら、なんだか遠慮がありません。道綱母には「時姫よりも自分のほうが愛されている」という自信があったのではないでしょうか。

これに時姫は「あら、夫が根を張っているのはそちらと聞いておりましたけど」とそっけない返事。言外に「あなたもやっと、夫の足が遠のく辛さを知ったのね」という、痛烈なメッセージが読み取れます。

みやびな和歌のやり取りかと思いきや、めちゃくちゃバチバチしてた!

同じ夫を持つ妻同士で文通?ご冗談でしょ

兼家はその頃、時姫でも道綱母でもない、「町の小路の女」に夢中でした。しばらく経っても夫の足は遠のいたままです。妻問婚は、夫が通って来なくなれば、そのまま終わることもありました。

「あちらには子どもが大勢いらっしゃると聞くのに、お気の毒だわ」と思った道綱母はまたしても9月、時姫に手紙を送ります。

道綱母「吹く風に つけてもとはむ ささがにの かよひし道は 空に絶ゆとも」

時姫「色変わる 心と見れば つけてとふ 風ゆゆしくも 思ほゆるかな」
(『蜻蛉日記』より)

「お互いに夫の来訪が途絶えてしまったとしても、風の便りに、連絡をいたしましょう」と道綱母。この時代、同じ男性を夫に持つ妻同士が連絡を取り合うことは、特に珍しいことではなかったようです。

ところが時姫は「そんなやりとりをしたって、風の噂ですがと夫の心変わりを知らされるだけでしょう」と馴れ合うつもりがない様子。

道綱母もまた、時姫には親し気な手紙を送る一方で、兼家が足繁く通っている町小路の女には、憎しみを募らせていました。
妻たちはそれぞれに割り切れない心を抱えて、苦しんでいたのです。

兼家はその後、町小路の女とは別れたようですが、また新しい女性ができると訪れが途絶えがちになったり、ならなかったり。道綱母の家の前を素通りしておきながら、繕い物だけ送りつけるといった様子から見るに、誠実な夫とは言い難かったようです。

現代とは価値観が異なるとはいえ、共通する部分もありそうですね。

不実な夫が、今さら嫡妻を選んだ理由

一人の男性が多くの女性のもとへ通っていた時代、嫡妻という言葉には「正式な妻」という意味のほかに、「先に結婚した妻」という意味もありました。しかし、道綱母と時姫のやり取りは対等に見えます。

時姫は兼家にとって最初の妻だったと推測されていますが、はっきりと嫡妻らしい待遇を得たのは、結婚から20年近くがたった天禄元(970)年、兼家が新居の東三条殿(ひがしさんじょうどの)に引っ越したときでした。

道綱母は日記に「夫はすばらしく完成したという新居に、明日移ろうか、今夜移ろうかと騒がしいけれど、私のほうはやはり思っていたとおり、このままでいいのではないかしら。夫にはもう懲りたもの」と複雑な胸の内を書き残しています。

人は、めでたく造りかかやかしつるところに、明日なむ、今宵なむと、ののしるなれど、われは思いしもしるく、かくてもあれかしになりにたるなめり。されば、懲りにしかばなど、思ひのべてあるほどに……
(『蜻蛉日記』より)

夫が新居で共に暮らす相手として選んだのは、道綱母ではなく、時姫でした。

兼家はずっと時姫と道綱母(とそれ以外の女性)との間を行ったり来たりしてきました。どちらのところにも子どもがいて、実家も同じ受領階級です。なぜこれほど時間がたってから、時姫を正式な妻と決めたのでしょうか。

新居が完成する2年前の安和元(968)年、時姫と兼家の長女にあたる超子が、冷泉天皇の女御(にょうご、妻のこと)として入内しました。兼家はおそらく、東三条殿を女御の実家として整えるために、生母である時姫を嫡妻として迎え入れたのです。

そこに愛はあるんか!?

道綱母、耐えきれずついに離婚を選択

兼家が東三条殿に落ち着いた後の天禄3(972)年、道綱母は「ずっと娘が欲しいと願ってきたけれど、授からなかったから」と養女を迎えています。その少女は、兼家が他の女性との間に作った娘でした。

生き別れとなっていた娘との再会を喜んだ兼家は、「あちらにいる娘(時姫が生んだ次女の詮子)とともに、この子の裳着(もぎ/成人の儀)も行おう」と、気にかける様子を見せました。

その年の5月。道綱母は菖蒲の葉で無病息災を祈るくす玉をつくり、「あちらにいる、うちの娘と同じ年ごろの方(詮子)へ」と言って、息子の道綱に持たせます。
くす玉の中に「沼にひっそりと深く根を張るあやめのように、わが家にも人知れず成長した娘がおります。お見知りおきくださいませ」と書いた歌を入れて。

『景文花鳥画譜』福井月斎 縮写 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

道綱母「隠れ沼(ぬ)に 生(お)いそめにけり あやめ草 知る人なしに 深き下根(したね)を」

時姫「あやめ草 根にあらはるる 今日こそは いつかと待ちし かひもありけれ」
(『蜻蛉日記』より)

時姫の返事は「菖蒲の根が引かれて姿を見せる今日(5月5日)、姫君をご紹介くださってうれしいわ。いつお知らせいただけるのだろうと、楽しみにしておりました」
夫がよそで作った子どもの存在に、動じる様子はありません。

時姫と道綱母が歌で交わした、妻同士の静かなバトル。
結婚から20年かけて嫡妻の座を手にすることができたのは、時姫のほうでした。

一方で正式な妻になれなかった女性は、夫の来訪が途絶えることへの不安を、常に抱き続けていたのです。
その不安に耐えきれなくなった道綱母は、翌天延元(973)年、兼家との離婚を決意して郊外に転居したのでした。

アイキャッチ:『源氏物語図 紅葉賀・乙女』出典:ColBaseを加工して作成

参考書籍:
『日本古典文学全集 大鏡』(小学館)
『日本古典文学全集 蜻蛉日記』(小学館)
『日本の古典を読む11 大鏡 栄花物語』(小学館)
『人物叢書 藤原道長』著:山中裕(吉川弘文館)
『藤原道長』著:朧谷寿(ミネルヴァ書房)
『藤原道長を創った女たち』編著:服部早苗・高松百香(明石書店)
『蜻蛉日記』全訳注:上村悦子(講談社)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。