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「美装のNippon」第1~10回
ブラシと呼ぶ?櫛(くし)と呼ぶ?
外装(パッケージ)、暖房器具(ストーブ)、危険(リスク)……。この二十年ほどの間でカタカナ語にとって代わられてしまった日本語は数多い。櫛(くし)という言葉もその一つで、今日では髪をとかす道具としては、「ブラシ」の語の方がはるかに一般的となってしまった。
櫛という言葉は、日本最古の書物『古事記』にも登場するほど歴史が古い。縄文時代にはすでに、髪をまとめて止める竪櫛(たてぐし)が存在したことが出土品から確認し得るので、櫛は日本人をとりまく装飾品の一つとして、長く歩み続けてきた道具と言えるだろう。
では、平安時代にはどんな櫛が使われていたのか。平安時代中期に編纂された国語辞典『倭名類聚抄』には、細櫛の語が確認できる。これは奈良時代以前とは異なり、髪を結わず、長く垂らすようになった当時、髪をくしけずって汚れを落とす道具として用いられていたようだ。一方で以前のように髪に挿す装飾用の櫛もいまだ存在しており、こちらは「百剌櫛(挿櫛・さしくし)」と記されている。『倭名類聚抄』とほぼ同時期に編まれた法律書『延喜式』には、宮中では毎年、三百六十六枚の櫛が制作・貢納されていたとある。しかもそのうち二百枚が天皇のため、百枚が皇后のため、六十枚が皇太子のためだったというから、驚きだ。これらの櫛はすべて由志木(ゆうしき)という木で作れと記されているが、これは今日ではイスノキと呼ばれる常緑広葉樹。木材としては大変堅く丈夫な木らしく、なるほど梳き櫛にするにはぴったりだ。
「別れの御櫛」と呼ばれる儀式
ところで現実の櫛そのものはブラシに取って代わられてしまったが、櫛の語を修辞的に用いることは、現在でもいまだ行われている。たとえば「櫛の歯が欠けるような」は美しく揃っていたものが欠けてゆくたとえであるし、「櫛を拾うと縁起が悪い」「櫛を渡すと縁が切れる」といった俗信もつい数十年前まで一般によく語られていた。このうち櫛が縁起の悪いものとする考え方は、「櫛」の音が「苦死」に通じるところから来たものではと推測されている。では櫛と縁切れの関係はと言えば、これはどうやら平安時代に存在した「別れの御櫛」という儀式から来ているらしい。
当時の宮中では、天皇の娘や妹などの独身女性が伊勢神宮に仕える高貴な巫女・斎王として、伊勢(現在の三重県)に下る慣例があった。彼女たちは天皇の退位や親族の喪に会わない限り、原則として京に戻ることが許されなかった。このため斎王と天皇の別れは、場合によっては生涯の別離となる可能性があるものだった。斎王は慣例として、伊勢に向かう直前、天皇と最後の対面を果たすが、天皇はその折、白い衣をまとって、平床の座――つまり斎王と同じ高さの床に座る。そして斎王の額に黄楊の櫛を挿し、「都の方に赴きたもうな(都の方に来るではない)」と声をかける。これが「別れの御櫛」と呼ばれる儀式である。この場合の櫛はくしけずる用の細櫛ではなく、挿櫛だったと考えるのが自然だろう。
斎王が都の方に来るとは、彼女が役目を果たして伊勢からの帰路に着くことを意味する。そのためには親族や天皇の身に不幸が起きる必要があるのだから、この言葉は一種の世の平安を願うまじないなのである。
『源氏物語』賢木巻には、光源氏の異母兄である朱雀帝が、伊勢に出発する新斎王の別れの御櫛に臨むシーンが描かれている。朱雀帝には従姉妹に当たるこの斎王は、時に十四歳。もともと麗しい少女であるところに加え、斎王にふさわしく装った姿は不吉と見えるほどに美しく、天皇は心を動かされてつい涙をこぼしてしまった――と紫式部は描写している。
なにせ当時は、今日とは比べものにならぬほど、別れが切実であった時代である。櫛を挿し、言葉をかけてやる、たったそれだけの儀式に込められた重みをつくづく考えさせられる。
清少納言のお気に入り
なお、平安時代後期に作られた歴史物語『大鏡』は、藤原道長と対立した天皇・三条帝にまつわるエピソードを収録している。「別れの御櫛」の儀式においては、天皇が斎王に櫛を挿し、言葉をかけた後は、互いに振り返らぬのが定めであった。しかし三条天皇は斎王となった娘との別れがつらかったのか、わざわざ振り返って娘を見送っており、居合わせた藤原道長はそれを「あやし」と感じたという。『大鏡』はこれを、三条天皇の治世がわずか五年で終わり、退位後まもなく彼が崩御する不吉な象徴として記している。とはいえ新斎王・当子内親王は三条帝の第一皇女で、この時、十四歳。実の娘との別れに臨む父親の気持ちを推し量れば、つい振り返ってしまうのはしかたないじゃないか、と考えてしまう。
――あさましきもの。さし櫛すりてみがくほどに、物につきさへて折りたる心地。
(まったくあきれてしまうもの。挿櫛をすって磨くうちに、物に突き当てて折った時の気分)
とは、清少納言が記した『枕草子』九十三段「あさましきもの」の冒頭である。挿櫛が儀式や装飾用の櫛だったことを思えば、日常雑器の細櫛よりも壊してしまったときの精神的ダメージは大きい。ましてやそれが櫛を磨こうとしていた最中となれば、なおさらだ。
一方で清少納言は同書二百五十八段「うれしきもの」でも、「挿櫛を磨きに出して、しゃれた仕上がりになった時もまた嬉しい」とうきうきと記している。決して大部ではない『枕草子』の中でこうも頻繁に言及しているところから推すに、清少納言は挿櫛がお気に入りの装飾品だったと見える。ただ具体的に彼女がどんな櫛を用いていたのかは、残念ながら記述がない。夜目、遠目、笠の内――の言葉ではないが、その事実がかえって遠い時代の櫛への憧憬をますます駆り立てるのである。