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「深きあはれ」を秘めた、鵜飼の篝火
ますらをが夜川に立つるかがり火に深きあはれをいかで見すらん 藤原隆信
あはれいつよかはのかがり影消えてありし思ひのはてときかれん 小侍従
鵜飼(うかい)は今日も人気の高い観光イベントだがその歴史は古い。すでに記紀(きき)の歌謡でも「島津鳥(しまつどり)鵜飼が伴(とも)」と親しげに呼びかけられている。月の明るさをさけて暗黒の川に篝火(かがりび)を焚き、首縄(くびなわ)の鵜を放って魚を漁(と)らせるのである。鵜の吞んだ魚を即座に吐かせる漁はどこか酷(むご)さがあり、夜川の闇と火の色、人間の手の非情さが漁の面白さのかげに単純ではない哀れを加えるようにもなっていった。
はじめにあげた歌も「ますらをが夜川(よかは)に立つるかがり火に深きあはれをいかで見すらん」というもので、「深きあはれ」が主題になっている。作者は藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)。鎌倉時代初頭の1193(建久4)年、藤原良経(よしつね)邸で催された六百番歌合(うたあわせ)という画期的な大歌合で詠まれたもので題は「鵜川(うかわ)」。勝負の相手は藤原有家(ありいえ)である。判者の藤原俊成(としなり)はこの「深きあはれ」を評価して「勝」の判定を下している。
内容は「ますら男が夜川に鵜舟を浮かべ、篝火を焚いて鵜を使い鮎を漁らせている。場面はいかにも勇壮だが、なぜかその背後に、私は言いがたく深い哀れを見てしまうのだ」というものだ。源平騒乱のはて壇ノ浦に平家が滅びてから八年、鎌倉新政権が着々と基盤を整えてゆくのを見ながら、実権を失った京都の公家たちの思いはどうであったろう。
長年にわたって築かれ馴染(なじ)んだ精神文化の変革がなされようとしていたときでもある。「深きあはれ」に共感して勝利を下した俊成には、この時代の文化人たちが求める歌の方向が見えていたといえるかもしれない。言語表現の高度なテクニックを競いあう背後にある「深きあはれ」を味わう心情である。
もう一首の歌の作者小侍従(こじじゅう)は宮廷に長く仕えた女性である。歌人としても才智に富んだ作風、中でも即座の返歌の巧みさが人気であった。
ここにあげた歌はまだ若いころの恋の歌である。『小侍従集』という私歌集に詞書(ことばがき)とともに残されている。それによれば、小侍従は久我(こが)大臣家の養嗣子(ようしし)で後に久我内大臣と呼ばれる雅通(まさみち)と恋をしていた。久我家は桂川の西岸にすばらしい別荘を持っていたが、雅通はここによく小侍従を伴い遊ぶこともあった。そうしたある日、雅通は小侍従を伴い桂川に鵜舟を催し、面白き遊びを尽して青春を謳歌したのである。しかし、その後雅通からは久しく訪れもなくなり、不安にかられて雅通に贈ったのがこの歌だ。
「あはれいつよかはのかがり影消えてありし思ひのはてときかれん」。歌は一首だが内容が濃い。「ああ、あれはいつのこと。暗い夜川に鵜舟を立て、篝火を赤々と焚いて川魚を漁らせた。忘れがたいあの夜のあなた。その篝火が消えてからはさっぱりお手紙もなく、私は忘れられたのでしょうか。そう思うともう死にそうですわ」というものだ。濃密な一夜の思い出をこめたこんな歌に、男性はどんな返歌を詠んだらいいのだろう。
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)。
構成/氷川まりこ
※本記事は雑誌『和樂(2022年8・9月号)』の転載です。