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Culture

2025.10.15

「意義」を見出せないものをあえて選ぶ。日文研 中丸貴史准教授に聞く、令和の生き方

コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスばかりがもてはやされる昨今。そんな時代の流れに逆行するようだが、「役に立たないことこそを楽しむ」というのは和樂webの重要なコンセプトの1つである。
役に立つこと、意味のあること、無駄のないことだけが重要なのだろうか。そうして削ぎ落とされてしまった部分にこそ、本当に大切なカギが眠っているのではないか。

そんなことを思っていると、2025年6月、衝撃的な記事が目に飛び込んできた。国際日本文化研究センター(日文研)のニューズレターに掲載された中丸貴史(なかまるたかふみ)准教授の着任あいさつ「『意義』への異議申し立て」である。

今の世間で「意義」とされるものだけが意義あることなのか。「意義」とされるものは本当に最重要事項なのか。
そんな主張に大いに共感しながら、中丸准教授にお話を伺った。

中丸貴史准教授の着任あいさつ「『意義』への異議申し立て」

「社会から“認められない”意義」へのまなざし

── この「『意義』への異議申し立て」を着任あいさつとして書かれた経緯をお教えいただけますでしょうか?

中丸貴史准教授(以下、中丸):一般にいう「意義」というのは、社会的、権威的に認められた「意義」を指すと思います。学者というのは、その社会的、権威的に認められたものも含めた、さまざまなものごとに対して「それってどうして?」と考えることから始めるわけですよ。ところが、特に最近は、我々学者たちも、「意義」を説明し、それが認められないと、研究ができない。「そんなのあたりまえだろ」という声が聞こえてきそうですが、それを方便とわかっていてやるならまだいいのだけれど、どうもそれすら考えない、社会や権威に従順な「学者」が増えているような感じがします。

中丸貴史准教授。お気に入りのカフェの大好きなメロンパフェとともに

── 直接的な利益と関係しない、というか、表面上そう見える研究や活動の予算が年々縮小されていると言われます。国立科学博物館が資金不足で大規模なクラウドファンディングを行ったのは記憶に新しいところですよね。けれど、すべての研究が短期間で経済的な結果に結び付くかというと、そういうことでもないように思います。
 
中丸:くりかえしになりますが、研究というのは「なぜ?」から始まるわけで、「意義」から始まるわけではない。「意義」から始めてはいかんとまでは言わないけれど、それはちょっと打算的かつ営利的で、すくなくとも私は、そういうのはおもしろいと思わない。逆に意義というのは事後的に(場合によっては、それを研究した人間が死んだ後に)発見されるもので、知りたいという好奇心がまずあって追究していくというのが、いいですよね。偉大な発見の多くは意義からではなくて好奇心から始まっているんじゃないでしょうか。

── たしかに、好奇心が原動力となっていなければ、フグ食文化なんて成立していないかもしれませんね笑

中丸:笑。この社会の息苦しさというのも、これと関連するんじゃないかな。「意義」が認められたもの、あるいは「(短期的に)役に立つもの」以外は存在が認められない、そんな料簡の狭さ、不寛容さが、人々を苦しめている気がするんです。私の専門は日本文学、主に平安時代の文学ですが、これらを読んでいると、今とは違うところに「意義」があるわけです。つまり、今言われるところの「意義」というのは、長い歴史や広い世界を見渡すと、ほんの一部でしかないということを、学者として専門知を基にして、着任にあたって宣言してみたというところです。「意義」にとらわれずにもっと楽しくワクワクすることをやりましょうという呼びかけでもあります。そういう意味で今回の取材はまさにそれに応じてくれたと思っていて、とても喜んでいます。

「要急」に他ならぬ、「不要不急」な芸術

── 日文研ニューズレターの記事冒頭に、何かをするためのお金が必要なとき、「意義」が説明されたうえで行なわれる、とありましたが、これは予算や経費などが代表的なものかと思います。それに続く一文「そして書かれた『意義』は、往々にして表面的かつ総花的で、こちらが煙に巻かれた感じがする」に笑ってしまったのですが、まったくその通りで、光景が目に浮かぶようです。申請する側も受ける側も、少なからずそう感じながら意図的に考えないようにしていることが大半ではないでしょうか。

中丸:考えないようにしているんでしょうね。思考停止のたまものです。でも、世の中にそういう文章があふれているでしょう? だからどれでもいいから読んでみてほしい。少なくとも私には全く頭に入ってきません。当然記憶にも残りません。古典の名文を読んでる身からすると耐え難い文章です。とはいえ、お金をもらわなければできないこともあるから、まずその目的が達成されるとするのならば、それはそれで実用的な文章として必要なわけですけれども。

── 「意義」が説明できないと、それ自体の存在が認められないことも多い、というのは、コロナ禍を経験してきたからこそ、明確な形として見えているようにも思います。舞台や芸術など、自粛対象として真っ先に切り捨てられましたよね。

蹄斎 北馬(ていさい ほくば)『猩々(部分)』メトロポリタン美術館より

中丸:ある目的があってそのために必要なこと、が意義となるならば、一面では間違っていないと思うんです。例えば、お金を稼ぐということが第一の目的になる場合、今お金を稼げることは何かを考えるでしょう。残念ながら舞台や芸術、文学はあまりそれには向かない。しかしそれに「意義がない」というのは違うわけです。
人間はお金のためだけに生きているわけではないことは、もしかしたらお金をいっぱい稼いだ人ほど知っているかもしれませんね。そういう意味では、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐために、舞台や芸術活動などを自粛するというのも、ある意味正しいんです。
でも、それは全てではない。舞台や芸術、文学は「不要不急」ではないんです。むしろ人間にとって「要急」なんです。
心身の栄養分、もっと言えば空気みたいなものではないでしょうか。きれいな空気のなかにいるとそんなに気にならないけど、空気がよごれてからようやく、その重要性に気づくみたいな。また、元気なときには気づきにくいかもしれませんが、「あ~生きててよかったな」「こんなダメな自分だけどそれでいいんだ」と根本から自分の存在を考える、きっかけを与えてくれるものだと思います。それにはタイパやコスパとは違う次元の価値があります。それがなければ、寅さんの言うところの「造糞機」になってしまう。

── 昭和の名作『男はつらいよ』シリーズの主人公、「フーテンの寅」こと車寅次郎の名セリフですね! なかなかにインパクトの強い言葉ですが、ただ食べて過ごすだけで無為に生きる、というニュアンスが実によく伝わってきます。

日文研外観(中庭)

中丸:タイパやコスパとは違う次元の価値、という意味では、喫茶店なんかはまさにそうですよね。お茶をするということだけだったら、公園や駅のベンチや家のほうが安くて済む。でもそれだけではないから行くんでしょう。
私は前の職場で嫌なことがあったときは、早めに職場を出て、喫茶店に行きました。気分を整えるために。不機嫌は周りにも悪影響を与えますからね。私にとって喫茶店は気分を整える場所でもあるのです。食事だってそうでしょう。栄養を摂取できればよいというだけではだめでしょう。
例えばどんなうつわで食べるか、ということはとても重要です。そこに文化があるわけです。多くの人間はそれを無意識に享受しているのですが、なぜか、究極の状態だけが必要と考えられたりするんです。災害が起きている状態でなくても。

── たしかに、お気に入りのうつわで食べると、より料理がおいしく感じられたりしますよね。とはいえ、明確な「意義」の説明なしに、おもしろそうだから、と、予算を出してくれるというのは、現代ではほとんどないことのように思います。それはどのような理由によるとお考えになりますか?

中丸准教授の研究室からの景色

中丸:予算を決める側の教養の問題だと、言いたくもなるのですが、民主主義社会においては、多くの人々の理解が必要なわけです。日本社会が明治維新以降一貫して、成長主義的、拡張主義的であったということと関係するのではないでしょうか。つまり、戦前は「軍備拡張」、戦後は「経済成長」というお題目があって、それに突き進むことが正義とされて、人々が人間そのものに向き合ってこなかったのではないでしょうか。そこから外れた者を「落伍者」として扱うような社会です。でもそこから外れることで見えてくる世界もある。だからむしろみんなに外れる勇気をもってほしいんです。

というか本当はみんなそこから外れているのに、無理してあわせている。だから苦しくなるんです。これまで我々が猛進(妄信)してきたものはあくまでも価値の一つであって、別の価値も存在することに気付いてほしいんです。文学や芸術はそこを問題としています。そこに気づいた人が多い社会ならば、おもしろそうだからと、ちゃんと意義を見出して、予算を配分してくれるはずなのです。だから現状は文学や芸術に携わる我々の敗北でもあると思っています。

中丸准教授は漢文で書かれた日記(古記録)を中心に研究をしている。これは『三長記』という鎌倉時代の藤原長兼の日記の江戸時代の写本。中丸准教授所蔵

── 「外れる勇気」というのは芸術家・岡本太郎の主張とも通じるように思います。自分の心に嘘をつきながら「当たり前」の人生を送るのではなく、心の声に耳を傾け、ワクワクする道を進め、と。

中丸:ほんと、その通りですよね。だいたい、ワクワクすること、楽しいこと、おもしろいこと(つまり幸福を感じること)を今の社会は軽視し過ぎではありませんか。意義を書く欄にも最後は「~だからおもしろい(ワクワクする)」というようなことを結論として書かせてもよいかもしれません。
そんなことを言うと、そんな漠然としたことをとか、人によって違うものは基準にならないという人が出てくるでしょう。今の「意義」だって私からすれば漠然としているし、なんとなくの基準でしょうと毒づきたくもなります。むしろ、人によって違うおもしろさを突き詰めていくというのは他者理解になりますし、人によって、その感性が違うのだから、それを生かしながら社会を形成していったらいいと思うんです。

「ガラクタ」と「宝物」のあいだ

── 価値や意義といったものが、絶対不変のものではない、という視点は身につまされます。伝統工芸に携わっているのですが、興味のある人でなければ厄介なガラクタ扱い、なんでそんなものを後生大事にしているのか、と直接的な言葉でなくても言われることは多々あります。貴金属なら誰しもその価値が分かるが、そうでないものは価値のあるなしをどう決めたらよいのか、と。けれど、仮に貴金属がありふれた平凡な存在だったり、そうでなくても興味を持たれなかったり、といった世界であれば、金や銀を山ほど持っていっても、日常使いの野菜やくだもの1個とすら交換できないかもしれない。であれば、価値とは一体何なのか、と思うのです。

日文研図書館の天井

中丸:実は、それは古代から変わらない現象なのではないでしょうか。人によって状況が異なるので、価値観が違っていていいわけです。ただ、価値が多様であるという前提だけは共有しておく必要があります。自分はそれに価値は見いだせないけれども、あなたは価値を見出しているのねという態度です。

例えばみうらじゅんという人がいますね。ゆるキャラやマイブームなどの言葉を生みだした人ですが、彼はたくさんの「ガラクタ」を集めて楽しそうにしています。こんなもの集めてどうするんだと思ってしまうようなものを集めています。でも彼はそれを否定せずに、むしろ認めつつ、実に楽しそうにその「ガラクタ」コレクションを解説してくれます。そうすると聞いている私たちは、なるほどそういう視点があるのかと、妙に納得してしまうわけですが、それこそ、価値の多様性への気づきであり、そこに気づくことで、他人にも自分にも寛容になれるわけです。

── 価値の多様性、文化芸術に限らず極めて重要な考え方だと感じます。そうすると、先ほどの「貴金属なら価値が分かるが」という相手にはどう説明したらよいのでしょうか? 「大事な文化財だから」と言ったところで、興味のない人には響かないと思いますし。

中丸:ある問題に行き詰っているときはたいてい、一つの価値観にがんじがらめになっているときですから、別の視点や価値の導入が不可欠なわけです。だから「大事な文化財だから」と、「国宝」「重要文化財」みたいなラベルで見るのではなく(それは人を学歴や肩書きでみるのではないのとおなじで)、ちゃんとそのものの価値を理解したうえで説明することが大切なんではないでしょうか。そして、そういうものは、さまざまな価値を内包しているので、我々が明日楽しく生きるヒントがあるはずなのです。説明する側にもそれなりの能力が求められるのだと思います。

日常生活重視と文化財保護は、両立可能か

── 多様性、と言ってしまうと流行りの概念のように聞こえるかもしれませんが、まったく同じ価値観を持った人間など滅多にいないと思います。それに、ともかく生活をすることが最優先だから、文化財保存は置いておいて日常に直結するインフラ整備などをしてくれ、という意見も、感情としては同意できなくても理屈は痛いほど理解できます。そのあたりでどうしても意見がぶつかるケースがあると思うのですが、どう説明し、折り合いをつけていくのがよいのでしょうか?

日文研図書館

中丸:今の日本国民の多くは戦後の廃墟から脱してモノがあふれた時代を知っています。でもそれだけでは幸せになれなかったということをちゃんと考えておく必要があります。さっきの食事の話になりますが、これだけさまざまな選択肢があるのに、そういう社会を実現したのに、まだ「食べられればいい」というレベルで社会を運営しているのが理解できません。たしかに今またインフラの老朽化や物価高でモノが不足しつつあります。しっかりと歴史的な経験を踏まえたうえで、みんなが考えていく必要があるのではないでしょうか。

鎌倉時代に武力で権力を握った人間が、それだけでは国を治められないということで法律を整備し、京都から学問を鎌倉に移植したということがありました。戦争状態を治めるためには、まず武力が必要かもしれませんが、その後、秩序を維持するためには、やはり知が必要になるわけです。目の前の問題を片付けることと、それが片付いたあとのことは同時に考える必要があるということを丁寧に説いていく必要があるでしょう。なによりも多様性の確保は逃げ場を作ることでもあります。確かに多様性は面倒くさいですが、同時にとても楽しくワクワクすることも多くあると思います。

本当にすごい人は、他人を見下さない

── 巷にあふれる「日本すごい」の風潮についても日文研ニューズレターの記事で触れられていましたが、どこか歪んだ心理が存在するように私も感じます。日本の文化を紹介すること自体はもちろんとても良いと思いますが、発信者の価値観の押し付けと、受け手のある種の思考停止によって成り立つというか、いわゆる「他人軸」といびつな自己愛の要素をかなり強く持っているような気がするのです。

中丸:自分の生まれ育った国や地域を「すごい」と思いたい気持ちというのは誰でもあると思います。でもこの言葉を聞くたびに、自信がないのかなあと思ってしまうんです。「自分ってすごい」って思うのはどんなときかというと、なにか競争相手がいてそれに打ち勝ったとき、まさかできるとは思わなかったけれど(自信がなかったけれど)、というある種の興奮状態にあるときではないでしょうか。それが達成されたときはすごいと思っても、次第にそれが普通になるとすごいとも思わなくなります。何かを達成したときに「すごい」と思うのはいいのですが、それは一時のことで、本当にすごい人は、人を見下さないし、それどころか、人の魅力を見出したりする。成熟した大人は自分をすごいとアピールするのではなく、相手の魅力を引き出す行ないをするのではないのでしょうか。

紅葉の日文研

「意義」でものごとを選ぶと不幸になる?

── 「あるものに魅了された経験があるとするならば、その『意義』によってではなく、そこにあったからという偶然性と、その人の感性によってではなかったか」という一文には、はっとさせられました。たしかに、何かの意味があるから好きになったか、というと、そんな打算的なものではなくて、ただ好きになったから好き、としか説明しようがない、根っこの分からない衝動だったかもしれません。理由らしきものは後付けにすぎないようにも思います。

中丸:まず、私は社会的に認められた「意義」があるからという理由で、何かに魅了されたことはただの一度もないということです。もちろん今の仕事もそうです。
大学、大学院と学習院でしたが、労働者の家庭に生まれた私は学習院の雰囲気にあこがれて入学したので、日本語日本文学科には偶然入っただけで、日本文学には大して興味はありませんでした。学習院は思ったよりも大衆的でがっかりした面もありましたが、キャンパスの雰囲気はこぢんまりとして気に入っていたし、意外に講義が面白く、気がついたら、はまってしまったのです。もっと続けたいと思って大学院に進みましたが、一般的に文学専攻で大学院なんかにいったら、もうそれこそ落伍者になる可能性が高かったわけです。だから、職につくとか、家庭をもつとか、そういう一般的な幸せというのはあまり期待していませんでした。

中丸:先ほどの繰り返しになりますが、「意義」というのは、それをやっておいたほうがよいとか、いわゆる「今、役に立つ」ことと密接に関わっています。社会的に認められた「意義」というのは「他人軸」なので、これは経験的な感想ですが実は「意義」でものごとをえらぶとむしろ不幸になるのではないかとすら思っています。

── 意義で選ぶと不幸になる、ですか。逆説的で興味深いです。

中丸:自分の感性にしたがって生きるというのは、簡単なことではないのかもしれませんが、戦後の日本は歴史上でもっともそれを可能にする社会をつくったと思っています。
私はロストジェネレーション世代なのですが、就職活動をしませんでした。就職説明会や就職セミナーに初めは出たのですが、そこに出てくる大人が魅力的でなかったので、自分の感性にしたがって大学院に進みました。当時は無理をしてでも就職という狭き門をくぐるべきだと思われていたので、心ある人からいろいろと心配されましたし、卒業後、大学の同期たちと食事に行ったときに、これまでは安い居酒屋だったのに、築地の寿司屋にかわり、私だけ会費を安くしてもらったのは、ちょっと屈辱感はありましたが、自分で選んだ道だったので、後悔はありませんでした。むしろ好きなことを選んだことで、一年一年を自分の足で過ごしているという感覚はありましたし、好きだからこそ、続けられたのだと思います。

「日文研に着任したときに購入して京都に連れてきた矢澤寛彰の蓋物。作家本人も何を入れるかという用途を考えず楽しんで作ったとのこと。用途は今なお考え中だが、それがあるだけで落ち着く。」(中丸准教授・談)

── 仕事選びについては、様々な視点から多様な意見が出されていますが、私は中丸先生と同じタイプです!

中丸:ありがとうございます! もちろん他人の評価というのは気になりましたが、指導教授が実に私の魅力を引き出してくれる人だったのと、学界というのは面白いところで、一つの研究に対して評価する声もあればしない声もありで、あまり評価に拘泥(こうでい)すると面白いことができないということも学びました。さらに好きと付き合い続けることは幸福を考えることであり、自分とは何者かを考え続けることでもあります。考えるためには学ばないと考えられない、そうして、四十歳を過ぎたころから昔の好きと今の好きがつながることに気がついてきました。つまりいまだに自分についての新たな発見があり、その喜びを感じているのです。

「よくわからないものが存在する余地を残しておく」ことの重要性

── 「社会的、権威的に認められた『意義』だけではなく、よくわからないものが存在する余地を残しておくこと、それが成熟した社会の要件」と書かれていましたが、これは現代日本に必須の考え方ではないかと感じました。

中丸:私が社会的、権威的に認められた「意義」にしたがって生きていたらと考えるとぞっとします。学者の仕事は成熟した社会をつくるお手伝いをすることだと思っています。古今東西あらゆることをさまざまな学者が研究対象とすることで、現代では考えられないような価値に出会います。「よくわからない」というのは、現代の価値にしばられているからであって、「よくわからない」ものを生みだした時代や場所の価値観を理解することで、わかるというのもよくあります。

── 私も以前、平安時代の風俗を現代の価値観で捉えて「これってこういうこと?」と詳しい人に聞いてしまったことがあります。いや、その時代にはそういう考え方じゃないんだよね、とやんわりと注意されてしまいましたが。

江戸時代の百人一首かるた。中丸准教授所蔵

中丸:平安文学を研究していると言うと、(その時代の人は)和歌なんかを詠んだりして優雅でいいですね(あの人たちは暇人ですよね)と、ちょっと馬鹿にしたように言われることがよくありますが、現代人も別の時代・場所の人たちからすれば、不思議なことをいっぱいしています。
例えば、通勤ラッシュ。なぜみんな同じ時間にでかけるのか、わざわざ混む電車に乗るのか、わかりません。あんたは学者だからそんなことを言うんだと怒る人がいるかもしれませんが、冷静に考えれば、仕事の効率性から考えてもあまり賢いことではないはずです。でもみんな、同じ時間に通勤し、へとへとになって出社するわけです。

── 満員電車のストレス値は戦場の兵士に匹敵する、という研究もあると聞きます。仕事を始める前にそんなレベルに消耗してしまっていては、最大のパフォーマンスは望めませんよね。

中丸:そうなんですよね。でもそこに現代人が、仕事の効率性以上に大切にしていることが見えてくるのだと思います。平安時代人も暇だから和歌を詠んでいたわけではありません。古典を研究していて分かったことは、いつの時代の人も必死に生きているということです。

「かわいく育った冬瓜。野菜くずを土に埋めて、出てきたものを育ててみている。何になるかわからないので、途中までメロンか、スイカかと思っていた。」(中丸准教授・談)

── 時代の違い、同じ時代でも個々の立場や価値観の違い、そうしたものの存在を認め、自分の視点だけが絶対的に正しい、と他者を攻撃することのないように気を付けていきたいです。

中丸:今、世界中が変革期を迎えているような気がします。これまでの価値観ではどうにもならない時代が始まっているのです。そういうときに考えるヒントを与えてくれるのが「よくわからないもの」あるいは「はみ出しもの」なのではないでしょうか。成熟していない社会は、目の前のことで手いっぱいでそれを許容する力がありませんが、成熟した社会はそうしたものを許容し、そこから新しい社会を切り拓くヒントを得ることができるのではないかと考えています。

おわりに・「秘密のカギ」はどこにある?

少し前になるが、シンガーソングライターの米津玄師さんが「あってもなくてもいいもの、無為のものを作品のどこかに入れたい」とテレビのインタビューで発言しておられた。「意味のないもの」は本当に無意味なのか、という視点は、米津さんと中丸先生に共通したもののように思う。

本当はもう世間も気づいているのではないだろうか。タイパ・コスパ至上主義の限界と、令和の世を乗り切る「秘密のカギ」の在り処に。
気づいたならば、気づいていなかったとしても知ったならば、周囲の目など気にせず変わればいい。それこそが「君子(くんし)豹変(ひょうへん)す」、いにしえより伝わる「君子=知識・人格ともに立派な人」の在り方なのだから。

中丸貴史准教授の着任あいさつ「『意義』への異議申し立て」を日文研公式サイトにてぜひお読みください!

※記事中画像は、蹄斎 北馬『猩々(部分)』を除き、中丸准教授のご提供です(禁転載)

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あきみず

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。
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