白昼の稲葉山城乗っ取り
「何? 稲葉山(いなばやま)城から、斎藤龍興(さいとうたつおき)が追われただと?」
織田信長を驚かせる知らせが小牧山(こまきやま)城に届いたのは、永禄7年(1564)2月のことでした。知らせによると、去る2月6日の白昼、稲葉山城に登城した十数人の斎藤家家臣らが、城主龍興の側近である斎藤飛騨守(ひだのかみ)ら6人を斬り、これに呼応して安藤守就(あんどうもりなり)がおよそ2千の軍勢で城を囲みました。城主龍興はなすすべもなく、重臣らとともに城外に脱出、稲葉山城はあっけなく陥落したというのです。わずか十数人で城内を制圧したのは、安藤の女婿(むすめむこ)の竹中半兵衛。この作戦を立案したのも、21歳の半兵衛であったといわれます。
永禄3年(1560)、桶狭間(おけはざま)の戦いで東海の雄・今川義元(いまがわよしもと)を討ち取った信長は、以後、尾張(現、愛知県西部)の北隣、美濃(現、岐阜県)を攻略すべく、斎藤氏に挑みました。桶狭間の翌年には斎藤家当主の義龍(よしたつ)が病没、14歳の息子龍興に代替わりします。信長にすれば美濃攻略の好機のはずでしたが、斎藤方の守りは固く、何度も苦杯をなめました。永禄6年(1563)には美濃に近い小牧山に新たな城を築き、本拠を清須(きよす)城から移して、美濃攻めに本腰を入れた矢先の、稲葉山城陥落の知らせだったのです。信長は稲葉山城の半兵衛のもとに2度使者を送り、稲葉山城を引き渡すように求め、また代償として美濃半国を与えると伝えたという説もありますが、半兵衛は誘いには乗りませんでした。
なぜ、半兵衛は主君龍興を稲葉山城から追い出し、城を奪ったのでしょうか。従来、「龍興の愚行を諫(いさ)めるためであった」と語られてきましたが、城の占領が半年余りに及んだ点、また美濃三人衆のひとりである岳父の安藤守就が兵を動かした点などから、安藤と半兵衛によるクーデターであったとする見方が、最近は主流になっています。ただクーデターといっても、以後、安藤や半兵衛が美濃のリーダーになるという意味合いではなく、龍興をミスリードしている取り巻きたちを排除して、美濃三人衆ら旧来の重臣が正当に扱われるような、家中の刷新を意図していたのではと私は考えます。想像をたくましくすれば、舅(しゅうと)の安藤からそんな相談を受けた半兵衛が、協力したのかもしれません。
同年10月頃、半兵衛は稲葉山城を龍興に返還すると、飄然(ひょうぜん)と去って行きました。当初の目的は達成されたと判断したのか、それとも斎藤家の前途に見切りをつけたのか、その辺はわかりません。返還にあたり衝突はなく、半兵衛が無事に退去している点、また以後、安藤守就の息子が斎藤家の重臣となっている点からも、半兵衛や安藤らが私的な野心を抱いて城を奪ったとは、斎藤家の他の家臣たちも考えていなかったことがわかります。
美濃斎藤氏の家紋「撫子(なでしこ)」
栗原山に隠棲
ここで、半兵衛の出自(しゅつじ)を簡単に紹介しておきましょう。半兵衛重治(しげはる)は天文13年(1544)、美濃国大野郡大御堂(おおみどう、現、岐阜県揖斐郡大野町)に生まれました。父の重元(しげもと)は大御堂城主で、斎藤家に従っています。永禄元年(1558)に父・重元は不破郡の岩手弾正(いわてだんじょう)を敗走させ、菩提山(ぼだいさん)城(不破郡垂井町岩手)を築きました。
その後、重元は近江(現、滋賀県)の六角(ろっかく)氏の要請を受け、永禄3年(1560)と翌年の2度、近江に侵攻し、北近江の浅井(あざい)氏と戦いました。浅井氏が六角氏から離反したタイミングのことで、近江と国境を接する不破郡を領する重元にすれば、近江からの侵攻を牽制するねらいがあったのかもしれません。これらの戦いに半兵衛が参加していたのかは、不明です。永禄5年(1562)、重元が没すると、19歳の半兵衛が家督を継ぎます。同年、斎藤家の重臣・安藤守就の娘阿古(あこ)姫と結婚しました。半兵衛は生涯、側室を持たなかったと伝わります。
さて、稲葉山城を退去後、半兵衛は21歳の若さで隠棲(いんせい)生活に入りました。北近江の浅井長政(ながまさ)に客分として招かれ、東浅井郡草野(現、滋賀県米原市)に3千貫を賜ったという説もあります。かつて半兵衛の父・重元は浅井氏と戦いましたが、過去のいきさつよりも稲葉山城を白昼奪ってのけた半兵衛の手腕を、長政は評価したのかもしれません。しかし半兵衛は1年もすると、浅井家を辞して美濃に帰り、栗原山(くりはらやま、不破郡垂井町)で暮らしたと伝わります。栗原山は南宮山(なんぐうさん)南東の尾根続き。鎌倉時代には九十九坊(くじゅうくぼう)と呼ばれる多数の寺院が山肌を埋めましたが、南北朝時代の戦火で失われました。半兵衛はそんな場所を、隠棲地に選んでいます。半兵衛が世を去って20年後の慶長5年(1600)年、関ヶ原の戦いでは、南宮山一帯も戦場となり、多くの武将が布陣しました。栗原山には長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が陣を置きましたが、かつての寺院跡の地形が陣の構築に好都合だったようです。美濃で微妙な立場の半兵衛は、不測の事態に備えて、守りに適した栗原山を選んでいたのかもしれません。
菩提山城と栗原山の位置関係(国土地理院地図を加工)
信長に仕える
半兵衛が栗原山で暮らしていた頃、信長の美濃攻めは大詰めを迎えていました。永禄8年(1565)には美濃東部から中部にかけて制圧、稲葉山城の斎藤龍興を追い込みます。永禄10年(1567)8月1日には、安藤守就の他、稲葉良通(いなばよしみち)、氏家直元(うじいえなおもと)の美濃三人衆全員が信長への帰順を表明。この機を逃さず信長は稲葉山城を攻囲し、ついに斎藤龍興は城から落ちのびました。ここに戦国大名の斎藤氏は滅び、美濃を平定した信長は、稲葉山城を「岐阜城」と改めて新たな本拠とします。折しも支援を求めてきた足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、上洛することを決断した信長は、「天下布武」の意志を掲げ、畿内平定に乗り出すことになります。
同じ頃、秀吉が栗原山の半兵衛のもとに通い、説得して味方に引き入れたとする説があります。『三国志演義』で、劉備(りゅうび)が「三顧(さんこ)の礼」をもって諸葛孔明(しょかつこうめい)を迎える場面のようなドラマチックな説ですが、『三国志演義』が小説であるように、この説も真偽のほどはわかりません。実際に半兵衛が秀吉の与力(よりき)となるのは、斎藤氏が滅んでから5年後の、元亀元年(1570)の夏頃と見られています。なお与力とは、この場合でいうと、信長の家臣でありながら一時的に秀吉の指揮下に入って協力する者のこと、でした。つまり、それ以前に半兵衛は信長に仕えていたわけで、時期的には永禄11年(1568)頃とする見方があります。
永禄11年といえば信長は、足利義昭を奉じての上洛と畿内の制圧、義昭の15代将軍就任に成功し、室町幕府復興の功労者として、全国にその名を轟かせました。しかし2年後の元亀元年(1570)、上洛要請に応じない越前(現、福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を信長が討伐に向かったところ、信長と同盟を結んでいた北近江の浅井長政が突如、朝倉に味方して敵対。以後、信長は苦境に立たされることになりました。そして半兵衛の活躍は、この辺から始まることになります。
岐阜城
調略と姉川の戦い
「調略(ちょうりゃく)」という言葉があります。敵の内部から協力者を獲得したり、また敵そのものを味方につける謀(はかりごと)のことですが、半兵衛は生涯、これを得意としました。
元亀元年6月初め頃、半兵衛は浅井方の長比(たけくらべ)城(米原市柏原)を訪ねます。長比城は信長と敵対した浅井長政が、備えとして美濃との国境に新たに築いた城でした。城将は浅井家家臣堀秀村(ほりひでむら)の家老、樋口直房(ひぐちなおふさ)。信長に仕える半兵衛にとって敵方の城ですが、樋口とは旧知の仲でした。一説に半兵衛が浅井の客分となった際、住居を世話したのが樋口だったといいます。半兵衛は樋口を説得して味方につけることに成功、さらに樋口の主君である堀秀村の鎌刃(かまは)城(米原市番場)をともに訪れ、秀村の同意も得ました。長比城、鎌刃城はどちらも中山道を押さえ、浅井領の南端に位置する城です。両城の堀秀村、樋口直房が織田方についたことで、信長は浅井攻めの足がかりを確保しました。半兵衛の功績です。
元亀元年6月19日、2万の兵を率いた信長は岐阜城を進発。同日中に長比城に入り、21日には浅井長政の居城・小谷(おだに)城の南方、虎御前(とらごぜ)山に布陣します。そして1週間後の28日に起きるのが、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍による「姉川の戦い」でした。激しい攻防の末、織田・徳川方が勝利するものの、浅井・朝倉方に致命的なダメージを与えるには至りません。姉川の戦いで、半兵衛がどこにいたのかは不明です。秀吉の下にいて、「円形の陣」を献策したという説がある一方、舅の安藤守就の下にいたともいわれるようです。いずれにせよ、遅くとも姉川の戦いの後には、半兵衛は与力として秀吉を支える立場になっていたと見てよいでしょう。
姉川の戦いの後、秀吉は小谷城の6kmほど南東の横山城(長浜市堀部町・石田町)の城番を信長より命じられ、小谷城に対してにらみを利かせます。秀吉が不在の時には、弟の小一郎(のちの秀長)が代わりに城を守り、与力の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)や半兵衛が支えたことでしょう。小一郎と半兵衛の直接の関わりを示す史料は少ないですが、以下、2人の交流を探ってみます。
近江の諸城(国土地理院地図を加工)
参謀役の半兵衛と補佐役の小一郎
横山城は浅井領に突き出す織田方の城のため、何度も浅井勢の攻撃を受けました。半兵衛はその都度、敵の企図(きと)を正確に見抜き、秀吉に適切な献策を行って城を守ったといわれます。秀吉が留守の際には、代理の小一郎に献策したのでしょう。小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』には、横山城に攻め寄せた浅井勢を、半兵衛が手勢を二手に分けて食い止め、さらに退却する敵を追撃して戦果を上げる様子が描かれ、
「当時といえども、これほどまでに戦略に優れた者は少なく、信長公、秀吉公、いずれも竹中を深く愛された」
という人物評を紹介しています。
元亀2年(1571)9月には、秀吉留守中の横山城で浅井勢を迎え撃ち、城門の外で奮戦していた加藤光泰(かとうみつやす)が重傷を負うと、半兵衛自ら助太刀して窮地を救いました。光泰は生涯、半兵衛を命の恩人として感謝し、のちに光泰の娘が半兵衛の息子重門(しげかど)に嫁ぎます。小一郎が秀吉の代理として横山城を守りながら、半兵衛に接して多くを学んだであろうことは想像に難くありません。元亀2年の時点で小一郎が32歳、半兵衛は28歳。誠実な小一郎はおそらく4歳年下の半兵衛に対して敬意を失わず、そんな小一郎の人柄に半兵衛は親しみを抱いていたことでしょう。
同年、小一郎は浅井家の重臣である宮部継潤(みやべけいじゅん)の調略のため、宮部城(長浜市宮部町)を訪れます。史料によっては小一郎と蜂須賀正勝の名が記され、半兵衛の名がありませんが、調略には半兵衛も同行していたはずです。宮部の説得がどのように行われたのかはわかりませんが、想像するに、半兵衛は物事の道理で相手を説き、小一郎は相手の情に訴える方法だったのかもしれません。宮部は秀吉の甥(のちの秀次)を人質とすることを条件に、内応を承諾。その後、宮部が小一郎を支える存在になることを思えば、大きな意味のある調略成功でした。
なお、農民出身の小一郎は半兵衛から学ぶことが多かったでしょうが、半兵衛をまねることはしなかったと考えます。秀吉の下での、それぞれの役割が異なるからです。半兵衛は戦略・戦術を献策、ときに調略を実行する知恵袋のような「参謀役」、一方の小一郎は秀吉の分身として、家臣統括や実務面を助ける「補佐役」でした。両者は秀吉にとってある意味、車の両輪のような存在で、半兵衛と小一郎が協力して支えたからこそ、秀吉が出世街道を驀進(ばくしん)できたことは間違いないでしょう。
竹中氏の家紋「九枚笹(きゅうまいささ)」
すこぶる大らか
天正元年(1573)8月、秀吉は半兵衛、小一郎らとともに小谷城を攻め、ついに攻略。浅井長政は自刃しました。一説に、城の急斜面を上ってまず主要な曲輪(くるわ、城の区画のこと)の一つ、京極丸(きょうごくまる)を落とし、尾根上の各曲輪を分断して攻略する作戦は、半兵衛の献策だったともいわれます。この功績で秀吉は、浅井旧領の大半を信長より与えられ、琵琶湖畔に新たに長浜城(長浜市公園町)を築き、「城持ち大名」となりました。長浜の城下町の設計についても、半兵衛は秀吉にアドバイスしたといわれます。
天正3年(1575)5月の三河(現、愛知県東部)長篠(ながしの)の戦いでは、秀吉に従って半兵衛、小一郎らも参戦。『太閤記』は、敵の武田軍の陣移動を見て、秀吉隊もあわてて動きますが、半兵衛のみは冷静に見極め、配下を動かさずにいたところ、敵が間もなく元の位置に戻ったというエピソードを紹介。また半兵衛の性格について
「万事につけて、自分の優れたところをひけらかしたり、他人の短所をあげつらったりすることがなく、すこぶる大らかであった」
と結んでいます。天才的な才能を秘めながら、穏やかで思慮深い半兵衛は、誠実な小一郎と気が合ったのかもしれません。
秀吉を支える半兵衛と小一郎の両輪体制は、天正5年(1577)に秀吉が播磨(現、兵庫県南部)攻略を命じられるまで続きました。播磨攻めにおいて、半兵衛は引き続き秀吉の下にいましたが、小一郎は秀吉本隊から離れ、別働隊を率いて、但馬(現、兵庫県北部)平定に向かうことになります。そして播磨において半兵衛は、自分とよく似た「鬼謀」の持ち主と出会うことになるのですが、それについてはまた改めて、別の記事で紹介したいと思います。
参考文献:太田牛一著、中川太古翻訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)、小瀬甫庵原著、吉田豊訳『太閤記(四)』(教育社)、吉田蒼生雄訳『武功夜話 第一巻』(新人物往来社)、谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(新人物往来社)、横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』(戎光祥出版)、木下 聡『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房)、小和田哲男監修『戦況図解 信長戦記』(三栄)、垂井町ホームページ 他

