知っていながらおとぼけをかますという意味だが、この半兵衛とは戦国時代の智将・竹中重治(通称:半兵衛)を指すと言われている。
ここでは親しみを込めて通称で呼ばせていただこう。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目されている竹中半兵衛は数多い逸話に彩られた謎多き人物とされ、『三国志』に登場する魏(ぎ)の劉備(りゅうび)に仕えた軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)を思わせるエピソードも残ることから“今孔明(いまこうめい)”の異名でも知られるが、ここでは半兵衛の人柄を表すエピソードを地元・岐阜県垂井町に伝わる話とともに紹介しよう。
“二兵衛”の出会い
“二兵衛(にへえ)”とは、半兵衛と黒田官兵衛(かんべえ)のことだ。ふたりとも名前の最後に「兵衛」がつくこと、同時期に豊臣秀吉に仕え軍功をあげたことから、後世このように呼ばれるようになったらしい。
さて、半兵衛について簡単におさらいしておこう。1544(天文13)年、美濃国大野郡大御堂(おおみどう)で竹中重元(しげもと)の子として誕生。1558(永禄元)年ごろ、父と共に不破郡(ふわぐん)岩手(いわで)城主であった岩手弾正(いわで だんじょう)を攻めてこれを追放。岩手に移り住んだ。翌年には背後にそびえる菩提山(ぼだいさん)の上に砦を築き、山麓には屋敷を構えて周辺一帯を領地とした。
最初は斎藤龍興(さいとう たつおき:道三の孫)に仕えていたが、稲葉山城奪取などを経て、しばらく隠遁生活をおくる。織田信長に仕えるようになったのは1567(永禄10)年ごろと考えられ、その後秀吉に請われて与力(よりき)の謀臣(ぼうしん)となったようだ。つまり、知略、謀略に優れた家臣としての立場で秀吉に仕えたのである。さしずめ、有力な豊臣ブレーンの一人といったところだろうか。
一方、黒田官兵衛の本名は黒田孝高(よしたか)。こちらも通称の官兵衛と呼ばせていただこう。
姫路生まれで最初は小寺姓を名乗っていたが、信長、秀吉に仕え、参謀として手柄を立てた。軍略だけでなく外交術にも優れていたようで波乱万丈の戦国の世を生き抜き、後に筑前(ちくぜんの)国福岡藩祖となった。隠居名を黒田如水(じょすい)という。
ふたりの出会いは天正5(1577)年。信長の中国征伐の時であった。




荒木村重の謀反 官兵衛危うし!
三木城攻めでの半兵衛の活躍
秀吉は信長に命じられて播磨(はりま)に赴き、半兵衛もこれに従う。播磨とは現在の兵庫県南西部で、播州(ばんしゅう)とも呼ばれる。
姫路城を預かっていた官兵衛も信長に従い、播磨に入った秀吉一行の先導役を務めた。
その後、ふたりは秀吉の下で行動を共にするようになり、上月城(こうづきじょう)、福原城を攻略して手柄をたてた。
この中国征伐で織田軍の拠点となっていたのは別所氏の三木城だった。しかし、1578(天正6)年に行われた加古川会議で秀吉と意見が食い違ったことから別所氏は毛利方へ寝返り、激怒した信長は秀吉に三木城攻めを命じる。戦いは約1年10か月にも及ぶ籠城戦となり、秀吉が行った兵糧(ひょうろう)攻めは、“三木の干殺し”と呼ばれるほどたいへん過酷なものであった。
この頃半兵衛は体に不調をきたし、床につくことも多くなっていたようだが、秀吉の補佐役として参戦。秀吉がいた平井山本陣北側の守備を担った。同年五月には備前(びぜん)八幡山城主、明石景親(あかし かげちか)の調略に成功。上洛して信長に戦況を報告し、銀子百両というほうびをもらっている。
官兵衛、荒木村重に捕らえられる
さて、ここに荒木村重(あらき むらしげ)という男がいた。その生涯はまさに戦国乱世、下剋上を絵に描いたようであった。最初の主君・池田勝正を内紛に乗じて高野山に追放。次に信長に仕えて1574(天正2)年には伊丹城(いたみじょう)を攻略し、有岡城(ありおかじょう)と改名する。その後数々の武功を挙げ、信長の信頼も篤かったが、1578(天正6)年、三木攻めで秀吉軍に加わっていた村重は、突如信長に反旗を翻したのである。
この時、村重とは旧知の仲である官兵衛が有岡城に派遣され、交渉にあたろうとしたが、逆に村重に捉えられて幽閉されてしまった。
官兵衛、大ピンチ!!

裏切り者は許さん!息子を殺せ
そんなこととはつゆ知らず、信長は官兵衛の帰りを待ちあぐねていた。だが待てど暮らせど、官兵衛は戻って来ない。疑心暗鬼(ぎしんあんき)に陥る信長。
(官兵衛はいったい何をしておる!? まさか、わしを裏切ったのではあるまいな。荒木に寝返るつもりか。いや、あいつに限ってそんなはずは…)
信頼と猜疑(さいぎ)。信長の頭の中をこんな言葉が何度も去来したのではないだろうか。
2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』では岡田准一が官兵衛を演じ、土牢に幽閉されていたシーンが登場した。また米澤穂信(よねざわ ほのぶ)の小説『黒牢城(こくろうじょう)』では、牢に閉じ込められた官兵衛が城内で起こった事件の謎解きをするという設定だった。官兵衛は土牢に約1年間も閉じ込められていたといわれているが、軟禁状態であったという説もある。いずれにしても捕らわれの身であったことに変わりはない。
とうとう信長は官兵衛が村重方に寝返ったと考え、人質として預かっていた官兵衛の息子・松寿丸(しょうじゅまる ※のちの黒田長政)を処刑するように秀吉に命じた。
半兵衛、官兵衛の息子を助ける
信長の命令は絶対である。もはや松寿丸の命は風前の灯だった。
しかし、半兵衛は官兵衛を信じた。
(あいつは裏切るようなやつではない。)
戦場という危険な場において命のやりとりをする中で、互いに通じ合うものがあったのだろう。
半兵衛は一計を案じ、松寿丸を家臣の家に匿(かくま)い、こっそりと養育する。そして、処刑したことにして別人の首を差し出し、信長の目を欺いたのである。この時、重要なのは、半兵衛が信長ではなく秀吉の与力であったことである。信長直属であったなら松寿丸の命を助けることは難しかっただろう。松寿丸は秀吉の長浜城に預けられていた。半兵衛は直接の主人である秀吉に相談したのではないかと考えられる。
また秀吉の将来を思えば、官兵衛が無事に戻って来た際、息子の命を助けておくことは役に立つと考えたのかもしれない。
松寿丸を養育した家臣は、不破矢足(ふわ やそく)といった。半兵衛の稲葉山城奪取の際の一員で、長年臣下として働いた信頼のおける部下だった。矢足の妻は半兵衛にとって舅(しゅうと)にあたる安藤守就(あんどう もりなり)の妹であり、身内のような存在であった。矢束は黄粉餅(きなこもち)が好物で、現在も先祖祭りの際には必ず供えられるという。矢足の屋敷があったと伝えられる所には五明稲荷(ごみょういなり)が祀られた神社があり、この話を今に伝えている。

半兵衛、陣中に死す
当時、すでに体に不調をきたしていた半兵衛は、秀吉の上洛に伴って一時戦線を離脱。京都で療養している。半兵衛の病はますます重くなるが、再び戦場に戻り、天正7(1579)年6月13日、ついに帰らぬ人となった。秀吉は半兵衛の病を心配して京都で養生するように勧めたが、「陣中で死ぬことこそ武士の本望」と答えたという逸話が残っている。享年36。墓は秀吉の本陣跡があった兵庫県三木市平井山山麓と、竹中家の菩提寺である禅幢寺(ぜんどうじ)にある。

半兵衛と官兵衛 後世に生きるふたりの絆
さて、有岡城の陥落と共に官兵衛は助け出され、信長を裏切ったのではないことが証明された。信長は松寿丸を殺してしまったことを悔やんだが、実は半兵衛に保護されて生きていることを知り、安堵(あんど)したという。
そして一番感激したのは助け出された官兵衛だろう。だが官兵衛は生きて再び半兵衛に会うことはできなかった。彼が助け出された時、半兵衛はすでにこの世の人ではなかったからだ。しかし、半兵衛と官兵衛の絆は後世にまで続いている。
松寿丸を養育した不破矢足の子孫は家臣として黒田家に召し抱えられた。そして、半兵衛の遺品である「銀箔押一の谷形兜(ぎんぱくおしのいちのたにかぶと)」は数奇な運命を経て、松寿丸、後の黒田長政の手に渡っている。半兵衛は命の恩人。長政は感無量ではなかっただろうか。
関ケ原の戦いでも半兵衛の息子・竹中重門(しげかど)は最初西軍に属していたが、長政の説得で東軍へ寝返り、共に岡山(丸山)烽火場(ほうかじょう)に陣取って戦った。半兵衛が長政の命を救ったように、今度は長政が半兵衛の子どもの重門を救ったのかもしれない。
旗本としての竹中家は幕末まで存続している。
(取材・写真提供)
垂井町教育委員会
祥光寺(しょうこうじ)
禅幢寺

