だって大変なんでしょ〜?縄文人がなかなか稲作をはじめない件

だって大変なんでしょ〜?縄文人がなかなか稲作をはじめない件

目次

お米一粒には8人の神様が住んでいて、一粒だって無駄にしてはいけないー。「米」という字は、「八十八」からできていて、その行程の多さに由来するー。米に対する日本人の思い入れはちょっと異常なんじゃないかと思うほど、凄まじいものがあります。しかし日本人がはじめから米を愛していたわけではありません。

お米が日本にやってきたのは、言わずもがな、弥生時代のお話です。その前は縄文時代、すなわち米のない狩猟採集社会でした。そこで今回は、大陸からやってきた農耕という文化が、この列島でどのように受容されていったのかに注目してみたいと思います。米はどこからきて、どのように広まっていったのか? 1万年も続いた縄文文化は、弥生時代に入ると根こそぎ一掃されてしまったのか? そして文化の拮抗はどのあたりで着地したのか? 時代は縄文晩期から弥生中期、日本列島に米が定着するまでのドラマです。

だって農耕って大変なんでしょ?

実は、日本列島に住んでいた人々が農耕という文化に出会ったのは、弥生時代が初めてではない、という説があります。なぜなら、BC3000年、縄文時代中期に、雑穀栽培はすでに朝鮮半島まで伝わっているからです。一流の海洋技術を持った当時の人々が、お互いに全く接触していなかったとは考えにくいので、少なくとも縄文時代中期の九州あたりを生きた人々は、朝鮮半島に伝わっていた農耕という技術を知っていたはずなのです。ではなぜ、取り入れなかったのでしょうか。

これについては諸説ありますが、結局は「必要がなかった」という説が有力です。考えてもみてください。縄文中期といえば、縄文時代1万年の中で、もっとも時代特有の文化が花開いた時であり、気候もよく、森にも海にもたくさんの食糧がありました。縄文人は、春には山菜を採り、夏には漁労をし、秋には木の実を拾って、冬には狩猟をする、といういわゆる「縄文カレンダー」で十分豊かな生活をしていました。もちろん住んでいる場所によっては海がなかったり山がなかったりもしますが、地元では穫れない食糧も、他集落から頂戴すればまかなえますから、大した問題ではないのです。

「縄文カレンダー」(飛ノ台史跡公園博物館提供)

それに比べて、農耕は非常に非効率的です。まず土地を耕して農道を切り開くことから始めなければいけません。結果が出るまでには半年もかかるし、その結果も、約束されているわけではありません。また、狩猟採集では旬の恵みをバランスよく摂取できますが、一つの穀物に頼っていたのでは栄養も偏ってしまいます。縄文人がここまで考えたかどうかはわかりませんが、少なくとも彼らの「縄文カレンダー」を崩してまで、農耕を取り入れる必要性を見出せなかったのでしょう。

縄文人、ついに弥生人となる!

しかしそんな縄文人も、ついに農耕を受け入れざるを得なくなる時がやってきます。今からおよそ4500年前、日本列島の気温が下がり、「縄文カレンダー」がうまく回らなくなってきます。列島の植生が変わったのです。縄文時代後期〜晩期にかけては、それまではあまり食べなかったアクの強い木の実(トチなど)を何度も水に晒してみたり、植物食より狩猟や漁労に力を入れてみたりして、お腹をすかせながらもなんとか知恵を働かせて生きていたようです。

そんなところに入ってきたのが、渡来人が持ってきたイネでした。日本にやってきたイネは、中国の山東半島からきたものなのだそうで、およそ3000年前に朝鮮半島を経由し、その100年後、BC900年あたりに北九州に伝来しました。そう、縄文晩期、東北を中心に縄文最後の一大ムーブメント「亀ヶ岡文化」が花開いていた頃、北九州では渡来人が持ち込んだ農耕文化がひっそりと産声をあげていたのでした。

佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡は、現在のところ日本で最古の水田稲作の跡地です。はじめは拙い田んぼかと思いきや、そうではなく、区画ごとに水路を引いて、水流を調節する堰(せき)も備えた、現在とほとんど変わらない完成された水田だったそうです。はじめからそんなに上手くいくはずないのだから、これは渡来人が作った水田に違いない、と思いますが、なんと出土した生活用品のほとんどは縄文人のものだったらしいのです。きっと渡来人に教わりながら、縄文人が大真面目に作ったのです。言葉も通じない渡来人と縄文人が、協力して完璧な水田を作ったのだと思うと、なんだか胸が熱くなります。

列島の弥生化はまだらだった

はじめて米を食した縄文人はきっと感動したことでしょう。世界にはこんな美味いものがあるのかと。そう、はじめてチョコレートを食べた戦後の子供と同じように、です。では、北九州に入ってきた水田稲作は、その後またたく間に列島全体に広がったのでしょうか。実はそうでもなかったのです。こんなに美味い米でも、西日本全域に広がるまでなんとおよそ400年かかります。(!)しかもその後は完全に停滞し、「西の弥生、東の縄文」という構図が約200年も続くのです。つまり、弥生時代早期とは、北部九州に限った話なのであり、その後弥生時代前期(およそ2600年前)に近畿地方、東日本にいたっては、前期末(およそ2400年前)に入ってやっと農耕が開始されます。

この「遅さ」、いったいどうしたことでしょうか。縄文人は、農耕が始まることによって起こる戦争や富の不均衡、「平等主義」を掲げる縄文イデオロギーの崩壊を予想していたのでしょうか? あるいは、一万年の伝統を破って異文化を受け入れることに、ものすごい抵抗があったのでしょうか? もしかしたら、ただ農耕に必要とされる長期的努力をしたくなかっただけかもしれない・・なんてね。

青森の弥生人の逡巡!農耕やる?やらない?

さて、「西の弥生、東の縄文」をはじめて崩したのは、なんと青森の縄文人でした。「西」の弥生は、当時大阪平野でストップしていましたから、順序でいえば次は中部、そして関東、東北と続いていくはずですが、間の中部・関東をすっとばして、東北の末端、青森に伝わったのです。青森に米の存在を教えたのがどこの誰であったのかはわかりませんが、漁や交易のために北上していた西の海民が持っていった可能性が濃厚です。東日本初の稲作跡は、青森県の砂沢遺跡です。中国でも朝鮮でも、稲作ができるのは北緯38度線以下であると言われますが、こちらの遺跡、実はそれを超えた北緯41度で、世界最北端の稲作でした。さすが、青森は縄文時代の大都会ですから、とんでもない技術を持った人々がたくさんいたのかもしれませんね。

ところが、です。東日本ではいち早く稲作を取り入れた砂沢遺跡の縄文人ですが、実は300年しか続かず、放棄しています。やっぱり寒すぎたのか、洪水などの自然災害で流れてしまった(そして心も折れてしまった)のか、米がいくら美味しくても、やっぱり「結果が出るまで半年」は長すぎたか、理由はわかりませんが、彼らには彼らなりの逡巡があったようです。

中部・関東の弥生人、あくまで縄文的に農耕をはじめる

では、東北に続いて農耕をはじめた中部・関東の様子はどんなだったのでしょうか。中部・関東もまた、青森に負けない「縄文大都会」なのであります。彼らの農耕は、まず、極めて「縄文的」でした。縄文的農耕とは、どういうことか? 実は縄文時代にも、エゴマやダイズ、シソやゴボウなどの栽培がありました。ただ、これらはあくまで部分的な「嗜好品」であって、土地を大きく耕作してメジャーフードを作っていたわけではないので、「農耕」とは呼ばれないのです。そう、中部・関東の弥生人が行っていた「縄文的農耕」とは、大陸由来の雑穀、すなわちアワやヒエなどを、縄文時代の栽培と同じように育てていたということです。

日本で「農耕のはじまり」というと、やはり米ですが、中部・関東でイネの栽培が始まるのは、なんと弥生中期(およそ2100年前)、はじめて九州に米が伝わってからおよそ800年後のことでした。彼らの縄文的生き方への執着心に感動すら覚えます。

縄文スピリットをかたくなに守る東日本弥生人

弥生時代といえば、薄焼きでシンプルな「弥生土器」ですよね。縄文時代にはほとんどなかった壺型土器は、湿気を嫌う米や雑穀などを入れるために生み出されたものと見られています。ところがこの弥生土器、東日本のものの中には「縄文」が施されているものがあります。「縄文大都会」であった東日本の弥生人は、時代が変わり、食文化が変わり、生活スタイルや社会構造が変わっても、おいそれと縄文スピリットを捨ててしまうことはできなかったのです。

ところで西日本の弥生遺跡で、東日本に特徴的な文様が施されている土器が見つかることがあります。とはいえ、粘土は地元のもの。これはつまり、東日本からやってきた人々が、西日本で自分たちのための土器を作っていたということ。土器が見つかる場所はどこも、当時大陸とのつながりの深かった、先進文化を持った地域なのだそうです。はじめて触れた米の美味さに(おそらく)感動した東日本の弥生人は、わざわざ西日本まで人を送って、その技術を学んだのです。縄文の伝統はあくまで守るけれど、新しい文化も吸収したい。日本人の温故知新精神の原型は、すでに弥生時代にあったのです。

狩猟や漁労がなくなったわけじゃなかった!

弥生時代といえば米作りですが、実は弥生時代の米の収穫量は、まだ主食の全てをまかなえるほどではなかったと言われています。つまり、狩猟や漁労、木の実や山菜の採集をまだまだ必要としたのです。ただし、縄文時代は、一つの集落が季節によって自由自在に生業を変えながら、なんでもこなす生活をしていましたが、時代がくだり人口が増えると、生業を分業するようになります。農業専業集団、狩猟専業集団、漁労専業集団、あるいは半農半漁のように、2.3個の生業に絞ってそれに専念するようになりました。そして交易を通じて、互いの特産物を売り買いするようになったのです。そう、弥生時代に縄文文化が廃れたわけではないのです。弥生文化は、農耕に加え、縄文的生業も様々に展開した多様性に支えられた文化でした。

弥生時代?なにそれ?な北海道と南西諸島の縄文人

縄文時代にも、もちろん地域や環境による文化の違いはありましたが、弥生時代ほどではありません。北海道では稲作はついに受け入れられず、沖縄や奄美などの南島でも、稲作が始まるのはなんと12世紀頃(本州は鎌倉時代!)なので、弥生時代にはすでに異なる文化圏でした。弥生時代にあたる時代は、それぞれ北海道では「続縄文時代」、南島では「貝塚時代後期」(前期は縄文時代)と呼ばれています。どちらの人々も、引き続き縄文時代的暮らしを続けましたが、縄文時代と違うのは、本州との交易を始めたということ。交易は縄文時代にもありましたが、縄文時代のそれは、交易というよりは「融通」あるいは「おみやげ」といったほうが適切なくらいで、日本列島全体が「大きな家族」として、足りないものを補いあう、といったものでした。

ところが弥生時代に分業が進むと、各地域の特産物は「商品」になり、交易が本格化してきます。他集落のものを手に入れたければ、他集落では手に入らない商品を作る必要があります。つまり北海道では、寒いところで無理に農耕を始めるより、本州では穫れない大型海獣の漁労や大型獣の狩猟に専念するほうが合理的だったのです。北海道では、これら本州では手に入らないものを輸出することによって、本州から米や絹、また大陸産の宝を手に入れました。南島でも事情は同じです。周りにこんなに豊かな海があるのに、どうして苦労して稲作など始める必要がありましょうか。遠い南の海でしか穫れない高級な貝製品などは、弥生人憧れの宝だったことでしょう。

渡来と地元のハイブリッドで育まれた日本文化の素

こうして見ていくと、1万年の伝統を破り、農耕を受け入れることには日本列島各地でそれぞれ逡巡があり、その受け入れ方も様々だったということがわかりますね。弥生時代という時代は、この列島で平和でありながらも世界から孤立して生きてきた縄文人が、はじめて「異文化」に出会った時代です。弥生時代の遺跡からは、はじめて触れる農耕文化に対する葛藤が見えて、なんだか切ない気持ちになります。

しかし大事なのは、2つの全く違う文化が出会った時、どちらか一方がもう一方を滅ぼしてしまうようなことは起こらなかったということです。弥生時代になっても、縄文以来の伝統的な生業を続けた人も大勢いました。堅果類の水晒し場はそのまま縄文時代の方法を継承しました。農業専業になった人たちも、大陸には見られない石皿や磨石など縄文時代の伝統的な石器を使うことが少なくなかったといいます。

弥生人は、縄文から続く自然と共生する技と、大陸由来の先進技術を融合させる道を選んだのです。そしてこの「縄文的文化」と「弥生的文化」が礎となり、のちに「日本文化」と言われる世界に誇る特異な文化が築かれていくことになります。日本列島文化の独自性の素、それは縄文から弥生へと変わる時代の狭間を生きた人々の葛藤の賜物なのです。

だって大変なんでしょ〜?縄文人がなかなか稲作をはじめない件
この記事をSNSでシェアする
この記事をSNSでシェアする