Culture
2020.04.06

ひとりはフランス政府から勲章。もうひとりは愛する人の後を追い…日本初の女優たちの壮絶な人生

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「女優」…それは華。それは愛。たぶん、きっと、キラキラとした個性。
演劇や映画、テレビドラマに欠かせないもののひとつが「女優」の存在。一部の伝統芸能をのぞく演技の場には、「華」と呼ばれるような美人女優や、「演技派」「個性派」などさまざまなタイプの女優がいます。それでは日本演劇初期に現れた最初の女優はどんな人だったのでしょうか。今回は「日本の女優第1号」といわれている川上貞奴(かわかみ・さだやっこ)と、たぐいまれな才能をもちつつ若くして亡くなった松井須磨子(まつい・すまこ)に迫ります。

「かわいくてかしこい」政治家たちもデレデレになった川上貞奴

川上貞奴は1871(明治4)年、日本橋で両替商を営んでいた小山家の12人目の子どもとして生まれます。出生名は小山貞(こやま・さだ)。生後間もなく小山家の家業が傾いたため、貞は当時花街として栄えていた芳町(よしちょう、現在の中央区日本橋人形町のあたり)にあった芸妓置屋の浜田屋に女中として預けられ、のちに浜田屋の女将・亀吉(かめきち)の養女となります。亀吉は見どころを感じた貞に「小奴(こやっこ)」という名をつけ、芸者としての教育を施すことにしました。すると美しく賢い小奴はすぐに浜田屋の看板芸者となったのです。

12歳になった小奴は、本格的な芸妓としてのデビューに必要な「水揚げ」をされます。水揚げした男は当時の総理大臣・伊藤博文。伊藤は奴(やっこ、芸妓になったので改名)を大変に気に入り、パトロンとして世話を焼いたので、奴は伊藤の周囲の政治家たちとも懇意になってゆきました。

そんな奴にも初恋が訪れました。相手は岩崎桃介という慶應義塾の学生です。しかし貧しい身の上だった桃介は、塾長の福澤諭吉から持ちかけられた縁談に応じて1886(明治19)年の暮れに諭吉の次女・房(ふさ)と結婚、一路アメリカへ旅立ってしまったのです。貧しかった桃介にはこの縁談を断るという選択肢がなかったのでした。

川上貞奴。

同じころ、慶應義塾で雑用をしつつ書生として学んでいた男が川上音二郎でした。彼はその後政府に反対する自由党の壮士になります。1864(文久4)年に現在の福岡市博多区で生まれ、当時さかんだった自由民権運動に身を投じるようになった音二郎。彼は大阪を拠点として政府攻撃などを行ってたびたび検挙・投獄されていました。

のちに音二郎は落語家の桂文之助に弟子入りし、浮世亭◯◯(うきよてい・まるまる)の名で、「オッペケペー節」を自分流にアレンジし、寄席で歌いはじめました。この歌は「壮士歌」と言われる種類のもので、政治を皮肉った演説でもありました。威勢やリズムが心地よく、的確に時代を風刺した「オッペケペー節」は、社会への不満を募らせていた人々に広く受け入れられました。

1894(明治27)年の日清戦争のころに「オッペケペー節」ブームはピークを迎え、多くの人が「オッペケペッポーペッポッポー」と口ずさんでいたようです。また、音二郎の率いる一座は「オッペケペー節」のほかに壮士芝居と呼ばれた風刺芝居を行いました。壮士芝居を続ける中で演劇に興味を持った音二郎は、1893(明治26)年に渡仏しパリの演劇事情を学んでいます。

夫・川上音二郎一座とアメリカへ 芸妓から女優になっちゃった

1894(明治27)年、貞は芸妓をやめて音二郎と結婚します。媒酌人は伊藤博文の秘書で、大日本帝国憲法の草案作りに携わったことでも知られる金子堅太郎。二人の出会いはよくわかっていません。結婚後、川上音二郎一座は無謀とも思われるアメリカへの公演旅行に出かけることを決め、貞もそれに同行します。

アメリカでは日舞などの公演を中心に行い、貞も音二郎に請われ芸妓時代に身に付けた舞を披露しました。貞はエキゾチックな美貌と演技が評判になり、一躍一座の看板に!音二郎の考案による「芸者と武士」という演目のシアトルでの公演も成功したのです。

音二郎の思い付きから「女優」となった貞は「貞奴」と名乗るようになります。アメリカから帰国後もロンドンやパリ万国博覧会に招かれて公演を行い、「マダム貞奴」としてヨーロッパにもその名をとどろかせました。貞奴の人気はとても高く、フランス政府から勲章を授与されるほどでした。

舞台衣装の貞奴。

パリからの帰国後、貞奴は引き続き川上音二郎一座の看板女優として日本でも舞台に立つこととなりました。上演したのはシェイクスピアの「オセロー」の翻案劇(役名などを日本風にアレンジしたもの)で、こうした芝居を音二郎は「正劇」と呼びました。音楽や舞踏を伴わないいわゆるストレートプレイで、旧来の歌舞伎などとは違う「新劇」のひとつです。

こうして貞奴は「日本第1号」の女優として、翻案劇を中心に演じ続けることに。同時に1908(明治41)年には「帝国女優養成所」を設立、音二郎と二人で次なる女優の育成に力を注ぎました。新しい演劇の隆盛により、女優が必要とされるようになっていたのです。そのため、当時は他にも俳優の養成所がいくつも設立されており、1909(明治42)年には貞奴と並んで近代演劇史に名を遺した松井須磨子を生んだ文芸協会付属演劇研究所が創設されています。

「私、女優になります!」信州出身の根性娘松井須磨子

近代日本がほこるもうひとりの女優・松井須磨子は1886(明治19)年、長野県埴科郡清野村(現在の長野市松代町清野)に旧松代藩士・小林藤太の五女として生まれました。出生名は小林正子(まさこ)。数え年6歳で長谷川家の養女となり、1900(明治33)年に上田の尋常小学校を卒業しましたが、養父が亡くなったために実家に戻りました。しかし同年に実父も亡くなってしまいます。

数え年17歳の春、正子は麻布飯倉の菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京。姉夫婦は正子を都会的なお嬢さんに仕立てて嫁がせるため、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学させます。正子は野性味あふれるところがチャーミングな女性で風月堂の看板娘となり、店番をする日はお菓子がよく売れると近所で評判になりました。

1903(明治36)年、親戚の世話で正子は最初の結婚をします。嫁ぎ先は木更津の料理旅館でした。ところが病気がち(肺病という話もある)だという理由で舅に疎まれ、わずか1年で離縁されてしまいました。しかしそれは方便であり、本当の理由は夫となった男が放蕩な一方で、正子も田舎にとどまることができなかったためでした。

正子が平凡な日常から脱却したいと思い続けるようになったのはこのころのことでした。そして、変化のための目標と定めたのが女優になることでした。しかし、俳優養成学校に願書を提出して面接も受けたところ「鼻が低く、顔全体の印象が平坦で華やかさがない」という理由から入学を拒否されてしまいます。風月堂では看板娘でしたが、舞台女優の美の基準はまた違うのです……。

しかし正子はあきらめきれませんでした。顔のことで入学できなかったのなら顔を変えればよいのではないか……。正子は意を決し、当時最新の技術であった「隆鼻術(鼻筋に蝋を注入する美容整形手術)」を受けます。その根性は計り知れません。もっとも、後年はその後遺症に苦しんだとも。拒絶反応を起こして鼻を中心に顔全体が腫れて炎症を起こし、痛みで寝込むほどの日もありました。しかし一度注入したものを抜去する方法が当時はなく、冷水で絞った手拭いで患部を冷やして耐えるしかなかったのです。

それでも手術によって念願の俳優養成学校へ入学できた須磨子は、女優となります。

1908(明治41)年には同郷の埴科坂城町出身の前沢誠助と2度目の結婚をすることに。東京高等師範学校地歴科を卒業した前沢は「東京俳優養成所」の講師になり、日本史を担当していました。演劇関係にもつてがあり、同じ信州出身の前沢に、正子は惹かれるところがあったのでしょう。正子は1909(明治42)年、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生となります。念願の女優への道は開けてゆきますが家事がおろそかになることも多く、1910(明治43)年10月に短い結婚生活は破たんし、前沢と離婚してしまいました。これでバツ2になりました。

松井須磨子『松井須磨子―牡丹刷毛(人間の記録 48)』(日本図書センター、1997年)。松井須磨子が自らの芸術論を語った1914年刊行の『牡丹刷毛』が収録されている。

正子が「松井須磨子」という芸名を名乗り始めたのは、おそらくこのころのことです。印刷物の都合で急いで芸名を決めねばならなくなった時、最初は松代出身であることから「松代須磨子」としようとしました。しかし「まつしろ(松代)はまっしろ(真っ白)」に聞こえるという茶々が入ります。そこで「松井須磨子」にしようとしたら今度は「まずい」だという人が。しかし「まずくってもよい」と正子は「松井須磨子」と書いて提出し、その後はこの名前で通したといいます。「須磨子」の由来はよくわかっていません。

1911(明治44)年、須磨子はイプセン作の「人形の家」で主人公ノラを演じて認められ、一躍スターの仲間入りを果たしました。ノラは家庭から解き放たれて自立を歌う主人公でしたから、2度の離婚を経て自力で生きてゆこうとする須磨子が演じることで、より説得力があったのかもしれません。

島村抱月

須磨子は演出家の島村抱月(しまむら・ほうげつ)とともに芸術座を旗揚げします。この劇団で上演したトルストイ原作・抱月訳の「復活」ではカチューシャ役が大当たり、人気女優となったのでした。須磨子が歌った主題歌「カチューシャの唄(復活唱歌)」(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードも2万枚以上を売り上げる大ヒット。須磨子は日本初の歌う女優としても成功したのです。1915(大正4)年には、抱月とともにウラジオストクを訪れ、ロシアの劇団との合同講演をプーシキン劇場で行い大好評を博しています。また後に流行歌となる『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞・中山晋平作曲)も歌い、これもヒットさせました。

一方で、1917(大正6)年に発売した「今度生まれたら」(北原白秋作詞)では、歌詞に猥褻な部分があると文部省から問題視され、日本における発禁レコード第1号となっています。須磨子の人生は一直線、かつ激しい波に常に揺さぶられているようなものでした。

松井須磨子は愛人の後を追って…

抱月には妻子がありましたが、須磨子と出会ってからは愛人関係となっています。2人で家を借りて住み、須磨子は劇団員らから「奥様」と呼ばれていました。演劇をとおして2人は激しく愛し合って結びついていましたが、激しい性格の須磨子に抱月は悩まされることもあったようです。しかし、須磨子に「悪気」というものはなかったと彼女をよく知る人たちはのちに語っています。

たとえば演劇界の重鎮となった貞奴が近くにいても、須磨子は挨拶をせず、丸い目をくりくりさせているばかりでした。でもそれも貞奴を無視しているわけではなく、須磨子というのはそういう頓着しない人間だったのだと。こうしたすこしタガの外れたところがあるからこそ、舞台に立てばたぐいまれな演技力を見せつけることができる……。須磨子はいわば憑依型の女優だったといえるかもしれません。

渡辺淳一『女優』(集英社文庫、2014年)。新劇運動を起こした島村抱月と演劇学校一期生に合格した松井須磨子のスキャンダラスな愛を軸に、近代演劇の夜明けを描いた長編小説。

1918(大正7)年11月5日、その年大流行したスペイン風邪で抱月は亡くなりました(47歳)。それから2か月後の1919(大正8)年1月5日、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)にあった芸術倶楽部の道具部屋で、須磨子は赤い紐で首を縊り、抱月の後を追います。

劇団をつくり、舞台をつくっていくなかで、愛人関係であることへの非難や、貧乏を強いられる時も多くありました。しかし、須磨子にとってはそんなことは苦ではありませんでした。いつしか須磨子のすべては抱月ありきになっていたのです。抱月がいない世の中から須磨子が去ることを予想していた人もいたようですが、誰にも止めることはできず、彼女は旅立ってゆきました。32歳という若さでした。まだ女優としてはこれから飛躍してゆくはずだったでしょうに。

須磨子は遺書で抱月の墓に埋葬されることを望んでいました。しかし、愛人の身であるためその願いは受け入れられず、長野市松代町の生家裏山にある墓所に葬られました。

貞奴の晩年はまさかの展開 なんとあの男と!

演劇界では、シェイクスピアを研究・翻訳し、日本の演劇の改良に努めた坪内逍遥が出現し、抱月と須磨子による芸術座やそのほかの劇団の台頭がめざましくなるなど、活況を呈していました。それを見て、音二郎と貞奴は日本の演劇界をさらに盛り上げてゆきたいと考えます。

川上音二郎と貞奴。

けれども、まだ道半ばだった1911(明治44)年11月、急性腹膜炎のために音二郎は48歳で世を去ってしまいました。貞奴は2人でつくり上げた洋風の劇場である帝国座(現在の大阪市中央区北浜)の舞台に重篤な状態となった音二郎を上げ、音二郎は舞台の上で息を引き取ったのでした。女優・貞奴を生み育んだ音二郎。2人はお互いになくてはならない存在だったのです。

音二郎の死後も、その意思を継ぎ貞奴は舞台に立ち続けましたが、ほどなくして引退興行を行い女優の看板を下ろしました。貞奴は長い間音二郎を立てるよき妻でしたが、彼女もまた、激しさを秘めた女優だったのです。

福澤家の婿養子となった初恋の人・桃介は実業家となり、「電力王」と呼ばれるほどでした。一時は貴族院議員も務めています。どこで焼けぼっくいに火がついたのか、桃介は後半生における多くの時間を貞奴とともに過ごすことに。1920(大正9)年ごろから2人は名古屋市で同居を始めました。2人が暮らした邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、いまも残されています。桃介の実業界引退後は、東京・永田町の日枝神社近くにあった桃介の別邸「桃水荘」に移りましたが、変わらず暮らしを共にしました。桃介は妻と離婚しないまま1938(昭和13)年に死去、貞奴はそれから8年後の1946(昭和21)年12月9日に熱海の別荘で生涯を終えました。

貞奴は須磨子を「おそろしい子!」と思った?

「女優第1号」の貞奴の存在が広く知られるようになったのは、杉本苑子さんの小説「マダム貞奴」と「冥府回廊」を原作とした大河ドラマ「春の波涛」が1985(昭和60)年に放送されて以降のことです。主役のひとり川上貞奴を松坂慶子さんが、松井須磨子を名取裕子さんが演じました。ドラマのなかでは「新進のすごい女優がいる」と聞いた貞奴が、須磨子演じる「サロメ」を目撃し、圧倒されるシーンがあります。

中島丈博『春の波濤』(潮出版社、1985年)。大河ドラマの脚本を担当した著者によるノベライズ。

実際に2人の女優の張り合いがあったかどうかは定かではありません。しかし日舞などの基礎に長けた日本の女優1号と憑依型で野性味あふれる新進女優は、須磨子さえ長生きしてればいずれどこかで対決することがあったのではないでしょうか。当時の演劇ファンのなかにも、2人のぶつかり合う舞台を見たかった人はきっと多かったでしょう。須磨子の若い死がほんとうに惜しまれます。

あの超人気漫画も貞奴と須磨子がいなければなかったかも?

「演じることは誰かの人生を生きることだ」という言葉を聞いたことがあります。そのとおり、貞奴と須磨子は舞台上で何人もの思いをその身体で表現し、叫び続けていました。しかし、一方で自分の愛に忠実に、自分の人生をも生きたのです。その後女優は映画などにも進路を見出し、戦後はテレビドラマにも活躍の場を広げます。

1976(昭和51)年、演劇に賭ける少女たちを描いた美内すずえの漫画「ガラスの仮面」の連載が始まり人気を集めます。この漫画によって、少女漫画ファンを中心に、女優たちが演じることへのすさまじい情熱や執念を持っていることを知った人も多いでしょう。わたしもそのひとりです。必死に演じ続ける女優たちの道筋をさかのぼっていくと、松井須磨子、川上貞奴という源流にたどり着きます。近代日本のリアルガラスの仮面。どっちがマヤでどっちが亜弓さんだと思いますか?

▼不朽の名作『ガラスの仮面』はこちら
ガラスの仮面 1