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2020.04.02

キレた妻に薙刀で追い回された!戦国一(?)酒癖の悪い男、福島正則のやっちまったエピソード集

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福岡県の民謡『黒田節』にうたわれるように、大酒を飲んで天下の名槍・日本号を手に入れたのは戦国武将・黒田長政(くろだながまさ)の家臣、母里太兵衛(もりたへえ)でした。
この時、酔っぱらって太兵衛に飲酒を強要し、槍を渡す羽目になったのが、福島正則(ふくしままさのり)です。

正則は豊臣秀吉の重臣で、後世「賤ヶ岳の七本槍」の1人と称されている名将ですが、お酒にまつわるエピソードを数多く残しています。そう、いいことも悪いことも……。

福島正則ってこんな人

一説に正則の母親は秀吉の母の妹で、秀吉と正則は従兄弟だったといわれます。永禄4(1561)年生まれで、幼少期から秀吉の小姓として仕えました。
天正11(1583)年、秀吉と柴田勝家による「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、一番槍・一番首の功を立てています。

秀吉の死後、次第に石田三成との仲が悪化、徳川家康寄りになっていき、関ヶ原合戦にも家康方の東軍として参戦しました。
関ヶ原合戦の後、統治を任された広島領内に入るとすぐに調査を行い、実情に合った年貢を設定するなど善政を敷きます。寺社の整備にも熱心で、厳島神社の平家納経修復の指示も出しました。

家康の死後まもなく、台風被害による広島城修復を幕府の許可が下りる前に行ったことを発端として、広島藩50万石を失い、高井野藩(現在の長野・新潟の一部)4万5,000石に減転封(げんてんぽう・禄高を減らされて領地を移動させられること)されました。

福島正則、酒でやっちまったなぁ~?

人情に厚かったと言われる正則ですが、かなり酒癖が悪かったようです。

さらば日本号……

冒頭でも少し触れた、名槍を譲る羽目になったエピソード。
使者として来ていた母里太兵衛は家中でも知られた大酒豪でしたが、ある日の酒席で、正則は使者として来ていた太兵衛に酒をすすめます。太兵衛は主君の長政から、酒での失敗を避けるために決して酒を口にしないように、と言いつけられていました。
正則は自分のすすめに応じない太兵衛に、この大きな杯に入れた酒を飲み干せたら、何でも好きなものを与えると言いますが、太兵衛は頑なに応じません。
むっとした正則は「黒田家の者は酒に弱く、使い物にならない」と悪態をつきます。主家を馬鹿にされては太兵衛も黙っていられず、大杯1杯にとどまらず、3杯を飲み干したとも言われます。

正則も約束を違えるわけにはいかず、秀吉から下賜された家宝の名槍・日本号を、太兵衛に言われるまま泣く泣く渡すこととなってしまったのです。

あまりに大きすぎた代償

家宝だけでなく、正則は酒のために家臣も失っています。

ある時、家臣の柘植清右衛門(つげせいえもん)が、酔って勘違いしている正則に説明をします。泥酔していた正則は激怒し、柘植に切腹を命じてしまったのです。
翌朝、酔いからさめた正則は、昨晩のことをすっかり忘れていて柘植を呼びます。そこではじめて大変な過ちを犯してしまったことに気づき、号泣しながら家臣の首に謝罪しました。

妻が般若に変わるとき

ある日、酒を飲んで妾のもとへ忍び込んだことが正妻(最初の妻が亡くなった後にめとった家康の養女)にばれてしまった正則。正妻は怒り狂い、なぎなたで正則を追い回します。
正則は真剣な表情で詫びながら、逃げ回ったのだそう。

福島正則、酒にまつわるちょっといい話

とんでもエピソードが続いた正則ですが、酒にまつわるジーンとくる逸話も残されています。

友のためならエンヤコラ

正則は、堀尾忠氏(ほりおただうじ)の家臣・松田左近と飲み仲間として親しく交流していました。
ある日、忠氏が秀吉に謁見するために伏見城へ出向いてくると耳にし、正則は大手門で待っていました。当然左近も来るはず、と思っていたのですが、病のために療養中、と、一行の中に姿はありませんでした。

正則は供の者も連れず、即座に大坂にいた左近のもとへ見舞いに駆けつけます。
幸い、左近の具合はちょっとした怪我程度でさほど悪くなく、左近はたくさん酒を持ってくるよう、家臣に命じます。
酒豪の正則ですが、左近の体のために、とそれを押し止め、たった一椀の酒を2人でゆっくり楽しんだと言います。

家臣の行動に、ジーン

徳川の治世が固まりはじめた頃、将軍家へ献上する酒を積んで広島から江戸に向かっていた福島家の船が、悪天候のために八丈島付近まで流されてしまいました。

島から1人の老人が手を振っているのに気づき、船を岸に着けると、その老人は宇喜多秀家(うきたひでいえ)であると名乗りました。関ヶ原合戦で西軍副将を務めた秀家は、八丈島に流されていたのです。かつて治めていた備前岡山に近い「備後三原の酒献上」の旗を目にして思わず呼んでしまったのだ、と秀家は涙してうずくまります。

これを見た福島家の武士たちは胸を打たれ、将軍家へ献上する酒を秀家に分け与えました。秀家は繰り返し礼を言い、一首したためて正則に渡してくれるよう頼みました。

関ヶ原合戦では敵同士となってしまったとはいえ、かつて同じ豊臣家に仕えた者同士、話を聞いた正則は涙ぐんで、家臣らに深々と頭を下げて感謝したといいます。

酒のエピソードに、ドン引きしたりほろりときたり。
福島正則、その優しい性格(酒を飲まなければ)と子供っぽさとで、家臣からも慕われていたのだそうです。