日本文化の入り口マガジン和樂web
9月28日(火)
曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く(伊達政宗)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
9月27日(月)

曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く(伊達政宗)

読み物
Culture
2020.04.11

潮湯治とは?将軍・秀忠も満喫した愛知県の「ヌーディストビーチ」と海水浴の歴史も紹介

この記事を書いた人

確かに裸だ。何度見ても裸だ。それも、まあまあな大胆さ。

だって、左下のおじさんなんて、思いっきり全裸でうつぶせだもの。でも、案外、全員ってわけじゃない。着物を着ている人、上半身だけ裸の人も。子連れで傘をさした女性までいる。思い思いの格好で砂浜にいるという感じだ。

その砂浜には、岩なのか海藻なのか判別できないものが。よく見れば、腰かけている人も。ってことは…それって岩なのか。だったら、全裸うつぶせおじさんの下は、ごつごつした岩ってコト?
Oh my God!
考えただけで胸が痛む。いや、痛むのはおじさんの方か。

『尾張名所図会(おわりめいしょずえ)』(国立国会図書館所蔵)

こちらは海の中。なんとなく胸の膨らみがある人も。恥じらいある日本人の姿はどこへいったのかと、驚愕するばかりだ。

これぞ、まさしく、ヌーディストビーチ。

日本で見られる光景とは、到底思えない。日本人も昔は開放的だったのか……と思いそうだが、どうやら違うらしい。彼らは海岸で、ただ漫然と水浴びをしているわけではないという。わざわざ、この場所に訪れる理由があるのだ。その目的とは何か。ズバリ「病気の治療」のためである。

海岸で治療?と疑いたくなるが、正式名称は「潮湯治(しおとうじ)」。

これが今回のテーマである。冒頭でご紹介した全裸うつぶせおじさんの絵は、天保15(1844)年に刊行された『尾張名所図会(おわりめいしょずえ)』(国立国会図書館所蔵)の一部なのだ。じつは、巻6には「潮湯治」という項目まであり、解説もついているのだとか。「潮湯治」とは一体どのようなものか。それでは早速、『尾張名所図会』を紐解きつつ、その歴史や内容をご紹介しよう。

鴨長明も認めた⁈「潮湯治」とは

「湯治(とうじ)」という言葉なら聞いたことがある、そんな方が多いのではないだろうか。

そもそも「湯治」とは、温泉に入って病気を治療すること。かの徳川家康も、江戸幕府を開いた翌年の慶長9(1604)年に、熱海温泉に7日間も滞在している。天下取りの疲れを存分に湯治で癒したのだろう。それほど良かったのか、のちに熱海は江戸幕府の直轄領(天領)となる。さらに、3代将軍家光のときには、熱海の湯を江戸城に献上する「御汲湯(おくみゆ)」が始まったのだとか。

この「湯治」は、現代でも一般的に広く使う言葉だ。ただ、「湯治」の前に「潮」がつく「潮湯治」になると、途端にわからなくなる。じつは、名前の通り、とてもシンプルな治療法である。温泉ではなく「潮」、つまり海水に浸かって病を治す治療が「潮湯治」なのだから。

えっ?それって海水浴と何が違うの?と思われた方、ご指摘はごもっとも。じつに鋭い見方である。両者は、行為自体は似ているが、目的が違う。簡単にいえば「潮湯治」が「海水浴」へと変化したといえる。この変遷については、あとで再度登場するのでしばしお待ちを。

まずは、実際に潮湯治が行われていたとされる場所から。手掛かりは冒頭の絵である。『尾張名所図会』の「潮湯治」の舞台は愛知県常滑市大野。現在も海水浴場があるところだ。

『尾張名所図会(おわりめいしょずえ)』(国立国会図書館所蔵)

さて、この潮湯治だが、いつ頃から行われていたのだろうか。
潮湯治らしきものが文献に登場するのは、平安時代といわれている。尾張之守であった藤原文信と思われる人物が「浴み」という言葉で表現している。文脈からみて、海水を浴びていたことがうかがえる内容だ。また、鎌倉時代には三大随筆の1つ『方丈記』の作者、鴨長明(かものちょうめい)が、大野の潮湯治について歌を詠んでいる。その歌がコチラ。

「生魚(なまいおみ)の御あへもきよし酒もよし 大野の湯あみ日数かさねむ」

「魚は新鮮で酒もよく、思いのほか大野の湯あみ(潮湯治のこと)で滞在日数が長くなってしまった」という内容だ。鴨長明の心の声がダダ洩れしている内容の歌だ。「ついつい、長居しちゃったよお」という素直な気持ちがひしひしと伝わってくる。

どうやら、当初は「潮湯治」ではなく「湯浴み」と呼ばれていたようだ。そして、定型化した具体的な行為を指すわけではなく、各個人が独自にそれぞれ行っていたと考えられる。しかし「潮湯治」という名称で、病気の治療として広く人々に受け入れられるのは、まだ少し先の話。

徳川秀忠も?連日海水へGO!な「潮湯治」

江戸時代では、大物までもが潮湯治の経験者に。

大物とは、あの2代将軍、徳川秀忠である。秀忠は1通の書状を送っている。宛先は尾張国清洲藩主・松平忠吉。弟へ手紙を出していたのである。なんでも、秀忠は腫物を患っており、治療のために大野の潮湯治を利用したというのだ。その証拠に、大野町平野家には、2代将軍秀忠の手紙が残されているのだとか。

秀忠もその効果を実感したという潮湯治。ただ、既に尾張藩内では、大野の潮湯治が病気治療に効果があることが伝播されている。海水に薬湯の効能があるとして、海水を自宅に持って帰って、沸かして浴すなどの行為がなされていたという。個人で行われていたものが特定の層で広がり、さらに、一般的に広がりをみせていったと考えられる。

『尾張名所図会(おわりめいしょずえ)』(国立国会図書館所蔵)『潮湯治』の文字がはっきり書かれている

それでは、どのように「潮湯治」は行われていたのだろうか。

まず、1日に何度も海水に入ることが特徴的だろう。それも、5日間、7日間と続けて行えば、あらゆる病気を治す効能があるとされていた。それにしても、湯治であれば理解はできる。温泉に浸かって心身ともに癒される。ああ、いい気分というところだが、海水だと果たして同じように思えるのだろうか。海水が乾くと肌がピリピリするような気がしないでもない。それこそ、髪はワカメのようにぱさつき、肌も突っ張っていく。干物の疑似体験はできるが、いい気分とは程遠いような気も。しかし、当時の人々は、この潮湯治を確実に受け入れていたのだ。

また、温泉の周りには通常、温泉宿ができる。宿が集まり温泉街となるわけだが、どうやら大野の潮湯治も同じような現象が起きていた。連日、海水に入るとなると泊まるしかない。そのため周りには旅宿ができ、各宿には200~300人ほどの人が泊まっていたという。かなり、繁盛していたようだ。旅宿で海水を汲んで湧かす「海水温浴」も、中人と呼ばれる階層以上の間で行われていたという。

治療よりもレジャーがメインに?海水浴への進化

さて、潮湯治が盛んに行われていたのだが、いつしかその言葉は消えていく。代わりに「海水浴」という言葉が「こんにちは」というワケだ。明治23(1890)年に刊行された『尾張名所図絵』の項目にご注目頂きたい。同じような絵ではあるが、明確に「潮湯治」から「海水浴」との言葉へ変化している。こちらは書籍のタイトルが「図会」ではなく「図絵」。観光用の冊子として発刊されたようだ。

明治23(1890)年に刊行された『尾張名所図絵』(国立国会図書館所蔵)では「海水浴」との言葉が入っている

いつ頃から海水浴へと転じたのか。
じつは、明治14(1881)年夏に、潮湯治の本場である大野に海水浴場が開設されたといわれている。当時の愛知県医学校(現名古屋大学医学部)の学校長で病院長でもあった後藤新平が、海水の試験を実施したことがきっかけなのだとか。のちに、後藤は1冊の本を書き上げている。大野を実地検分した結果と、さらにはドイツの医学書の内容もまじえて紹介されている。その名も『海水功用論』。明治15(1882)年に出版された、日本初の海水浴を啓蒙する書籍である。

後藤だけではない。明治初期の西洋医学を学んだ医学者たちも同じ。海水浴の効果を認めていたというから、これを機に全国的に海水浴場が展開したと考えられる。もともとは病気療養という目的であったのは確か。しかし、文明開化と共に、いつしか世相も変わり、海水浴はその主たる目的を失っていく。治療ではなく、保養や娯楽へと傾いていくのだ。

こうして現在は、海水浴に「治療」などの片鱗は一切みえない。なんなら娯楽もさらに一皮むけ、ひと夏のアバンチュール的な意味合いもくっついてしまった。甘酸っぱいようなものから、火傷しそうなものまで。目的は「思い出作り」の方が、今はすんなりと受け入れられるのかもしれない。

古き良き時代、そこには老若男女が病気を治したいと集まった。裸かどうかなんて、そんな些細なことなど関係なかった。ただ、同じ目的を持って各地から訪れた人がいた。美味しいモノを食べて気持ちも癒された。心の疲れもデトックスできる場だったのだろう。

そこには、何の見栄もなかったはず。体型や水着なんかに振り回されることなく、純粋に海の恩恵を受ける。そう思うと、なおさら、全裸うつぶせおじさんが輝いて見える。

そうだ。海に行こう。
今年こそは、海に行こう。
新型肺炎の脅威で、疲れてしまった自分を労わろう。
どうか、騒ぎが収まっていますように。

書きながら、そう、心に決めた私がいた。

参考文献
『眠れなくなるほど日本の地形がおもしろくなる本』 ワールド・ジオグラフィック・リサーチ著 宝島社 2017年12月
『人生を変えるサウナ術』 本田直之・松尾大共著 株式会社角川 2019年11月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。