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着物が物語に「力」を与える
——澤田さんは時代小説を書かれる際に、和装についてはどのように取材されますか?
澤田:私が作品の舞台に設定する時代については比較的資料もたくさんありますし、江戸時代であれば当時流行った着物や柄についての記録や後の研究書なども出ていますので、そういったものを読んでイメージをつくることが多いですね。
特に、着物のディテールを作品の中で書けるかどうかは、物語に対して深みを与えるポイントの一つだと思っています。「着物」とひと言で書いてしまうだけではつまらないですし、そこでたとえば「疋田(ひった)絞りの〜」というひと言を加えるだけでも、それを着ている人物の背景がぐっと明確になりますよね。「この人物なら、こういう色もきっと似合う」と感じられれば、年配のキャラクターにあえて派手なものを着せたりすることもあります。
作品の中では着物をそういうポイントとして使うことが多いです。
伊藤:私は今回の対談でその点が一番聞きたいと思っていました。たとえば平安時代の「栄花物語」の作者とされる赤染衛門を主人公にした『月ぞ流るる』も、ラストシーンに和装の描写がありますよね。その時代に生きていらっしゃったわけではないのに、澤田さんの作品の描写はすごく「リアル」に感じられるんです。フィクションとノンフィクションの間にあるような作品でありながら、細かな想像力にいつも感動します。具体的にはどういうふうに想像を膨らましておられるのですか?
澤田:ありがとうございます。でも、まだ自分にも想像力が足りないなと感じることがよくあるんです。たとえば、ある作品の中で関東大震災の様子——登場人物が発災直後に歩いて家に帰る——を描いたことがありました。その関連イベントに呼んでいただいたとき、ある年配の女性が「(登場人物のその時の)履き物はなんだったんですか?」と質問されて、作品には描写していませんでしたが、私は「雨上がりだったから、下駄だったと思う」と答えたんです。
するとその女性が、東京大空襲の様子を知る方のお話として、「焼け跡の中を知人を探して歩いたら、下駄の歯が全部焦げてしまって、帰ったら板になっていた」というエピソードを教えてくださいました。関東大震災も東京大空襲も、あのような大規模な火災が起きた後の地面の熱さは想像ができますが、その中を下駄で歩くと歯がどんどん焼けてなくなっていってしまうというところまでは想像が及ばず、あらためて想像と取材の大切さを痛感しました。
死が身近にあることで生じる人生観の違い
伊藤:細かな取材を積み重ねていくことで服装に関する描写や作品の奥行きも増していくのですね。澤田さんのある作品の中で、ある人物が「よろけ縞の着物を着ていた」という記述があって、私にはそれだけでその人物がとてもおしゃれな人なのだなとすぐに性格や人となりまで想像してしまいました。澤田さんの作品を拝見していると、現代人にはないというか、たとえば平安時代であれば平安の人々だけが持つ感性がたくさん散りばめられていることに気づきます。
澤田:うれしいです。当時の人々と現代の私たちの感覚の違いはさまざまあると思いますが、私は最も大きな違いは「日常的な恐怖と諦め」だと思うんです。たとえば平安時代で言えば、何か病気にかかったら、大人でも本当にあっという間に亡くなってしまう社会でした。もちろん薬がまったくなかったわけではないけれども、治る手段はまず自己治癒力頼りとなってしまう。雨が続いたら大水が起きるし、日照りが続けば作物は簡単に枯れる。
私たちは「社会は永続していくもの」と信じています。近代以降、日本では第二次世界大戦以降と言っていいかもしれませんが、基本的に物事は良くなっていく、社会は進展していくという感覚を持っていると思うのですが、私が思うに、その感覚はおそらく近代以前の人々にはなくて、病気、天災、飢饉、そのどれかが起きたらすぐに「死」に直結していました。もちろん抗いはするけれども、隣にいる人が明日にはもういないかもしれないという恐怖、そしてそれに対するある種の諦念的なものをずっと抱えて生きていたと思うんです。
現代の私たちでその感覚を抱いている人はほとんどいないと思います。ほとんどの病気は治すことができるし、今日より明日はきっと良くなることを前提にして生きています。近代以前を舞台として描く小説の難しさは、作中の人物たちと読者である私たち現代人の感覚を折り合わせるところだなといつも感じています。
自分も「いつか歴史の一部になる」という感覚
——伊藤さんはご実家が京都の両足院でいらっしゃいますが、建仁寺は臨済宗(禅宗)のお寺ですね。鎌倉時代に禅が広く受容されたこともそうした背景があるのでしょうか。
伊藤:私自身は、まったく現代的な感覚を持って育っていますが、過去には今では考えられないような厳しい定めの中で人生を送った人や、澤田さんがおっしゃるようなどうにもならない悲しみを背負って生きていた人たちはきっと多かったのだろうと思いますね。
今、弟の伊藤東凌が両足院の副住職を務めているのですが、先日ある機会に弟は、「禅とは?」という問いに対して「禅は宗教ではなく、可能性を信じ抜く態度」だと言っていました。昔の人々が生きていく上で「信じ抜く」ことも重要だったのだと思います。
澤田:平安時代は40代で「高齢者」と扱われていた時代ですし、一生のうちにできることが非常に限られる中で自分に何ができるのか、つまりは自らの「領分」をどう認識しておくかということが大切だったのだろうと思います。だからこそ仏教が必要とされのではと感じます。
——領分という言葉は、先程伊藤さんがおっしゃった「知足(足るを知る)」という言葉にも通じますね。
伊藤:そうかもしれませんね。
澤田:私自身は、中・高・大とキリスト教系の学校に通いましたが、最近、自分もいつか「歴史」になるのだということにあらためて思い至りました。私たちは、今生きているこの瞬間を、まるで永続性があるもののように、そして自分の物語のように思いがちですけれど、大きな視点から捉えれば、長い歴史の中で過ぎていくたくさんの事柄の一つの事象に過ぎなくて、私もいつか歴史の一部になって、自分の人生という物語もその視点から見れば本当に些末なものに過ぎないのだと思うようになりました。
そう考えたとき、聖徳太子が言ったという「世の中は虚しい」との言葉も少し理解できた気がします。とはいえ、次のステップが何かという問いの答えはまだ見つからないのですが、少なくとも自分の生きている時間を客観視するというのは、禅宗の教えにつながるのではと感じます。
伊藤:まさにそのとおりだと思います。
目に映る美しさだけでなく
——澤田さんは連載「美装のNippon」第1回で、「何かを装うこと、飾ること。それはいつの時代も変わらぬ不変の行いであり、だからこそ人の思いが強くにじみ出る」「千年以上の時を隔てて、いまその輝きを通じて確かに受け取り続けているのである」とお書きになっていて、繰り返しになりますが、和装の美しさは、そのようにして人の思いを受け継いでいけることにあるように感じました。
澤田:着物だけでなく、たとえば形見分けとしてアクセサリーや時計をもらったりしたとき、私たちはそれをその人の「分身」のように感じますよね。「装い」を知ることは、かつて生きた人たちを知ることだと思ったんです。
伊藤:私も、祖母は毎日のようにお着物を着ていた人でした。祖母は大阪に住んでいたのですが、京都の私たちに会いに来るとき、毎回必ず同じ泥大島紬のお着物を着ていたんです。きっと気に入った着物をいつも選んで着てくれていたんだと思います。
お洋服でもある程度は覚えているんですけれども、私の場合、特にお着物だと「あのとき、あれを着てくれていた」と覚えています。だからいまでも、泥大島紬を見ると、祖母が来てくれた時のうれしさを思い出すんです。その着物はその後私が頂いて、私も大事なときにそれを着るようにしています。おばあちゃんの存在を感じられるし、もし自分の次の世代に渡ったとしても、祖母がずっと生きていくように感じられます。
私が愛おしいと思える和装はそのようなものです。そのように考えると、美しい装いとは、目に映る美しさだけでなくて、そうした目に見えない思いも含めて身に纏うということなのかもしれないなと感じます。
(Text by Tomoro Ando/安藤智郎)
(Photos by Nakamura Kazufumi/中村和史)
Profile 澤田瞳子
1977年、京都生まれ。同志社大学文学部卒業、同大学院博士前期課程修了。2010年に『孤鷹の天』でデビュー、中山義秀文学賞を受賞。2016年『若冲』で親鸞賞、2021年『星落ちて、なお』で第165回直木賞受賞。近著に平安時代を舞台にした『のち更に咲く』。同志社大学客員教授。
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美装のNippon
Profile 伊藤仁美
京都祇園の禅寺に生まれ、着付け師範、芸舞妓の技術を習得。 「日本の美意識と未来へ」を掲げ、着物を通して日本の美意識の価値を紐解き、 未来へとつないでいく事をテーマに『enso』を主宰。講演やメディア出演他、オリジナルプロダクトや着物の研究を通して、着物の可能性を追求し続けている。着物を日常着として暮らす一児の母。
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和を装い、日々を纏う。