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2020.02.12

血で血を洗う戦国時代。織田信長ら武将たちが、茶の湯にはまった3つの理由

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「ふう…今日も厳しい戦いであった。おい。茶を点てるぞ。ああ、いかんいかん。そんな安物の茶碗では。とっておきの名物を持ってまいれ」

…というやりとりがあったかどうは分かりませんが、織田信長、豊臣秀吉をはじめ、戦国時代の名だたる武将たちはみな「茶の湯」に夢中でした。「名物」と呼ばれる高級ブランドの茶道具を集め、戦場にも持ち込んで、戦闘の合間に茶の湯をたしなんでいたという記録が残っています。

血で血を洗う戦乱の世を生きた武将たちが、なぜ戦いの対極にあるともいえる「ティータイム」にはまっていたのか。茶の湯を愛した武将たちの横顔をご紹介しながら、ひも解いていきましょう。

時代とともに移り変わる茶の湯

まずは、日本の茶の湯がどんなふうに始まったか、お茶と人のかかわりをご紹介します。

お茶はもともと「薬」だった

中国では紀元前から愛飲されていたお茶を、遣唐使が日本に持ち帰ったのは平安時代。とても貴重で、天皇や貴族、僧侶だけが口にすることができるものでした。

当時のお茶は餅茶(団茶)と呼ばれ、蒸した茶葉を臼でついて乾燥させ,固めたものでした。飲むときには,そのかたまりを必要な分だけ削って火であぶり,細かく砕いて粉にし,熱湯の中に入れて煮るという、かなり手間のかかる飲み物だったようです。

鎌倉時代、日本に臨済宗(禅宗の一派)を伝えた栄西は、留学先の宋で、盛んにお茶が飲まれている様子を見聞きします。当時の宋で飲まれていたのは餅茶ではなく、蒸して乾燥させ、粉末にした緑茶にお湯を注ぎ茶筅でかき混ぜて飲む、現在の抹茶の原型のようなものでした。この飲み方は、中国では明代以降すたれてしまい、現在では日本だけで行われています。

お茶の種子を、飲み方とともに日本に持ち帰った栄西が帰国後に執筆したのが、日本で初めてのお茶の本『喫茶養生記』です。

「喫茶養生記 2巻」明庵栄西記 国立国会図書館デジタルコレクションより

「お茶は健康にいいんです!長生きにも最良の薬です!!」と熱く語ったこの本を、栄西は時の将軍、源実朝に献上します。二日酔いでぐったりしていた実朝に1杯のお茶をすすめ、気分がすっきりしたところを見はからって自分の本を献上するという、栄西一流のマーケティングにより、お茶の健康効果が世に知られることとなります。

栄西の言う通り、抹茶には食物繊維、各種ビタミンやミネラル、ポリフェノールやカフェインなど、さまざまな成分が含まれています。現代では、二日酔いのみならず、アンチエイジングや免疫力アップ、リラックス作用、消臭効果などさまざまな健康効果の研究が進んでいます。

栄西が宋から持ち帰った茶の種を託されたのが、京都栂尾(とがのお)、高山寺の明恵上人。明恵上人は栂尾で茶の栽培を始め、これが現在に続く「宇治茶」の始まりとなります。やがて茶園は日本全国へ広がり、禅宗の寺院を中心に、喫茶の習慣が浸透していくのです。

お茶の飲み比べゲーム「闘茶」が流行

鎌倉時代末期になると、お茶は寺院から貴族や武士の間にも広がっていきます。当時の楽しみ方は、客間に「唐物」と呼ばれる中国の絵画や書、茶道具を飾り、客をもてなしながらお茶を楽しむ「会所の茶」が主流でした。

南北朝時代には、お茶の飲み比べゲーム「闘茶」が流行。最初は、明恵上人ゆかりの栂尾産(後に宇治産)のお茶を「本茶」、それ以外のお茶を「非茶」として、飲んだお茶が「本茶」か「非茶」かを当てるというシンプルな遊びでした。時が進むにつれ、闘茶人気はエスカレート。飲み比べるお茶の種類が増え、茶道具や飾り物を豪華にしたり、酒宴と共に行われたり、ギャンブルに発展することも多かったようです。建武政権時代には、禁止令まで出されています。

室町時代になると、お風呂に入って汗を流した後、豪華に飾った部屋で熱いお茶を飲み、宴会を楽しむ「淋汗茶の湯」が流行します。当時は、風呂もお茶も庶民には手の届かない高級品。現在でいえば、バーカウンターとジャグジーのついた高級ホテルのスイートルームに、一流シェフを呼んでパーティを開くような、最高の贅沢だったと考えられます。貴族の邸宅である書院造りの、床の間のある座敷で茶会が行われるようになったのも、この時代からです。

茶道具を人心掌握に利用した織田信長

簡素な4畳半の和室で、シンプルな和風の茶道具を使ってお茶を点てる。

現在、茶の湯と聞いて多くの人がイメージする「わび茶」の原型を完成させたのは、能阿弥に学んだ村田珠光と、その流れを汲む武野紹鴎という茶人といわれています。当時の茶の湯は、豪華な唐物を飾った部屋で将軍家や貴族が行う「書院の茶」が主流でした。そんな中、禅の精神を取り入れ、質素な草庵でお茶を点てていただく「わび茶」という新たな流れが、新興の武家や町衆の間から生まれてきます。

そして、この「わび茶」を大成させ、より洗練させて戦国武将たちに愛されるきっかけを作ったのが、日本一有名な茶人、千利休です。堺の商人の家に生まれた利休は、若くして茶人としての才能をあらわし、出家して武野紹鴎に弟子入り。お茶を通じて着実に人脈を築き、当時茶の湯にはまっていた織田信長によって、茶事をつかさどる「茶頭」の一人にとりたてられます。

ところで織田信長は、なぜお茶にはまったのでしょうか。そのきっかけは、永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛した際、武人や商人たちから名物茶器を献上されたことだといわれています。

このとき、信長に「九十九髪茄子」という茶入れの名品を献上した武将、松永久秀の最期は衝撃的です。久秀は、「平蜘蛛釜」という素晴らしい茶釜を所有していました。晩年、久秀は信長に反旗を翻しますが、城に立てこもり、いよいよ敗色が濃くなります。このとき信長軍から、平蜘蛛釜を渡せば命は助けてやると要求されます。久秀は「この釜だけは死んでも信長には渡さない」と申し出を断り、釜と一緒に火薬で爆死してしまったといいます。

久秀のエピソードからも分かるように、戦国武将にとって、茶道具は実用品であると同時に、所有していることが権力の象徴になる、大切なステータスシンボルでした。信長はこのことを利用し、部下に命じて、茶道具の名物を徹底的に買い集めます。

とはいえ、ただ並べて悦に入るだけでは終わらないのが、信長の常人とは異なるところ。集めた名物を手柄のあった部下に与え、その茶器を使って茶会を開く権利も与えることで、部下のプライドをくすぐり、信頼関係を築くために利用したのです。後に秀吉が「茶の湯御政道」と名付けたこの仕組みが、茶の湯と政治が分かちがたく結びつく大きなきっかけになりました。

信長が苦心して集めた名物は、本能寺の変が起こる前日、本能寺でお披露目のお茶会を開いたため、その多くが信長と運命を共にし、焼失する結果となってしまいます。まさに諸行無常を感じさせる出来事です。

秀吉・利休コンビが築いた茶の湯の黄金時代

信長に次いで天下人となった豊臣秀吉も、千利休を茶頭にとりたてます。秀吉は信長以上に利休を重んじ、茶人としてのみならず、相談相手として非常に頼りにしていました。茶の湯を通じて築かれた利休の人脈、いわば茶の湯ネットワークは、秀吉にとっても心強いものだったことでしょう。

利休はお茶を点てるだけではなく、抹茶の粉をすくうための「茶杓」を大量生産する工房も有していました。茶杓は「茶人の刀」とも呼ばれ、多くの茶人は、自ら切り出した竹を削って作った、こだわりの茶杓を使っていました。当時、既に天下一の茶人と名声高かった利休の名前が入った茶杓とあれば、茶の湯をたしなむ人びとにとって垂涎の品だったはずです。茶道具の組み合わせやブランド化、茶会の演出に至るまで抜群のセンスを持つ利休は、秀吉にとって、腕利きのクリエイティブディレクターのような存在だったと考えられます。

天正13年(1585年)、秀吉は部屋中に金箔をほどこした、組み立て式の「黄金の茶室」を完成させ、世間を驚かせます。秀吉の黄金趣味が爆発したともいえる茶室ですが、質素を重んじる「わび茶」の精神からいえば、ほとんど正反対の価値観。利休がこれをどのように見たか、記録は残っていませんが、茶人として精神性を追求したい気持ちと同時に、権力者に仕える身の上を思い、心中複雑だったかもしれません。

秀吉・利休コンビはこの後も、天皇をもてなす茶会や、大名を一堂に集めた大阪城茶会、町人や百姓までも招いた大茶会(10日間の予定が1日で中止)など、政治と深く結びついた茶会を次々にプロデュースし、茶の湯の黄金時代を築きます。

ところが2人の蜜月は、突然の終わりを迎えることになります。天正19年(1591年)、秀吉は利休に切腹を命じます。「大徳寺の山門に、利休の木像を設置した」「茶器を不正に売買して私腹を肥やした」ことが公式の理由とされています。このほかにも、「利休が娘を秀吉の側室にすることを断った」「秀吉が所望した名物を利休が譲らなかった」「茶道具に対する美意識の相違があった」などさまざまな説がありますが、現在も本当の理由は分かっていません。利休には、切腹をせずに生き永らえる道もあり、自ら死を選んだとする研究者もいます。

いずれにしても、劇的な最期を遂げた利休は、茶の湯にとって伝説的な人物となり、その美意識は、現代に続く「茶道」に大きな影響を与えていくのです。

千利休屋敷跡(大阪府堺市)

茶の湯を愛した戦国武将たち

信長、秀吉のほかにも、茶の湯の魅力にとりつかれた戦国武将は枚挙にいとまがありません。

古田織部

「へうげもの」(山田芳裕作、モーニングKC)

例えば、人気コミック「へうげもの」の主人公として一躍有名になった古田織部。美濃の織部焼の始祖といわれる、利休の弟子です。ある茶会で、形がゆがんだユニークな茶碗を使ったことから、創意工夫の茶人として歴史に名を残しています。利休の死後には、徳川秀忠に茶を指導する立場となり、家康に裏切りの嫌疑をかけられて切腹を命じられるまでのわずかな期間ですが、織部の茶が一世を風靡することになります。

細川三斎

豊前小倉藩の初代藩主だった細川三斎も、織部と同じく、武将でありながら利休の弟子でした。名門の家に生まれ、文化人として名高い父、幽齊のもとで、和歌や歴史など、豊かな教養を身につけて育ちました。切腹を命じられた利休と秀吉の仲を取り持とうとして奔走した、利休の高弟です。蟄居を命じられた利休を、危険を顧みず、織部と共に淀の船着き場で見送ったといわれています。利休の茶を忠実に受け継ぎ、後の世に伝えた人物として知られています。

石田三成

関ヶ原の戦いで敗れた石田三成も、茶の湯を愛した武将です。10代のころ、三成が修業をしていた寺に、鷹狩り中の秀吉が休憩にやってきます。三成は、1杯目にたっぷりのぬるい茶を、2杯目に少し熱めの茶を、3杯目に少量の熱い茶を点てて秀吉をもてなしました。この心づかいに感じ入った秀吉が、三成を小姓にとりたてたといわれています。

どうしてこんなに?武将たちが茶の湯を愛した理由

名だたる戦国武将たちが、なぜここまで茶の湯を愛したのか。ここであらためて、その理由を考えてみたいと思います。

1つ目に、当時の武人にとって、茶の湯が共通の「一般教養」であり、「ステータスシンボル」だったということ。茶の湯の作法に通じ、茶道具の目利きができることは、富と権力を持つ一流の武人である証でした。茶室での語らいが、戦略や政策に直結することもあったでしょう。茶室は、社交の場、密談の場としても機能していたのです。

2つ目に、文字通り明日をも知れぬ命を生きていた彼らにとって、刀を持つことが許されない茶室は、唯一命の心配をせず、心安らげる場所であったということ。現代の私たちも、仕事中、気分を切り替えたいときに一服することがありますが、常に神経を張りつめ、極度の緊張状態で生きていた戦国武将たちが、どれほど切実に「気分転換」を必要としたか、おそらく現代人の比ではなかったでしょう。茶室で静かに一服点てることが、自分自身の心と向き合う貴重なひとときだったことは想像に難くありません。

そして3つ目に、かつて栄西が「茶は養生の仙薬なり」と記した通り、抹茶が各種ビタミンのほかカフェインなどさまざまな栄養素を含む、最高の健康食品であるということ。抹茶を喫することは、例えるならサプリメントと栄養ドリンクを一緒に摂取しているようなもの。戦いの前に一服飲み干せば、疲れが吹き飛び、戦いに向かう気力も湧いてきたのではないでしょうか。

武将たちが愛した1杯を思い描きながらゆっくり味わえば、いつものお茶も、少し違った味わいに感じられるかもしれません。

書いた人

北海道生まれ、図書館育ち。「言編み人」として、文章を読んだり書いたり編んだりするのがライフワーク。ひょんなことから茶道に出会い、和の文化の奥深さに引き込まれる。好きな歌集は万葉集。お気に入りの和菓子は舟和のあんこ玉。マイブームは巨木めぐりと御朱印集め。