浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)は、生涯をとおして約3万点と数多くの作品を残している一方、その人生に関する資料は少なく、謎多き人物でもあります。
本記事では、葛飾北斎の未知なる人生を、6つの時代(雅号)に分けて解説します。
葛飾北斎とは?
日本を代表する浮世絵師であると同時に、世界で最もその名を知られた日本人がだれあろう、葛飾北斎(かつしかほくさい)。浮世絵師としては富士山を題材にした風景画シリーズ『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』や、弟子たちのためのお手本集として描かれた『北斎漫画』などの版画の傑作で知られ、90歳という当時まれにみる長寿を、絵筆とともに全う(まっとう)しました。
葛飾北斎で最も有名な作品がこれ。『冨嶽三十六景』より「神奈川沖浪裏」
北斎亡き後、その名はヨーロッパに広まります。その斬新な作品はゴッホやモネ、ドガといった印象派の画家を驚かせ、19世紀に欧米を席巻した〝ジャポニスム〟に与えた影響は多大なものでした。
そのようなことから、アメリカの『LIFE』誌が「この1000年で最も偉大な業績を残した世界の100人」という特集を組んだ際に日本人で選出されたのは唯一北斎だけ。日本よりもむしろ世界で高い評価を受けているのです。
北斎の本名は?
「川村鉄蔵」いったいだれのことかと思われるでしょうか? これが北斎の本名。宝暦10(1760)年9月23日に生まれた北斎は幼名が時太郎、後に鉄蔵となりました。今回ご紹介したほかにも、多くの画号をもっていた北斎ですが、その本名は以外と普通なのです。
葛飾北斎の人生と代表作まとめ
絵師として名乗る画号は、ペン・ネームや芸名と同様に作者としての責任を表すものですから、たびたび変えるべきものではないとされます。それが、葛飾北斎は生涯に30回も画号を改めたというのですから、驚きです。多くの画号をもち、幅広いジャンルに才能を発揮した北斎。90歳という、当時稀にみる長寿な人生はいったいどんなものだったのか、5つの時代(画号)に分けて追っていきます
北斎20歳、浮世絵の役者絵で江戸画壇に登場
北斎は1760(宝暦10)年9月、江戸本所割下水(ほんじょわりげすい)に生を受けています。その後、4歳で幕府御用鏡師、中島伊勢(なかじまいせ)の養子となり、好んで写生をして過ごし、手先が器用だったことから14歳で木彫り職人に弟子入り。19歳のときには、当時名うての役者絵師、勝川春章(かつかわしゅんしょう)のもとに入門。間もなく彼は勝川春朗(しゅんろう)の名を得て、20歳のころ、細判役者絵によって浮世絵の世界に登場します。しかし、その好奇心に富む性格から、師の模倣に飽き足らず、内緒で狩野派や洋画を学び、ついに破門。それがひいては、波乱に富んだ絵師人生へとつながっていくのです。
春朗(しゅんろう)期の作品「正宗娘おれん 瀬川菊之丞」
『正宗娘おれん 瀬川菊之丞』北斎のデビュー作。勝川春朗の落款がある。
北斎30歳、浮世絵画派とは一線を画した、独自様式で評判となる
勝川派から追われた葛飾北斎は、36歳ごろから宗理(そうり)の落款(らっかん)を使用するようになりました。前年に琳派の町絵師、俵屋(たわらや)宗理を襲名したものと考えられています。当時、仕事場を失った彼は生活に窮するようになってしまいます。しかし、絵に対する情熱はかえって高まっていく一方。オランダの風景版画などに影響を受けたのもこのころです。春朗時代に手がけていた、浮世絵版画や黄表紙などからは当然疎遠に。そこで出合ったのが、当時全国的な流行となりつつあった狂歌の世界でした。結果、宗理の名で、豪華な狂歌絵本や優れた摺物(すりもの)を多数発表しています。さらに、たくさんの肉筆作品を描き、自らの個性を前面に出すようになっていくのです。
宗理(そうり)期の作品「隅田川 渡の雪」
宗理風のほっそりした美人が描かれている。
北斎40歳、肉筆画にも異才を発揮
葛飾北斎にとって大きな転機は、宗理の名を門人に譲り、1805(文化2)年に葛飾北斎と号するようになったとき。以後、彼はどの画派に属することもなく、独立した絵師としての道を拓いていったのです。宗理期の享和年間に洋画に触れてきた北斎は、文化年間になって新たに脚光を浴び始めていた長編小説、読本の挿絵へと仕事の中心軸を移していきます。これは読本の隆盛へとつながり、北斎が挿絵を手がけたからこそ読本は大流行したといわれるほど。北斎は、浮世絵版画においても多彩な表現を用いるようになり、名所絵や戯画などを発表。また、肉筆画の作品も最晩年と並んで多く手がけており、美人画など幾多の名作を残しています。
葛飾北斎(かつしかほくさい)期「酔余美人図」
『酔余美人図』
葛飾北斎50歳、代表作となる『北斎漫画』を刊行
50歳を過ぎてから、葛飾北斎はまた新たな雅号である、戴斗(たいと)を得ます。さらに、読本挿絵から絵手本へと、興味と制作の対象を移しています。絵手本とは、門人や私淑する人たちが絵を学ぶ際の手本となるよう、版画を本にしたものです。葛飾北斎の絵手本は徐々に対象が広がっていき、工芸職人向けのデザイン集、図案集という存在になります。これは、いかに多くの門人、私淑者が北斎のもとにいたかを証明するものでもあります。葛飾北斎は関西旅行の途中、300あまりの絵手本を描いています。それをまとめたものが、後世に名を残す『北斎漫画』初編でした。そのデッサン力は評判となり、以後、15編も刊行されるにいたっています。
戴斗(たいと)期の名作「北斎漫画」
『北斎漫画 八編 群盲撫象
▼書籍 『葛飾北斎 <初摺> 北斎漫画(全)』
北斎60歳、『富嶽三十六景』など浮世絵の錦絵版画を連発
現代では定年を迎える60歳を過ぎて、葛飾北斎はまたしても新たな雅号を使い始めます。1820(文政3)年正月の摺物に署名した為一(いいつ)がそれです。この期の前半は戴斗期に引き続いて絵手本制作に熱中していましたが、次第に色紙判の摺物に秀作を数多く残すようになっていきます。そして、錦絵に傾注するようになり、不朽の名作を世に送り出すことになります。その作品こそ、今日、北斎と聞いて多くの人がすぐに思い浮かべる、『富嶽三十六景』です。また、『諸国瀧廻り』、『諸国名橋奇覧』などの風景版画や花鳥版画、さらには古典や怪談をモチーフにした色鮮やかな錦絵版画など、このころの秀作は枚挙にいとまがありません。
為一(いいつ)期の代表作、富士山と波でおなじみ「富嶽三十六景」
『冨嶽三十六景 凱風快晴』
北斎75歳、画号を画狂人に改め肉筆画に没頭
浮世絵版画で名声を得たにもかかわらず、葛飾北斎は次第に版画への熱意を失っていきます。しかし、75歳にして上梓(じょうし)した風景絵本『富嶽百景』に、葛飾北斎は作画へのあふれる情熱を記し、画号を画狂老人卍へと号を変更。老いてなお意欲は衰えず、晩年を迎えてさらに新たな世界に挑む姿は感嘆に値します。北斎が最後に手がけたのは、肉筆画。それも、当時の風俗ではなく、和漢の故事や宗教に基づく歴史画や物語画、あるいは動植物にモチーフを求めていました。また、独自の洋画風表現方法にチャレンジするなど、その旺盛な制作意欲は常人を超えたものといっても過言ではないでしょう。
▼ 書籍『北斎原寸美術館 100%Hokusai! (100% ART MUSEUM)』
画狂老人卍期(がきょうろうじん まんじ)の作品「肉筆画帖 鷹」
『肉筆画帖 鷹』細い線までしっかりと描かれている。
70年にわたって、貪欲に独自の画風を追求し、今際(いまわ)のきわまで絵筆を握り続けた葛飾北斎。その驚異的な絵師人生は、新時代の足音が大きくなった1849(嘉永2)年、ひっそりと幕を下ろしました。
葛飾北斎が80歳になった自分の姿を描いた自画像。
北斎は変わり者? 90年の生涯で引っ越しは93回
北斎が変わり者であったことを伝えるエピソードに、頻繁に引っ越しをしたことがあります。その回数はなんと93回。ほとんどは生まれ育った現在の墨田区の周辺で、一日に3回引っ越したこともあったとか。最後の家は、かつて住んでいた家で、北斎が荒れ放題にしたため、長らく借り手がいなかったのだそうです。
「本所絵図」(部分)嘉永2〜文久2(1849〜1862)年刊 国立国会図書館/北斎の江戸での行動範囲は、上の図の本所界隈が中心だった
そんな暮らしぶりだったので、当時の人名録の北斎の住所欄には「不定」とされるというありさま。どうしてそんなに引っ越したのかというと、作画に追われ掃除をするひまがなかったから。絵を描くことが第一だった北斎にとって、家は生活よりも絵を描くための場所であって、今でいうゴミ屋敷になると、掃除するのではなく、別の家に移っていたのだとか。
現存する北斎の作品は3万点を超え、一日に1~2作を仕上げていたわけですから、生活が疎かになるのも仕方のないことだったのかもしれません。
葛飾北斎がヨーロッパ(西洋)へ与えた影響
日本は美しいものを生み出す東洋の神秘である。そんな認識がジャポニスム華やかなりしころの西洋に芽生えました。北斎は、その象徴的な存在として語られていたのです。
しかし驚くことに、西洋の芸術家たちを熱狂させた北斎の実力は、実は日本から輸送された陶磁器の包装紙という役割によって伝えられたのです。ヨーロッパに送られる陶磁器の包み紙(というより緩衝材)に利用された『北斎漫画』の断片が、西洋の芸術家たちの目に留まり、まさしく衝撃的な影響を与えることになった。なんだか漫画のような逸話ですが『北斎漫画』も〝事実は小説よりも……〟を地で行ったわけなのです。
『北斎漫画』十二編 「風」天保5年(1834) 浦上蒼穹堂蔵
そもそも『北斎漫画』は、門下生のために北斎が名古屋で描いた300余り(初編の場合)の下絵を、版元が売れると見込んで売り出したもの。そこには、これ以上はないというほど簡潔で単純な線でありながら、地上のありとあらゆる事象や物象が圧倒的なデッサン力によって表されていました。これまで見たこともないビジュアル・イメージが記されているのですから、『北斎漫画』は当然のように大きな話題となります。
長い画歴の中で蓄積した北斎の卓越した技量と、絵に描けぬものはないとでも言いたげな深奥なる想像力が凝縮された、いわば絵師・北斎の分身とも言うべき『北斎漫画』。この作品を味わわずして、北斎を語ることなかれ。そう言わしめるだけの存在と迫力です。
『北斎漫画』 三編「遠近法とその描き方」文化12年(1815)浦上蒼穹堂蔵
レオナルド・ダ・ヴィンチも北斎に影響を受けた!
14世紀半ばから16世紀にかけてのイタリア・ルネサンス期を代表する大芸術家のレオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画、彫刻、建築、音楽といった芸術分野はもとより、科学や数学、工学、解剖学、地学、植物学といったジャンルにも才能を発揮した、まさに万能の天才です。ダ・ヴィンチの科学的・多角的な知識や見地はなんと、自然と共生し、自然から学んだものだと本人が語っています。そして、「絵画こそ最高の芸術」だと断言しているのです。同時代の偉大な彫刻家・ミケランジェロはその言葉に憤慨(ふんがい)し、ダ・ヴィンチに詰め寄ったところ、「君には空気は表せないが、私は空気が描ける」と言い返されます。科学的な視点をもっていたダ・ヴィンチは、遠くの山が青く見えるのは水蒸気の層によるものだということを知っており、空気を描くという意味がわかっていたのです。そして、空気遠近法という画法を編み出し、絵画こそ最高という言葉を裏付けました
ダ・ヴィンチと同じように、北斎もつねに自然に目を向け、的確に描き表すことを可能にした絵師のひとりです。その結果、自然と人間が闘っているという観点をもつようになり、『神奈川沖浪裏』(かながわおきなみうら)の大波をはじめ、風や水の動きまで絵画として表現することに成功したのです。
ここに紹介したダ・ヴィンチのスケッチと北斎が描いた波を見比べてみてください。時代や技法の差こそあれ、描写はまるでトレースしたかのように似通っています。しかも、北斎のほうがはるかにアーティスティック。この、万能の天才にも勝る観察眼こそ、北斎の絵の凄さの秘密です。
世界的建築家のフランク・ロイド・ライトも!
帝国ホテル旧本館の設計者として知られるアメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトは、日本の近代化に尽力するかたわら、浮世絵を愛し熱心にコレクションをしていたという側面があったことをご存じでしょうか。それを物語るのが、ライトが手がけた歴史的な作品、「落水荘」(らくすいそう)の建築秘話です。落水荘は、アメリカのピッツバーグで、デパートの経営者として成功したオーナーのカウフマンのために設計した邸宅の別名で、その名は邸内を勢いよく落ちていく滝の水に由来しています。自然豊かな郊外にふさわしい別荘を希望したカウフマンのオーダーを受け、ライトが示した設計図は、なんと滝の上に立っている邸宅。
それを見たカウフマンは、滝の上ではなく滝を見ながら暮らしたいと変更を要求。それに対してライトは、「滝やそれを取り巻く自然と一体となって暮らしてもらいたくて、この家を設計した」と答えます。そして、やおら取り出した一枚の浮世絵が、北斎の『諸国瀧廻り』(しょこくたきめぐり)でした。
滝から流れ落ちる水をユニークに描いた浮世絵を眺めるカウフマンにライトは、日本人が自然と共生していることを語りかけ、納得させるとともに満足へと導いたと伝えられています。近代建築史に偉大な業績を残し、その作品が世界遺産に指定されることが確実視されているフランク・ロイド・ライトが、北斎の『諸国瀧廻り』を手本にしていたとは!海外の別荘にまで影響を及ぼし、それが歴史的建築物として名を馳せるとは、北斎には知る由もなかったことでしょう。
葛飾北斎の作品を鑑賞しよう!「すみだ北斎美術館」へ
北斎の作品が多く展示されている美術館といえば両国にある「すみだ北斎美術館」。企画展なども要チェックです。
すみだ北斎美術館 webサイト
住所:東京都墨田区亀沢2-7-2 地図
会館時間:9:30~17:30(入館は閉館の30分前まで)
料金:[常設展]一般 400円(団体320円)高校生、大学生、専門学校生、65歳以上 300円(団体240円)
休館日:月曜日
【おまけ】北斎が80歳を超えてから何度も訪れた小布施の「岩松院」へ
北斎が小布施を訪れた年度については諸説あるのですが、小布施の記録によると初訪問は天保13(1842)年。この時北斎は83歳で、以後も85歳、86歳、そして89歳の時の都合4回、小布施に逗留(とうりゅう)したことが伝えられています。それは単なる観光旅行ではなく、絵を描くため。80歳を過ぎてから肉筆浮世絵にわが道を見いだし、死の間際までよりよい絵を描くことに執心した北斎は、小布施に何を求め、どんな足跡を残したのか……。謎多き北斎の行動を追うため、信州・小布施を訪れました。
東京から新幹線に乗り、長野駅から長野電鉄に乗り換えて小布施駅へ。現在は時間的距離が非常に短くなっていますが、当時の江戸から小布施までの距離は約240㎞。山を越え、谷を越えの長旅は、老齢の北斎にとって過酷なものであったに違いありません。
小布施に着いて最初に目ざしたのは、90歳で没した北斎が、その前年に完成したという巨大な天井画が残る「岩松院(がんしょういん)」です。小布施駅からからタクシーに乗って約15分。雁田山(かりだやま)の麓にある「岩松院」へ向かう道の周囲にはリンゴ畑やブドウ畑が広がっていて、信州らしいのどかさに包まれています。
そして、山懐に抱かれた「岩松院」の仁王門の前に立つと、逆光を背に受けた古刹の威容に気持ちも引き締まってきます。本堂に入り、大間の天井を見上げると、そこには、21畳分の大きなスペースに色鮮やかな鳳凰がいきいきと躍動する姿がありました。
ど迫力に満ちた葛飾北斎筆の天井画『八方睨み鳳凰図』
どこにいても、鳳凰の鋭い目に睨(にら)み据えられているように見えることから名付けられた『八方睨み鳳凰図』は、まさにその名の通りの迫力で見る者を圧倒します。高価な顔料をふんだんに用いて、下地に白土を塗り重ねて金箔の砂子(すなご)を蒔(ま)いた極彩色の鳳凰は、今にも動き出さんばかり。北斎最晩年の傑作を呼ぶにふさわしい偉容で迫ってくるようです。
はたして89歳の北斎にこれほど大きな作品をひとりで描くことができたのかどうか……。多方面からの研究によると、色使いや構図は北斎作に間違いないとか。しかし、周囲の金砂子の部分に1か所、絵皿を置いたと思われる痕跡が残っているのがネックで、北斎がそんな間違いを犯すはずはないという理由から疑問が呈されているのだとか。
現在はそれらを考え合わせて、北斎が描いたのは鳳凰の全体像と顔の部分だけで、ほかは娘のお栄(応為)らに任せたという説が有力になっています。ただしそれは北斎が老齢で行き届かなかったのではなく、次作に取り掛かるためだったというのですから、改めて北斎の作画の意欲に驚かされます。
北斎作の『八方睨み鳳凰図』であまりにも有名な古刹には、天井画を描くことをすすめた高井鴻山(たかいこうざん)筆の書が掲げられていて、小布施で育まれた師弟関係を今に伝えてくれています。境内には、この地に国替えとなった戦国武将・福島正則の霊廟があるほか、俳人・小林一茶が病弱なわが子への声援の句と伝わる「やせ蛙(がえる)まけるな一茶これにあり」と詠んだ「蛙合戦(かわずがっせん)の池」も。静寂の古刹では、小布施の文化的側面も垣間見ることができます。
長野県上高井郡小布施町雁田 地図
岩松院ホームページ
拝観時間/9時30分~16時(4月~10月は17時まで、11月は16時30分まで 受け付けは終了30分前)法要および行事の日は拝観休止
拝観料/300円
アクセス/長野電鉄「小布施」駅より徒歩約30分、タクシーで約5分
写真/篠原宏明
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