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2020.10.12

チラリと覗く胸に、ゴクリ。異なるタイプのセクシー美女を描く喜多川歌麿と渓斎英泉、美人画の魅力

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江戸時代、浮世絵の美人大首絵(バストアップの構図)を確立した第一人者、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)。しなやかなポーズに物憂げな表情、指先の細やかな動きなど「女性の健康的な色っぽさ」を最大限に引き出し、一躍人気絵師となりました。さらに美人画で名を馳せた絵師が、もうひとり。歌麿の38年後、1791年に生まれた渓斎英泉(けいさいえいせん)です。歌麿とは対照的に、退廃的で妖艶な美女を得意とし、独自の画風を追求しました。歌麿と英泉、ふたりの描く女性は今もなお美しく、見る人の心をガッチリ掴んで離しません。この記事ではそんなふたりの人生と、美人画の人気の秘密を探ります。

美人画が人気を集めていた秘密

美人画が江戸時代に大人気を博した理由は、当時、悪所(あくしょ)と呼ばれていた遊郭や芝居町が描かれていたからです。これらの場所は一般の人々には簡単に足を踏み入れることができない世界でした。そこで活躍する人々は、庶民の憧れの的。美人画や役者絵には現代でいうところの芸能人のブロマイドやポスターとまったく同じ需要があったのです。やがて美人画のモデルは遊女にとどまらず茶屋の看板娘にまで広がり、広告的な意味合いも持つようになります。

喜多川歌麿の描く健康美人

18歳の頃、鳥山石燕(とりやませきえん)の門人となり、20代は多彩な画風や媒体を手がけて自分さがしに明け暮れた歌麿。31歳のとき、公募で選ばれた狂歌に歌麿が絵を添えた『画本虫撰』が発刊されます。その精密にして写実的な絵に感心したのが、名プロデューサーとして浮世絵隆盛の一翼を担った版元・蔦屋重三郎。彼に狂歌作家などを紹介されて交友を広げた歌麿は、画力に磨きをかけ、春画でも知られる存在となります。30代をとおして独自の画法や構図を胸に温めてきた歌麿の努力は、40代を迎えて一気に開花。そこで生まれたのが美人大首絵の手法です。

歌麿の描く美人画は構図にインパクトがあるだけでなく、髪の毛の一本一本、背景の美しさにまでこだわられていることが特徴。「美人の細部までじっくり見たい!」という世間のニーズにいち早く応えたものでした。

なかなかお目にかかることができない美人が、艶っぽく、きらびやかに描かれていたことから男たちは熱狂。モデルにも好評だったといわれています。

▼喜多川歌麿の人生や作品をさらに詳しく知るなら? こちらの記事をお読みください。
喜多川歌麿とは? 3分ですべてがわかるその人生

渓斎英泉の描く退廃的な美人

12歳から狩野白桂斎(かのうはっけいさい)に絵を学んでいた英泉。ところが20歳のとき両親が亡くなり、3人の妹を養う身になりました。菊川英山の門人となり浮世絵師として活動し始めたのも、ちょうどこの頃。葛飾北斎の家の近くに住んでいた英泉は、彼にも技法を学んだといわれています。北斎に先駆けて日本で初めて合成顔料「ベロ藍」を使った藍摺絵(あいずりえ)を描いたのも、実は英泉なんです。

英泉は浮世絵師としての才能だけでなく、遊郭の経営者や文筆家としても頭角をあらわし、晩年は文筆業に専念していたようです。

国立国会図書館デジタルコレクションより

そんな英泉の描く美人は、猫背で情念のこもった表情の女性たち。厚い下唇に、意思の強そうなキリッとした目が特徴的です。江戸時代後期の退廃的なトレンドにぴたりと当てはまる英泉の美人画は、瞬く間に人気を集めました。

本物の美人画を家に飾れる!

健康的な美女を得意とした喜多川歌麿と退廃的な美女を描いた渓斎英泉。どちらの美人画が、みなさんお好きですか? 実は江戸時代に摺られたふたりの作品を、通販で購入することができます。

喜多川歌麿の美人画「乳を飲ませる母」

何気ない、親子の平和な日常を切り取った一枚。健康的なシーンもどこか、色っぽさを感じられるのが歌麿らしさ。鏡ごしに見える子どもの後頭部も愛らしいです。

作品の詳細と購入はこちら

溪斎英泉の美人画「浮世風俗美女競」

渓斎英泉の人気シリーズの一枚。長いまつ毛や髪の梳き具合まで丹念に描きこまれています。

歌麿や英泉が活躍していた当時に摺られた浮世絵。リビングに飾ってみてはいかがですか?