書とアートを融合!独自の表現世界を切り開いた『榊 莫山』の物語

書とアートを融合!独自の表現世界を切り開いた『榊 莫山』の物語

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『莫山先生の莫山発言』のナレーションで始まるテレビコマーシャルを覚えておいでだろうか。仙人のような飄々とした風貌と、味わいのある関西言葉。これで一躍有名になった書家・榊 莫山(さかきばくざん)こそ、書とアートの境界線をなくしたフロンティア。書と真正面から向き合い、独自の道を模索した、颯爽たる書家人生をご紹介します。

書道会のカリスマ・榊 莫山

dma-K104=109-002写真提供/榊せい子

不運が転じて書家への足がかりをつかむ

自由奔放な活動ぶりから書道界の風雲児と呼ばれた榊 莫山は大正15(1926)年生まれ。早くから書や絵画に親しむ環境に育ち、高等小学校6年生で学童競書会の特選を受け天与の才を発揮します。ですが、太平洋戦争の軍靴の音が押し寄せる時代にあって、書画に親しむのは国賊もの。徴兵されて鹿児島で終戦を迎え、復員後は故郷で教員となります。

dma-K104=109-001辻本史邑に師事し書の道を進み始めた若き日の榊 莫山。

終戦の翌年、敗戦で先が見えないときに見つけた一筋の光明が、奈良国立博物館で第一回正倉院展が開催されるというニュースでした。天平時代の宝物を見るために週末を利用し、勇躍奈良へ向かった榊を待っていたのは、長蛇の列と受け付け終了の立札。

気を落とした榊はそのとき、書道誌『書鑑』を主宰していた有名書家・辻本史邑(つじもとしゆう)が奈良に住んでいることを思い出します。わざわざ奈良まで来たのだからと、筆の専門店で住所をたずね、自宅を訪れてみたら運よく在宅中。仕事部屋に上げてもらうと、辻本はおもむろに「翌週までにこれを書いてくるように」と手本を渡します。

思いがけず師を得た榊は毎週末に奈良へ通うようになり、書家としての人生の舵を切り、翌年には糟糠の妻となる美代子と結婚して長女をもうけます。
DMA-20111J003000A『踊る文字群』 紙本墨書 昭和28(1953)年 32.5×131.0㎝ 三重県立美術館蔵

辻本史邑のもとで書を習い始めて3年目の昭和26年、榊が日本書芸院展に出品した『杜甫・放蕩の詩』が推薦一席・文部大臣賞を受賞します。それに続いて、当時前衛派とされた奎星会展での他流時代でも見事最高賞を獲得し、書家として頭角を現しはじめます。それを機に雅号を莫山と改め、より大きなチャンスを求めて家族で大阪・難波へ移住。意欲的な書への取り組みによって数々の書展で評価を得て、イサム・ノグチや当時美術記者であった司馬遼太郎に激賞された榊は、モダンアートの分野でも注目される書家となっていきます。

DMA-20111J028000A『円想般若心経Ⅰ』 紙本墨書 昭和60(1985)年 90×90㎝ 三重県立美術館

順風満帆と思われたその矢先、突然の不幸が榊を襲います。それは、2歳の長男寧(やすし)の突然の死。以後、定期的に開いていた個展には夭逝したわが子の菩提を弔うために『般若心経』を出品するようになり、それがまた新たな書の世界を広げることにもつながります。

そして昭和32年、長く師事してきた辻本史邑が亡くなったことを機に、公募団体から離れることを決意。昭和36年には奎星会の同人も辞退し、まったくフリーの立場で書に臨むようになるのです。

書壇から離れて自由な創作活動へ

土2-min『土』 紙本墨画 23.7×26.6㎝ 制作年不詳 三重県立美術館蔵

自由の身となった榊は、やがて師を『野の書』に求めるようになります。奈良や京都、伊賀を歩き、道標や文学碑、寺院の扁額、店の看板などから面白い書を見つけては写真を撮り、生きた書を学んだのです。

さらに、書の歴史をひもとくことにも時間を費やすようになり、王羲之(おうぎし)や空海をはじめ、白隠、仙厓、良寛といった禅の書に傾倒しました。

同時に出版やテレビ出演をこなすなど、高度経済成長という時代のエネルギーに後押しされるように、創作活動のフィールドを広げます。

間もなく、東京と大阪で個展を開くことが恒例となり、榊はアバンギャルドな書家としての認知を得ていき、野の書が『日本美術工芸』誌で連載されるようになったことで、アート界でもその名が知られるようになっていきました。

土『土』 紙本墨書 制作年不詳 40.3×54.5㎝ 三重県立美術館蔵

そのような日々の中で新たに取り組んだのが、漢字一文字を徹底して追求した書でした。そこで最初に取り上げたのが、望郷の念から思いついたという『土』。これを書くにあたって大切にしたのは、漢字の意味よりもイメージで、『土』の原風景を追い求めながら、紙を替え、墨を替え、書き続けること20年以上。その過程で、にじみやかすれ、たまりといった表情の変化による造形の面白さを見出した榊は、さらに故郷を思い出す『山』や『樹』、生命の豊穣を表した『女』に取り組み、漢字一文字のシリーズは代表的作品となります。

このころ榊は妻を伴ってパリ旅行へ。ルーブルよりもむしろ近代美術館に心を寄せ、『黒の画家』と呼ばれたスーラージュと意気投合。それはまさに、書とモダンアートとの邂逅(かいこう)といってもいいでしょう。

dma-K104=109-003-min 150歳を過ぎてもどった故郷・伊賀の自宅で庭を眺める。広い敷地に構えた家は自然のただ中。畑づくりにいそしみ、晩年まで筆を取った。写真/中里和人

50歳を過ぎた榊は故郷の伊賀に山居を構え、書にいそしむかたわら絵画に取り組み、畑仕事にも精を出すという理想的な創作活動を始めます。その一方で、昭和52年には文化大革命の余韻冷めやらぬ中国・上海を訪れて書の源流を探り、以後もたびたび出かけるなど、古典の研究にも余念がありませんでした。

そのような蓄積が実を結び、60歳を過ぎてから活躍の場はますます広がり、書とアートを融合した創作は晩年まで続きます。そして平成21年、東寺の真言宗立教開宗1200年の慶讚大事業勧進写経(般若心経)の手本制作を最後の大仕事として、翌平成22年、享年84歳で静かに息を引き取ります。

その後半生は自作のフレーズ、「花アルトキハ花ニ酔ヒ 風アルトキハ風ニ酔フ」そのまま。榊莫山は最期まで野に生き、野に芸術を見出す書家としての人生を全うしたのです。

DMA-20111J016000A-min『女Ⅰ』 紙本墨書 平成5(1993)年 41.0×54.3㎝ 三重県立美術館蔵

◆榊 莫山(さかきばくざん)
1926年生まれ、2010年10月3日没。本名は榊齊。敗戦後復員し、教員のかたわら選科生として京都大学文学部に入学し、井島勉のもとで美学を学ぶ。1946年より書を辻本史邑に、篆刻を梅舒適に師事。日本書芸院展、奎星会展で度重なる最高賞を受け、20代から審査員としても活躍。1958年に書壇を退き、独自の創作活動へ。40代からの『土』『女』シリーズや、50代からの『詩書画三絶』で独自の世界を展開。宝酒造『よかいち』のテレビCM出演から莫山先生の愛称で親しまれ、テレビ番組にも多数出演。関西地方の長寿番組『真珠の小箱』の題字を記憶している人も多いだろう。晩年までほぼ毎年個展を行い、『野の書』『禅の書』『文房四宝』『莫山書話』などのエッセイ集や関連書は100冊にもおよぶ。

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