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2017.11.02

国宝 法隆寺 救世観音とは?雪松図屛風とは?

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。2017年は「国宝」という言葉が誕生してから120年。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

国宝_7表

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は聖徳太子の面影伝える秘仏、「法隆寺 救世観音」とめでたさ日本一の名作、「雪松図屛風」です。

聖徳太子の面影伝える秘仏 「法隆寺 救世観音」

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法隆寺夢殿の本尊「救世観音」は、およそ1400年前に造立された、日本に現存する最古の木造彫刻のひとつです。

腰高のすらりと優美な立ち姿と、くっきりした目鼻立ちに独特の笑みが印象的なこの像は、法隆寺に残る記録から、聖徳太子等身大の像として伝えられてきたことがわかります。「救世観音」の「救世」とは、「衆生を苦しみの世から救う」ということを意味します。その名は仏教の経典には登場しませんが、聖徳太子が最初に講じた「法華経」にちなんだ尊名とも考えられています。

6世紀半ばに朝鮮半島から公式に伝来した仏教は、崇仏派と廃仏派との抗争を経ながら、しだいに日本に定着していきました。その振興に尽力したのが、用明天皇の皇子・聖徳太子でした。推古天皇元年(593)、推古天皇の即位とともに、その摂政となった聖徳太子は、仏教を中心に据えた国づくりに取り組みます。そして推古天皇9年頃、当時の都の飛鳥京から北西に20km離れた斑鳩の地に移り住み、自邸斑鳩宮の西方に斑鳩寺(のちの法隆寺)を造営したのです。

救世観音の明確な造像年代はわかっていません。近年の研究で、当時、等身の像を造るのは、その人物が亡くなったときであることが明らかになり、もしも本像が当初から太子等身像として造られたのであれば「救世観音」は、推古天皇30年(622)の太子の死に際して造立されたことになります。

奈良時代に斑鳩宮跡地に夢殿が建立されると、「救世観音」はその本尊とされました。しかし、平安時代末期の13世紀以降は秘仏とされ、法隆寺の僧侶ですら夢殿の厨子の扉を開けることは、禁じられました。

その扉が開いたのは、明治時代に日本美術を高く評価し、文化財の保護にも携わったアーネスト・フェノロサと岡倉天心でした。二人は、明治17年(1884)、政府の許可を得て法隆寺の宝物調査に訪れ、禁忌を侵すことを恐れる僧侶たちを説得して、厨子の扉を開いたといいます。

それから約130年、「救世観音」は現在も夢殿の奥にあって、毎年2回の開扉期間のみ、その神秘的な微笑みで人々を迎えています。

国宝プロフィール

法隆寺 観音菩薩立像(救世観音)

7世紀前半 木造 漆箔 像高178.8cm 法隆寺 奈良

聖徳太子(厩戸皇子)の等身像ともいわれ、秘仏として夢殿に安置されてきた。頭部から足を乗せる台座蓮肉(蓮の花托)まで一木で彫られ、漆などを塗り金箔を押している。特別開扉は、秋季10月22日~11月23日、春季4月11日~5月18日。

法隆寺

めでたさ日本一の名作 「雪松図屛風」

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霞立つ一面の雪景色──柔らかな陽光を受けて輝くその大画面に、大きさも姿も異なる3本の松が枝を伸ばす「雪松図屛風」。伝統的な画題に迫真的な描写を取り入れ、新しい絵画の創造者として人気を博した江戸時代中期の絵師・円山応挙の代表作です。

応挙は、享保18年(1733)、丹波国穴太村(現・京都府亀岡市)の農家に生まれ、若くして京都の町に奉公に出ました。奉公先は高級玩具商の尾張屋。そしてこの店の主人のつてで絵の基礎を身につけて頭角を現し、30代のころには、有力なパトロンを得るほどの絵師となっていきました。

後ろ盾を得た応挙は、当時の主流であった狩野派をはじめ、あらゆる既存の画法や中国伝統絵画、そして独学で西洋絵画まで研究しました。そして当時の本草学(博物学)や中国写生画の流行を背景に、「写生」の重要性を強く認識するに至ります。ここでいう「写生」とは、そのものらしさや雰囲気を描き出そうとする「写実」とは異なります。応挙にとって「写生」とは、ものの形を完璧に写し取ることを通じて、そのものの本質に迫ることでした。

応挙の登場以前の日本では、山水画も花鳥画も人物画も、お手本に倣って描くもので、対象を徹底的に観察して描くということは行なわれていませんでした。それに対して観察に基づいて描かれた応挙の「写生画」は、平明でわかりやすく、宮廷から富裕な町人層まで多くの人々の支持を得ました。

「雪松図屛風」は、豪商・三井家の注文により描かれたといわれ、応挙の写生画の到達点を示す作品です。一見すると、平凡な風景画と感じられがちな屛風絵ですが、実際に絵の前に立ってみると、新雪の朝の清冽な空気すら感じさせる迫力に驚かされます。そして、精密な描写を重ねた表現が生む松のリアリティーと、画面全体の夢幻性が拮抗する、その美しさに心奪われるのです。

迫真性と清新な平明さで一世を風靡した応挙の様式は、円山四条派という流派を生み出し、その後の日本絵画に多大な影響を与えたのです。

国宝プロフィール

円山応挙 「雪松図屛風」

18世紀後半 紙本墨画金彩 六曲一双 各155.7×361.2cm 三井記念美術館 東京

写生に独自の境地を開いた円山応挙の大作で、陽光にきらめく雪の中に、3本の松だけが迫真性をもって描かれる。三井記念美術館の「国宝 雪松図と花鳥」(2017年12月9日~2018年2月4日開催)で1月4日から展示予定。

三井記念美術館