浮世絵を大発展させたのは江戸の「おもしろカレンダー作り」だった?! 大小暦が、世界に誇る日本美術「錦絵」になるまで

浮世絵を大発展させたのは江戸の「おもしろカレンダー作り」だった?! 大小暦が、世界に誇る日本美術「錦絵」になるまで

目次

江戸時代、それは260年に及ぶ天下泰平の時代。それはまた、人々のクリエイティビティが爆発した時代でもありました。その根本にあるのは「粋」という曖昧な価値基準であり、それは取りも直さず、おもしろいこと、人々をあっと驚かすこと、楽しませることに他なりません。江戸時代の「粋」を生きた人々は、ビジネスや実利性とは無関係の「趣味娯楽」に当時の最新技術と、時には多額な資金も投じ、現代では日本を代表する一級品と讃えられる作品を数々生み出してきました。そんな、「江戸時代の趣味娯楽に対する情熱が生んだすごいもの」について、これから全3回に渡ってお伝えしていきます!

第1回は、「大小暦」についてお送りします。暦の自由売買が禁止された江戸時代、人々は新しい年がくると年賀状のようにして、自作のカレンダーをお互いに贈り合いました。そして作品のクオリティに夢中になった結果たどり着いたのは・・・あの日本美術の形式、「錦絵」だったのです。個人製作の素朴なカレンダーが、いかにして日本を代表する美術、錦絵を誕生させるに至ったか、その意外な経緯をご紹介します。

浮世絵を大発展させたのは江戸の「おもしろカレンダー作り」だった?! 大小暦が、世界に誇る日本美術「錦絵」になるまで
慶応3年(1867)の大小暦。「絵暦貼込帳」(国立国会図書館デジタルコレクション)より。

奇抜すぎる! 月の大小しかわからないカレンダー「大小暦」

上の図をご覧ください。江戸時代に描かれた絵です。かわいらしいうさぎの餅つき、のように見えますが、実はれっきとした1年のカレンダーなのです。よーくみると漢数字が読み取れます。(答えは下記)ただし日付はなく、大小の月がわかるだけ(大小暦)です。現代の暦では、「大の月」は1ヶ月が31日ある月ですから1,3,5,7,8,10,12月、「小の月」は2,4,6,9,11月(2月は28日、閏年は29日)と決まっています。カレンダーで確認するまでもない常識です。なぜ、大小などカレンダーにする必要があったのか? それは、江戸時代の暦が、月の大小さえ毎年変化する複雑至極なものだったからです。

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臼に「大臼小兎」の印が押してあります。大の月が臼に、小の月が兎の中に紛れて書いてあるよ、というヒントです。読み解くと、この年(慶応3年)の大の月は2,4,8,10,11,12月、小の月は1(正),3,5,6,7,9月であることがわかります。もちろんうさぎ年です。

江戸時代の暦が複雑すぎる件

江戸時代の暦は太陰太陽暦といって、月の運行によって1ヶ月の長さを決めます。月は平均29.5日で地球を1周しますから、大の月は30日、小の月は29日としました。新月は必ず1日、満月なら必ず15日です。月がカレンダーになるのだから便利なのですが、実はそんなに上手くいかないのです。季節は月の運行ではなく、地球が太陽の周りを回ることで変化します。月の運行だけで1ヶ月を決めていたのでは、そのうち季節と暦がズレてくるのです。そこで、毎年暦を計算して大小の並びを変える必要があり、さらには年によっては閏月を設けて季節と暦を調整しなければなりませんでした。太陽暦では、1年は365日、小の月が「西向く士」(2月,4月,6月,9月,11月)で、閏年は4年に一度、と決まっています。しかし江戸時代は、大小の並びが毎年変わり、また何年かに一度は1年が13ヶ月ある、なんてこともあったのです。

暦製作は、お上に任せるのが吉

このように複雑な暦は、江戸の天文方と京都の陰陽師を何度も行き来し、最終的に幕府の精査を経てようやく交付される大掛かりなものでした。これを素人にやられては、間違ったカレンダーが量産されること間違いなし、またそうなれば大混乱を招いてしまうのも当然です。そんな背景があって、江戸時代は暦製作に厳しい統制がしかれ、暦の自由な売買が禁止されていました。

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伊勢暦。(画・葛飾北斎)(国立国会図書館デジタルコレクション)暦が一般にも普及してくると、各土地の特色を加えた地方暦が作られるようになりました。図は地方暦の中でもっとも普及したと言われる伊勢暦。他にも奈良の南都暦、関東〜東北にかけて普及した江戸暦、大坂暦、薩摩暦などがありました。

必要は発明の母! クリエイティビティの見せどころ

いくら暦の売買が禁止されているといっても、月の大小どころか、今年が12ヶ月なのか13ヶ月あるのかさえもわからないのでは大変です。そこで編み出されたのが、絵の中に大小のみを組み込むという画期的かつクリエイティブな方法。大小暦は、少なくともはじめは必要に迫られて発明されたものなのです。

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「江戸府内絵本風俗往来」(明治38年)(国立国会図書館デジタルコレクション)より、左から2番目が暦売り。他の出版物に比べて、暦の出版数は断トツだったそうです。

元祖大小暦? 名人鹿野武左衛門の大小暦

大坂出身の落語家であり、江戸落語の開祖とも言われる鹿野武左衛門は、その著書「鹿の巻筆」の中にこんなお話を載せています。

新年、ある表具店に持ち込まれた掛物には、一言「吉弓」と書かれてありました。そこに居合わせたのは友達の武士、医師、そして農民。4人は、これは何かの判じ絵(クイズ)に違いないと頭をひねります。

表具店の亭主は「良(吉)き弓は張るのにも良い年ってことだ」(表具店は「貼る」のが仕事なので)

医者は「十一に口(吉)、弓は『灸』、つまり口の病には十一の灸を据えると良いってこと」

農民は「良き弓はよく当たるから、つまり作物も当たる年ってこと」

と、それぞれ自らの職業に当てはめて推理します。

そして最後、武士は「刀の大小と同じで、大小ではないか」といいます。

わけを問うと、「『大』の字の書き順は、最初横に一文字、『小』の字は縦に一文字書くから、横棒が大の月を表し、縦棒が小の月を表すのでは?」と推理します。なるほど確かに、「吉弓」を書き順どおりに書くと、1画(大)2画(小)3画(大)・・・となり、閏月を含めて13画目まで、その年の大小にピッタリ合っていた、というお話です。

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「鹿の巻筆」貞享3年(1686年)(国立国会図書館デジタルコレクション)に出てくる話「表具屋のかけ物」より。現在知られているもっとも古い大小暦の一つ。書き順を知らなければ解けないですが、ハイクオリティかつクリエイティブです。

おもしろいことには役人だって必死になる!

大小暦は個人で作るものですから、売買は禁止です。趣味で自作される大小暦は、旧暦中に作っておいて、正月の贈り物として友達と交換したり、得意先に配ったりしました。現代の年賀状のようなものですが、自作のクイズ付きというのが江戸時代らしくて粋です。しかも、このブームを楽しんでいたのは庶民だけではありません。肥前国平戸藩藩主であった松浦静山は、自著の中で大小暦に触れて、「江戸城内であることも憚らず、大名も武士も役人も、みんなして交換している」と書いています。庶民だろうと役人だろうと身分を問わず、みんな頭を悩ましては自信作を作ろうと必死になっていたのです。

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「絵暦」(国立国会図書館デジタルコレクション)より。こちらは12の漢字の中に「大」と「小」の字が隠れているというもの。12の漢字を12ヶ月と捉えると、大小の月がわかるようになっています。

錦絵誕生の瞬間! 豪華な大小暦作りが偶然生み出したブレイクスルー

実用にはじまった大小暦の交換は、デザインに独自性が表れるので、次第にクリエイティビティの試される趣味の域へと達していきます。大小暦の流行が興隆を極めたのは、なんといっても明和2年(1765年)のこと。「大小取替会」というコンテストが開かれ、作品の出来を競い合うようになります。競うとなっては、趣味人も必死です。彼らは、より豪華なデザインを求めてプロの浮世絵師に図柄製作を依頼するようになります。そんな中現れたのが、浮世絵師・鈴木春信が開発した、世にも美しい作品でした。それまでの浮世絵は、せいぜい2,3色摺りでしたが、春信はとっておきの「大小暦」を作るため、錦のように美しい多色刷りの絵暦を発表したのです。世界に誇る日本美術「錦絵」誕生の瞬間でした。

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明和2年の大小。「惠合余見」(国立国会図書館デジタルコレクション)より。花火で有名な玉屋の提灯に「メイワニネン」と書いてあります。水面に落ちる花火の玉の大きさが、そのまま大小になっています。現存する大小でも、明和2年の作品は圧倒的に多いのだとか。

どうしよう! ネタが思いつかない!

江戸の街では「シャレの師匠」が人気商売だったくらいですから、みなさん発想力や想像力には優れていたのかもしれませんが、それでも毎年のことですから、どうしてもいいネタが思いつかない年だってあります。そんな時には、「それらしく見える絵」にしてしまうこともしばしば。「梅ちゃ暦」=「めちゃ暦」、つまり暦になっていない暦、雰囲気だけの「いたずら暦」もかなり出回ったそうです。ここまでくれば、もはや実利性は二の次どころか、全くなしの完全な遊びです。

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日本における洋画の創始者として名高い司馬江漢の作品。「惠合余見」(国立国会図書館デジタルコレクション)より。文章の中に「大」の字があるので、文中に隠れている漢数字は「大の月」を表しています。文章は申年にかけて山梨県「甲州猿橋」についての説明。この作品は大小になっていますが、司馬江漢もまた、それらしく見えるけれど実は暦になっていない「いたずら暦」を残しています。

北斎も、広重も、馬琴先生も! みんなやってた大小作り

鈴木春信が画期的な多色刷りの作品を生み出した明和2年以降も、大小暦をお互いに贈り合う文化は続きます。大小暦ブームは、最終的に完全なる遊びの世界に突入しましたが、遊びも真剣にやれば傑作を生むというものです。今では「もっとも偉大な業績を残した世界の100人」に日本人で唯一数えられる葛飾北斎も、泣く子も黙る名所絵の売れっ子、歌川広重も、浮世絵界のアイデアマン、歌川国芳も、また江戸きっての大ベストセラー作家、滝沢馬琴も、みんな当時は大小作りに勤しんでいたのです。

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寛政4年(1792年)の作品。「絵暦貼込帳」(国立国会図書館デジタルコレクション)より。「子」の字が並ぶのを見て、師弟が謎を解いています。答えは、「子」の字の大きさでその年(子年)の大小を示すというもの。後ろの絵には、祭のある「庚申」、「己巳」、「甲子」の日を書いてイベントの日も教えてくれます。描いたのは、当時勝川春朗の名で活躍していた葛飾北斎です。

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歌川広重の作品。「大小暦帖(尾嶋氏旧蔵古暦コレクション)」(国立国会図書館デジタルコレクション)より。右端の聯に大小が書かれています。机の上の本には、彼岸や八十八夜がいつかまで書かれているサービス付き。

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文・滝沢馬琴、画・渓斎英泉の豪華作品。「絵暦」(国立国会図書館デジタルコレクション)より。美濃と近江のねずみが江戸見物に来ているという設定で、小話が繰り広げられています。カレンダー部分は、「人とねずみとにたことをかぞへ」た結果だそう。

おふざけを極むれば、そこは畢竟芸術の域

春信が生んだ多色刷りの絵暦は、のちに暦の部分をカットして、「吾妻錦絵」と名前を新たに商品化されました。吾妻=東、つまり江戸で生まれた錦のように美しい絵、という意味です。なんでも上方のマネばかりしていた江戸っ子が、自慢げに鼻を高くしているのが目に浮かぶような名前です。吾妻錦絵のジャンルは、それから役者絵、美人画、春画、風景画とどんどん広がっていくことになります。世界に誇る日本の錦絵は、最初から誰かが高尚な目的で考えたのではありません。ただおもしろいと言われたいがために、庶民から大名までが真剣に遊んだ結果、ほとんど偶然に生み出されたものだったのです。

たかがカレンダーでも、ただ贈るのではつまらない。発想力で勝負し、とことんデザインにこだわる。「目的なんて細けぇことは置いといて、おもしれぇなら本気になったっていいじゃねぇか。」錦絵が生まれる背景には、そんな自由で豊かな時代の精神が働いていたのでした。

文/笛木あみ

「江戸時代の趣味娯楽が生んだすごいもの」連載記事一覧
・第2回 江戸のやりすぎ? 園芸ブーム! 変化朝顔のディープな世界
・第3回 人の魂生き写し?! 効率化とは無縁の江戸時代「からくり人形」の世界
・番外編 もはや美術工芸品! 和時計に秘められた江戸時代の知られざる超絶技巧

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