近代日本画の巨匠たちの物語!
明治維新による幕藩体制の崩壊と、それに伴う近代的国家体制の樹立という大変革がもたらされた明治時代。このとき、日本の美術界もまた西洋美術という、それまで日本が持っていた美意識とは正反対のものに出合います。それは、6世紀の仏教伝来以来の大きな衝撃をもたらすことになるのです。こうした時代の激流の中、日本古来の伝統技法と様式を用いながらも、まったく新しい日本絵画の創出をめざし、筆を揮った、横山大観や竹内栖鳳、速水御舟といった近代日本画の巨匠たちが登場しました。今回は、近代日本画の魅力と巨匠たちの人生に迫ります。
伝統の技と斬新なモチーフをミックス!
『竹内栖鳳』
竹内栖鳳 『金獅』 四曲一隻 紙本着色 203.0×261.7㎝ 明治34(1901)年ごろ 株式会社ボークス蔵
明治33(1900)年、栖鳳はパリ万国博覧会の視察のために渡欧。各地の美術館を視察するとともに、ロンドンなどの動物園を訪れて、動物の写生を熱心に行ったという。京都の四条派に学んだ栖鳳は、このときの体験を踏まえて江戸時代からの様式や技法を駆使して新たな日本画の領域を開拓した。
京都画壇で活躍し指導的役割を果たす
元治元(1864)年に京都に生まれた栖鳳は、江戸時代からの伝統的な絵画様式を伝える四条派の絵師・幸野楳嶺(こうのばいれい)門下生となり、本格的な日本画家となる。各種展覧会で受賞を重ねるなど、京都画壇の花形として活躍するとともに、西洋的な写実表現を取り入れた新たな画風を確立するなど、後進に多大なる影響を与え、近代日本画の発展に大きく貢献した。
近代日本画の牽引者
『横山大観』
横山大観 『龍躍る』 一幅 紙本墨画金彩 81.0×119.5㎝ 昭和15(1940)年 足立美術館蔵
水墨画の筆法や彩色画におけるさまざまな工夫、また構図の妙や主題の選択などに自在な才能を見せた横山大観。中でも大正から昭和にかけて精魂を傾け描いたのが富士山だった。大観は、富士に『日本の魂』そのものを見ていたといい、題材としても象徴的存在と捉えていた。
「名は体を表す」を地でいった情熱の人
明治元(1868)年、水戸藩士の子として生まれた横山大観は、生涯に亘って師と仰ぐこととなる岡倉天心が設立に関わった東京美術学校に第一期生として入学。「新しい日本画の確立を目指す」という意気込をもって画技に邁進し、天心への忠誠を貫きながら、天心亡き後に日本美術院を再興。『大観』の名のとおりに大らかな画風と人間的な度量の大きさで、日本画壇に君臨した。
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近代日本画のイノベーター
『速水御舟』
速水御舟 『炎舞』 1面絹本彩色 120.3×53.8㎝ 大正14(1925)年 山種美術館蔵 重要文化財
さまざまな画風にチャレンジした速水御舟が、31歳のときに描いた最高峰の一作。火焔の表現には古典的な仏画のスタイルが踏襲されているが、その頂点で渦巻く炎と蛾の描き方には、御舟の新たな表現へのチャレンジが見て取れる。背景の闇夜は「もう一度描けと言われても、二度とは出せない色」と作家自らが語るほどに特別なもの。
新しい日本画に挑戦し続けた天才絵師
明治27(1894)年に東京で生まれた速水御舟は、やまと絵系の画家に弟子入りし、15歳で既に画家としてデビューするという天才肌の絵師として知られる。写実的表現の追求にはじまり、やがて日本画の装飾性や様式美に眼をむけながら、終生に亘り自らの画技を新たな境地へ導こうとチャレンジし続けた孤高の天才。数多の名作を遺し、腸チフスによって40歳という若さで早世した。
美しい日本画の線を探求した!
『小林古径』
小林古径 『猫』 1面 紙本彩色 81.8×50.7㎝ 昭和21(1946)年 山種美術館蔵
自宅に犬や猫を飼うほどに動物好きだったという古径は、庭で遊ぶ愛犬や愛猫の姿を描いた作品をいくつか遺している。本作は、エジプト神話に登場する猫の顔を持つバステト神を思わせるような神々しさが感じられる。実は古径が大正11年から1年間に亘って渡欧した際にはエジプトも訪れていることから、あるいはそのことを意識して描いたのかもしれない。
古典を基礎としながら新様式を確立
明治16(1883)年、新潟県上越市に生まれた小林古径は16歳で上京し梶田半古に師事。写生を基本としながら、やまと絵や琳派、さらには日本や中国の古典を徹底的に研究した上で、近代的な感覚を画面に投影するという『新古典主義』を確立。近代日本美術史にひとつの頂点を築いた。
華麗な風俗画で時代の寵児に!
『鏑木清方』
鏑木清方 『一葉女史の墓』 一幅 絹本着色 128.7×71.0㎝ 明治35(1902)年 鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵
新聞業を営む家に生まれたこともあり、幼少のころより小説家や挿絵画家の出入りする環境で育った清方。当時から文芸に親しみ、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』や、樋口一葉の『たけくらべ』などを愛読して育ったという。本作は、一葉が眠る樋口家の墓を訪ねた際の素描を基に、『たけくらべ』に登場する美登利の姿を描いたもの。
西の松園と並び称された東の清方
明治11(1878)年、新聞社を営む家に生まれた鏑木清方は、生家の影響もあって13歳で挿絵画家に入門。20代の半ばには超売れっ子の挿絵画家となって活躍した。また一方で、「消えゆく江戸、明治の郷愁」をテーマに日本画の制作にも本腰を入れ、優れた風俗画や美人画を多数描き、日本画壇にその足跡を刻むこととなった。
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格調と品格の美人画絵師
『上村松園』
上村松園 『序の舞』 一幅 絹本着色 233.0×141.3㎝ 昭和11(1936)年 東京藝術大学大学美術館蔵 重要文化財
美人画の巨匠として名を馳せた上村松園の代表作。松園の美人画には、京に暮らす何気ない女性の姿や、古典の登場人物など、さまざまな題材が見られるが、謡曲に取材したものも数多く残されている。謡曲には、人間の歩むべき正しい道が謡われていると考えた松園は、この謡曲を題材として「女性のうちにひそむ強い意志を表現したかった」と自ら語っている。
女性初の文化勲章受賞者でもあった
明治8(1875)年に京都で生まれた上村松園は、京都府画学校に入学し絵の道を志す。やがて竹内栖鳳に師事し、その類い稀なる才能を開花させた。町方の女性や謡曲、王朝美人などを主題にした美人画を数多く描いたことで知られる。その生涯をかけて理想の女性像を追い求めた孤高の絵師といえる。
朝日新聞社/アマナイメージズ