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2017.08.14

ジャコメッティと須田国太郎の『犬』を比べてみました!

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犬は人間にとって最も身近な生き物の一種ではないでしょうか。古来から神聖な動物として扱われた地域があったこと、美術作品にモデルとして登場していることからも人間との距離の近さが感じられます。

ジャコメッティも須田国太郎も犬を題材に作品を造った芸術家の一人。しかし、二人の作品を比べてみると、全く違う視点で犬を捉え、作品にしていることがわかります。この違いについて藤原えりみさん(東京藝術大学美術研究科修士課程修了、専攻 美学。女子美術大学・國學院大學非常勤講師)が考察します。
スクリーンショット 2017-08-09 16.11.37左 アルベルト・ジャコメッティ 『犬』 1951年 ブロンズ マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス Archives Fondation Maeght,Saint-Paul de Vence (France) 右 須田国太郎 『犬』 1950年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館蔵 Photo MOMAT DNPartcom

犬に託されたもの

文 藤原えりみ

犬や猫の写真集の人気は高いが、SNSの浸透と動画再生技術の向上により、今や動物を撮影した動画も身近なものとなっているだろう。TwitterやFacebookには、心和む行動や愛くるしい振る舞いで人間様を悩殺する仔猫や子犬など、哺乳類の子供の動画が日々刻々とupされている。これらの動物動画は、実際の飼育が難しい人にとって、実に有効なヴァーチャル・ペット・ライフの体験装置なのかもしれない。

犬や猫は古代エジプトでは神聖な動物として扱われ、壁画や彫刻にも登場する。紀元前に制作されたものとは思えないリアルな描写と、品格溢れるキリッとしたたたずまいが印象的だ。以来、時代や地域、宗教によって犬や猫が忌み嫌われることもあったが、それも人間の生活と密接に関わる動物だからこその忌避や嫌悪であったことだろう。

それでも犬や猫が、今で言う美術の対象として、単独で作品化されることはそう多くはない。日本では、明恵(みょうえ)上人が愛玩していたという木彫りの子犬(伝快慶作)、円山応挙(まるやまおうきょ)や長澤蘆雪(ながさわろせつ)の可愛らしい子犬、歌川国芳の猫の判じ物、竹内栖鳳や橋本関雪(はしものかんせつ)の作例などが思い浮かぶが、いずれも人とともに生きる対象として、客観的な観察に基づいた造形が成されている。

それらの作例を思い浮かべつつ、ジャコメッティの犬の作品と向き合うと、何かしら心がざわつくような感触に襲われる。

DMA-P9_比べて1「ある日、ヴァンヴ通りの建物の壁に沿って、雨の中をうつむいて歩いていて、少し哀しい気持ちだった。そして僕はそのとき自分を犬のようだと感じたんだ。だから僕はこの彫刻を造った」(ジャコメッティの言葉)。瘦せ細りうなだれつつも、犬は歩みを止めない。その姿には、「試みること。それがすべてだ。」と語るジャコメッティの生き方が反映されているかのようだ。

DMA-P9_比べて2「人家は地面にへたばって/おほきな蜘蛛のやうに眠ってゐる。さびしいまつ暗な自然の中で動物は恐れにふるへなにかの悪魔におびやかされかなしく青ざめて吠えてゐます。」(萩原朔太郎『青猫』より)。夜の闇と遠くの人家の描写はこの絵の背景を彷彿させるのだが、須田の犬には不安も恐れも怯えもなく、ただひたすら強靭な野生の矜持を突きつけてくる。

ジャコメッティは、ある日見かけた犬の姿に自らを重ねたという。ふと脳裏を過ぎるのは萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)の詩。「いつも、/なぜおれはこれなんだ。/犬よ。/青白いふしあはせの犬よ。」(『月に吠える』より)。だが、どこか通じているようで何かが決定的に違う。そしてそこに須田国太郎の描く犬を加えてみると、朔太郎の暗い情念や情緒はものの見事に吹っ飛ばされてしまう気がする。

片や打ちひしがれ、片や意志をもっているかのような犬の姿なのだが、不安や恐れという否定的情感はない。「存在の深い孤独」あるいは作者の「孤高の精神の表出」としか言いようのない存在感。だが、それも深読みだろうか……。

国立新美術館で観られます!
開館10周年「ジャコメッティ展」開催中〜9月4日

10月14日〜12月24日 豊田市美術館(愛知)へ巡回

公式サイト