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2023.05.24

超絶技巧だけじゃない! 明治美術の和と洋の「ハイブリッド」はこうして誕生した

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いつの時代も転換期には混乱が渦巻きます。現在でも、ITの進化により、DXにメタバース、NFTなど、次々と新しい言葉が誕生し、価値観も大きく変動しています。かつて江戸から明治への激動の時代にも、劇的な変化が起こりました。それは政治や人々の生活だけでなく、芸術文化の面にも大きな影響を与え、今では当たり前に使われている「美術」や「版画」、「彫刻」といった言葉も、この時に生まれました。「美術」という概念も、明治に入って西洋から輸入されたものだったのです。

大倉孫兵衛旧蔵錦絵画帖 大倉孫兵衛(おおくらまごべえ) 明治10年代 木版多色摺 折帖 神奈川県立歴史博物館寄託

明治初期に造られた様々な造形を一堂に

そんな混乱の最中に、西洋に追いつけと造形の新技術を学び、いかにして後世に伝えるかを模索した人々がいました。まさに美術の夜明けと呼ぶような、そんな人々の足跡を追った展覧会『近代日本の視覚開化 呼応し合う西洋と日本のイメージ』が、現在、愛知県美術館で開催中です。驚くのは点数の多さもさることながら、ジャンル分け出来ないほどの展示内容の幅広さです。絵画や彫刻にとどまらず、写真や出版技術や教科書類、輸出工芸に至るまで、明治の混沌を表現した展示となっているのです。いや展覧会というより、博覧会といった様相です。今回の展覧会の多様な世界観を「ハイブリッド」と訳し、難しいテーマに挑戦した学芸員の中野悠さんに、「明治美術とは?」について伺ってきました。

そういえば明治の美術って、超絶技巧は比較的取り上げられるけど、それ以外はほとんど知らなかったなあ。

 阿羅漢図 二世五姓田芳柳(にせいごせだほうりゅう) 明治後期 絹本着色 神奈川県立歴史博物館寄託

明治の美術とは何ぞや?という大テーマに挑む

―ものすごい展示数にまずは驚かされますが、今回どのくらいの点数を展示されているんでしょうか。

中野:実は細かく数えることを半ば諦めてしまったのですが、書籍や写真も1点ずつ数えていくと300点は越えています。今回、私たちは「美術」というものが何を指すのか、まだ日本で定まっていない時期でもあることを念頭において、絵画も彫刻も、工芸も写真も全部含めた造形表現を「明治のヴィジュアル」として捉えました。そういう意味では、今まで目にする機会が少なかったかもしれない明治初期の造形の実像を紹介することができたと思っています。作品の半分以上は、神奈川県立歴史博物館にお借りしたのですが、せっかく愛知で開催するならと、輸出工芸や明治初期に発展した写真や印刷技術など、愛知における明治の造形活動も調べ始めるうちに、このような展示数となってしまいました。鑑賞されたお客様からは「お腹いっぱい」「胸やけ」「二日酔い」という今までにない感想を頂いています(笑)。

―まさに私もそれを感じました(笑)。ただ、じっくり見ていくと、いろいろな着眼点があり、一口に明治といっても、あらゆる面で、試行錯誤を繰り返した時代だったんだな~というのが伝わり、明治の先入観が変わりました。

中野:そういっていただけるとすごく嬉しいです。

和服姿の米婦人 矢内舎柳村(やうちしゃりゅうそん) 明治時代 絹本着色 神奈川県立歴史博物館

押絵「和装西洋人」 明治時代 絹本着色 クリスチャン・ポラックコレクション

輸出工芸における横浜と名古屋の相関関係とは

―開港地となった神奈川県・横浜と陶磁器の製造地として発展した愛知・名古屋では、同じ明治時代でも、違いがあったのでしょうか。

中野:一村から国際貿易都市に一転して、一気に西洋化の影響を受けたのが横浜でした。造形活動に関しても、五姓田(ごせだ)派の工房は、西洋絵画の陰影やプロポーションを模して描いた横浜絵の制作で栄えました。名古屋はというと明治の新制度や殖産興業路線を受け入れながらも、江戸時代から継続する部分も多かったようです。明治後期でも伝統絵画の各流派の活動が活発でした。同時に陶磁器や七宝が産業として発展し、横浜港を経由して海外へ輸出され、外貨獲得に貢献しました。殖産興業政策の中で、工芸は美術から引き離されたり、一緒にされたりしますが、実際には、影響を与えあっていたんだと思います。

花唐草文七宝花瓶 開洋社 明治時代 磁胎有線七宝 名古屋市博物館

国芳の弟子が天皇家の御用絵師に。時代の変遷から見えてくる明治の美術

―五姓田派というのも初めて聞いたのですが、それほど一般的に知られていない初代五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)が、明治天皇の肖像画を描いて、天皇家御用達の絵師になるんですよね。もともと歌川国芳の元にいた浮世絵師だった初代芳柳が、政府のお抱えになるというのも時代の変遷の面白いところですね。

中野:初代芳柳は、幕末頃から横浜居留地内でいわゆる横浜絵を制作販売していたようです。伝統絵画技法を基礎としていた初代芳柳が、息子の義松に西洋絵画技法を学ばせたのは、需要があると見込んでのことかもしれません。次第に弟子が増え、五姓田派が形成され、明治6(1873)年に横浜から東京浅草へ拠点を移すと、油絵見世物興行を開き、自分たちが有力な洋画家集団だと宣伝しました。明治7(1874)年に宮内省の命によって明治天皇の肖像を描いたことで、さらに名声が高まりました。二代五姓田芳柳は、愛知県令(知事)の肖像画も初代から四代まで描いています。

―時流に乗せて、商売として確立させていったんですね。技法も西洋画をいち早く取り入れたのだと思うのですが、タッチの違いに驚かされます。この観音像もパロディかと思うほどデフォルメされている感じもしますね。浮世絵と西洋絵画の技法がミックスされると、まるで現代のポップアートのようになるのが不思議です。

 観音図 松本民治(まつもとたみじ) 明治29年 油彩、絹 個人蔵

和と洋の混交は天才たちのたゆまない努力によって作り上げられた

―彼らはどのようにして西洋絵画を学んだのですか。

中野:初代五姓田芳柳の息子の五姓田義松(ごせだよしまつ)は、10歳で外国人報道画家のチャールズ・ワーグマンに学びました。同時期には高橋由一(たかはしゆいち)もいます。この時期に西洋絵画技法を学ぶ人たちは、ワーグマンに師事していたと伝わる人が多いようです。画材の入手も困難だった明治初頭において、本格的な洋画表現に挑戦することは容易ではなかったでしょうし、とても苦労したと思います。義松は水彩絵の具を独自に作るなど工夫に努めていました。五姓田派の中には画家として活躍する山本芳翠(やまもとほうすい)や平木政次(ひらきまさじ)などもいましたが、みな、試行錯誤を繰り返しながら、新しい技法を身につけていったように思います。

一義松にしても高橋由一にしても、いろいろなタッチの絵を描いていて驚きました。義松にいたってはまるで北斎のようですね。

中野:義松は本人の才能もあったかもしれませんが、鉛筆画から始まり、水彩画、油彩画というように順序を経て学んでいけたところも大きかったと思います。初期の頃の作品を見ると、鉛筆も筆のような線になっているのですが、だんだんハッチング(細かい平行線を引く)を用いるようになっていくんです。とにかく手を動かして、ものすごい量を描いた人なんだろうなと思いますが、その発展の過程も見ていただけます。

老母図 五姓田義松 明治8年 油彩、紙、神奈川県立歴史博物館 

井田譲像 初代五姓田芳柳 制作年不詳 絹本着色 神奈川県立歴史博物館

 

甲冑図 高橋由一 明治10年 油彩、麻布 靖國神社遊就館

四つの章が響き合って生み出された日本の造形の礎

―今回展示が四つの章に分かれていますが、その狙いはどこにあるのでしょうか。

中野:ジャンルとは別のまとまりを作って構成しています。第一章は西洋由来の技術の実践例として絵画、写真を集めました。第二章は、彼らがどういう環境で学んだか、また教えていったかという教育の側面から紹介しています。第三章は国内の普及の例で、印刷物や出版を通して社会にどう広がり、受け入れられていったか。また印刷の技術革新にも触れています。第四章は、西洋に対して、どういうビジュアルで日本らしさを打ち出し、示していこうとしたか。特にここでは、神奈川から愛知ということを意識して、陶磁器や七宝など輸出工芸を数多く展示しています。

明治天皇写真 明治前期 鶏卵紙 クリスチャン・ポラックコレクション

昭憲皇太后肖像写真 明治前期 鶏卵紙 クリスチャン・ポラックコレクション

―美術展で絵画や彫刻と、陶磁器や寄木細工などの工芸品、さらには博物館的な産業技術であった印刷や出版の歴史などが並べられることってあまりないですよね。それも新鮮でした。

中野:絵画や彫刻、工芸や印刷物といった特定のジャンルに絞って深掘りする方法もありますが、それらのジャンルを含んだ、より広い範囲での明治の「造形」として捉えることで見えてくるものもあると考えました。宮川香山の造形は彫刻的というより、絵画を立体化させた感じです。そういったものを同じ会場で見ていただくことで、新たな発見もあると思います。

高浮彫蛙武者合戦花瓶 宮川香山(初代)(みやがわこうざん) 明治前期 陶磁器 神奈川県立歴史博物館寄託 田邊哲人コレクション

―教育という面でも明治は複雑な時代だったんですね。美術という定義が定まらないまま学校教育がスタートしたのもある種の悲劇だったように思います。

中野:この時代、急速に西洋化が推し進められ、その反動で国粋主義が台頭してきましたよね。明治9(1874)年に開校した工部美術学校が西洋美術教育を行ったのに対して、明治20(1887)年の東京美術学校の設立時には、西洋絵画や塑像彫刻が排除され、日本の伝統技術のみでカリキュラムが構成されていました。これは一例で、当時の社会状況や人々の思想が絡み、紆余曲折を経て、日本の「美術」がつくりあげられていった。そういったことを知っていただく機会にもなればと思います。

東京美術学校は後に西洋美術も取り入れ、「東京藝術大学」となって現在でも芸術家の卵たちを育んでいます。
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陽の目を浴びてこなかった明治の美術の夜明けを知ろう!

―もともと愛知県美術館は明治期の収蔵は少ないんですよね。今回、このような企画をされてどうでしたか。

中野:愛知県美術館は20世紀以降のコレクションを多く集めているので、所蔵も少ないですし、明治時代に焦点をあてた展示自体もやっていないので、初めての試みだったんです。でも調査していくと、明治時代に活躍した写真師・宮下欽(みやしたきん)による写真が見つかりました。彼は、写真や油彩画、石版印刷などの技術を得ていた横山松三郎(よこやま まつさぶろう)に師事しているんです。その後、名古屋で写真館を開き、名古屋の写真業の草分けの一人と言える存在となりました。また、東京に開校した工部美術学校出身の小栗令裕(おぐりれいゆう)や内藤陽三(ないとうようぞう)、寺内信一(てらうちしんいち)らが、瀬戸や常滑の美術学校や研究所で教え、愛知の製陶技術の発展に貢献しました。地域や業界を飛び越えて、技術交流していたこともわかってもらえると思います。さらに今回、同時期に『東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密』(~5月14日終了)や静嘉堂文庫美術館の『明治美術狂騒曲』(~6月4日まで)などが開催されていることもあり、それぞれの展示を見比べていただくことで、いろいろな切り口から『明治』という時代を知ってもらえたらなと思っています。

飾棚 明治時代 寄木細工 木 金子皓彦コレクション
「胸やけ」「二日酔い」とまで言われた展覧会、とても気になります笑

取材を終えて

西洋画の技法を学ぶ絵師たちの試行錯誤は、侍の肖像画や観音像、子どもや女性像といった描写にも見て取れます。写実によって生まれた画風やモノクロからカラフルな色彩、毛筆から鉛筆へと変化したことでの苦労は計り知れません。また、輸出商からスタートした森村組と錦絵の版元だった大倉孫兵衛による製陶業の立ち上げが、世界的にも有名になったノリタケを生み出していきました。芸術と産業が相まって、日本の基盤を作っていったこと、現在のベンチャー起業の若者たちと変わらない大胆な発想で、海外へと進出したことなど、明治の人々のたゆまない努力の賜物だったことを改めて知る機会にもなりました。私たちが現在、学校で習う美術は、この明治美術の教育が原点となっていること、日本が抱えた混乱の中から生まれたものだと知ると感慨深い思いになります。明治の美術が担っていた役目は想像以上に大きなものだったように感じました。

近代日本の視覚開化 明治──呼応し合う西洋と日本のイメージ

会期:令和5(2023)年4月14日(金)~5月31日(水)
会場:愛知県美術館(愛知芸術文化センター10階)
開館時間:10:00-18:00 金曜日は20:00まで(入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日
観覧料 一般 1,500(1,300)円/高校・大学生 1,200(1,000)円/中学生以下無料 ※( )内は20名以上の団体料金
主催:愛知県美術館、メ~テレ
特別協力:神奈川県立歴史博物館
後援:明治美術学会

公式ホームページ

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旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。