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大人だけが知っている!「静寂の京都」

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2021.03.15

人の可能性は無限!?虹の絵師・山本良比古の圧倒的な「生」の世界観にハマる!

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「人の可能性は無限」
そんな励ましの言葉も、通用しないことがある。自分はどうしようもなくダメ人間なんだと自覚したとき。今度こそはと願っても、やはり結果が変わらないとき。

頭では理解できても、心が納得しない。今、諦めたらそこで終わりなんて。分かっていても、無意識に幾つもの言い訳を用意して逃げ道を探す。

どうして、人は「可能性」を信じきれないのだろう。

それは、「可能性」という概念そのものが不確定だからだ。努力したってダメかもしれない。続けたって変わらないかもしれない。そんなネガティブな結果だけを考えるから、つい立ち止まってしまう。

前へと歩き続けるためには。
逆に、ネガティブな結果を否定できる事実があればいい。論より証拠。そんな事実を目の当たりにすれば、ひょっとしたら、自分のことを信じることができるかも。

さて、ここで2つの絵をご紹介しよう。

ため息が出るほどの緻密さ。荘厳な建築様式をそのまま点描画で表したのは、見事としか言いようがない。今しもゴーンと鐘が鳴り響きそうなイタリアミラノのドゥオモ。

山本良比古「イタリア・ミラノ・ドゥオモ聖堂」(1982年)

かと思えば、今度は溢れ出る色とりどりの喜び。打ち上がる花火のインパクトとダイナミックな鵜飼の様子を描いた作品はとても温かく、ときに力強さも感じる。

山本良比古「犬山の鵜飼」(1986年)

間近で見ると盛り上がりが一目瞭然の点描画

これらの作品を描いた人は、なんと同一人物。
画家「山本良比古(やまもとよしひこ)」氏(享年73)である。

彼の世界観は独特だ。混色せずに原色のみで、それも点描画での表現はまさにオンリーワン。「虹の絵師」や「昭和の北斎」との評価も頷ける。

ただ、驚くのは、作品だけではない。
彼が、知的障害、難聴、言語障害を抱えていたという事実。
恩師より画才を見出され、3つの苦難と向き合って、見事にその才能を開花させた人物だからだ。

今回は、障害を持ちながら作品を世に送り出した、山本良比古氏の生き様を取り上げたい。その圧倒的な世界観を確立するまでの長い道のり。恩師との二人三脚で乗り越えた「事実」を、作品と共に伝えていく。

彼と、彼を取り巻く支援の輪。
それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、山本良比古氏の遺作「皇居二重橋」。残念ながら未完です
※記事中の絵画は、すべて「社会福祉法人あいち清光会 サンフレンド」の所蔵。承諾を得て、撮影、使用しています

サヴァン症候群でも努力は必要?

「最初はこんな絵。空が真っ暗でしょ」

山本良比古「名古屋城」 中学1年生のときの作品

「イジメられててね。心象表現というか。絵って(感情が)そのまま出ますよね。空も真っ暗だったり、人を描かなかったり。それが段々描いていくうちに、どんどん人も描くようになったしね」

じつに、私は思いっきり勘違いをしていたようだ。
山本良比古氏は、俗にいう「サヴァン症候群」。昭和23(1948)年に名古屋市西区に生まれるも、彼は生まれながらの「脳水腫」を患っていた。重度の知的障害、難聴、言語障害と三重の障害だったという。

しかし、そんな障害を持ちながら、見事な絵画を描き上げる。事前にリサーチすると、特異才能者ともいわれる「サヴァン症候群」だとの紹介も。てっきり、努力せずとも溢れ出る才能だけで描くことができたと、勝手に思い込んでいた。だから、良比古氏の初期の作品を拝見したときに受けた衝撃は、全くもって予想外。構図や色遣いなど、作風自体が、今とは全く異なるのだから。

「教えたというよりは、とにかく色んな事を経験させる。そうすると、どんどん絵が進化していく」

こう話されるのは、愛知県小牧市にある「社会福祉法人あいち清光会 サンフレンド」の理事長で施設長の川崎純夫氏。このサンフレンドは、山本良比古氏が生前を過ごした障害者施設でもある。

「社会福祉法人あいち清光会 サンフレンド」理事長/施設長の川崎純夫氏

「うちのお袋が生活指導みたいなことをしてて。トイレ掃除だとか。お袋は結構厳しくてね、生活面をきちっとする。それが段々絵にも表れてきたのかもしれない」

じつは、良比古氏は、絵を描くのがそこまで好きではないという。一方で、大の旅行好き。そういえば、同じような境遇の人を思い出した。障害があって、旅行が好きで、絵を描く。「裸の大将」で有名な山下清氏だ。

「山下清さんは、(障害者といっても)IQが60を超えていてものすごく高い。だから自分で判断して放浪して、ここを描こうかなということができる。けれど、彼(良比古氏)は知能がそこまで高くないので、自分でどこを描いていいかわからない。だから、ここを描こうね、どれくらいのキャンバスでと指示して」

今でこそ性能の高いデジタルカメラで、撮影した景色を即時に確認できる。だが、当時はフィルムカメラ。現像してみなければ分からない。そこで、まずは描く風景を確定し、現場でその景色を目に焼き付けさせる。

「どこからどこまで描くというのは一応言うんだけど、わかんないから、紙に穴をあけて、ファインダーみたいにして、ここからここまで描くんだと具体的に見せていた」

ただ、残念ながら写生の時間が少ない場合も。というのも、先ほどご紹介したイタリアミラノのドゥオモもそうだが、彼の作品には、他にも多くの世界遺産が描かれている。焼失したパリのノートルダム寺院もその1つ。それは、現地である「世界」へと飛び出さなければならないことを意味する。

山本良比古「ノートルダム寺院」(2000年)

もちろん、単独での海外旅行など、経済的には非常に難しい状況。そのため、一般の団体旅行に参加して、その自由時間をフルで使う。だから、優雅に風景を楽しんでというワケにもいかないのだという。

「ここで30分休憩ですよっていうときに、パーッと場所を見つけて、スケッチブック持って、あらかたスケッチをササッと済ませる。で、ホテルへ帰ってきて描き込んで。(日本に)帰ってきてから写真を見て確認して描く」

ちなみに、良比古氏は混色ができない。そのため、スケッチの中に、原色も細かく覚え書きしていく。字自体は書けないのだが、色を表す漢字は、形で覚えているのだとか。

山本良比古氏のスケッチ

スケッチの中に、部分的に配色が書き込まれている

一体、良比古氏の目には、様々な景色がどのように映っていたのだろうか。

彼の目を通して見ることのできる世界。
実際に絵を拝見させて頂いたが、ただ綺麗という絵ではない。なんというか、純粋に「驚き」や「嬉しさ」のような類の感情が伝わってくる。それは、未知との出会いに対する、彼のピュアな気持ちなのだと思う。

だからだろう。川崎純夫氏はこんなことを呟いた。
「面白いのは、写真を撮ってきてこれを描けって言っても描けないんです。その場の雰囲気を見てこないと描けない」

絵を描くというよりは、どこかに行けるから絵を描く。
卵が先か鶏が先かの世界だが。彼を突き動かしていたモチベーションは、新しい場所への憧憬なのかもしれない。

熱すぎる恩師「川崎昂」の情熱

山本良比古氏には恩師がいる。
彼を見出したのは、当時、名古屋市立菊井中学校の特殊学級の担任であった「川崎昂」氏。

左側:ファインダーから覗く若き日の山本良比古氏。右側:川崎昂氏

じつは、今回お話をうかがった純夫氏は、その川崎昂氏の息子となる。彼も、父親と同じく、障害者支援の道を歩まれている。

「もともと、親父は特殊学級の教員だったんですけれども。愛知県で初めて特殊学級を始めたんですね」

現在の特殊学級の教育は学習指導要綱に基づいて行われるが、当時はそのような指針など何もない状態。偶然にも、川崎昂氏が美術の教員だったこともあり、知的障害を持つ方にどのような教育をすべきかと、模索しながらの日々だったという。

「昭和27(1952)年のことなんですけど。やっぱり人間って得意、不得意があって。誰しも皆が、絵が上手だというワケではないので。どうしたらいいのかなと。結局、版画をやることにしたんですね。絵がうまい人は絵師、手が器用な人は彫師、力の強い人は刷り師と、分担ができるんです」

未だ、福祉や障害を持つ人に対して理解のない時代だったと、純夫氏は話す。現在では欠かせない「作業所」などもない。しかし、彼らには彼らなりの生活がある。どのような時代でも、就職して生きていかねばならないのだ。

その一歩として、まずは障害を持つ人への理解を広げる必要がある。そのため、川崎昂氏は、彼らの特性をいかして作られた版画を何枚も刷り、お店などに飾らしてもらったのだとか。版画を通して啓蒙する。そんな地道な活動を続けたという。

良比古氏1人の手で制作された版画

「山本良比古は重度の障害があって、IQが39くらいですね。当時の特殊学級は、IQが50以上ないと入れないんですよ。だから、『教育の対象外で、とても入れません』とお母さんに断ってたんです」

「就学免除」とは、体のよい言葉で、実際は教育の切り捨てだった。昭和54(1979)年の養護学校の義務化で、ようやく、どんなに障害が重くても教育を受ける権利があると現場が動くことに。それまでは、日本にも、そんな暗黒の時代が続いていたのだ。

「良比古くんはなんべんも断られたけど。お母さんが『小さい頃からいじめられて、行くところがないから』と懇願したもんだから。見たところ大人しそうだったし、なんとか見れるかなと親父が思っちゃって」

耳が聞こえないために話せない。そんな重度の障害を持つ良比古氏。いくら教室の隅にいさせるだけといっても、さすがに何もしないままというワケにはいかない。

「なんかやらせなと思って、絵日記を交換するんです。昨日あったことを絵に描きなさいって言ったら、ちょっと見たら、絵が普通の人と違うなと(親父が)気が付いて。色んな公募展に応募したら、特選を取って。彼も一気に自信をつけて。一気に絵を描くようになってきた。どんどん育てていくうちに、上手になってきた」

山本良比古氏の初期の作品

こうして、川崎昂氏との二人三脚で、良比古氏の絵画は世間の注目を集める。数々の賞を受賞し、海外などのメディアにも取り上げられた。昂氏も、各地で講演を行うことに。

「うちの親父の講演のテーマというのが、障害が重いから、この人は何もできないんだと決めつけたら、そこで成長は止まってしまう。で、良比古くんも、この子は教育の対象外だからと断っていたら、こういうふうに出てこなかっただろうと。やはり、どんなに障害が重くても、1つのきっかけですごく才能が出てくる可能性があるんだということを伝えたかった」

障害を持つ人のご家族に勇気を与えるため、必死で講演を行っていたという昂氏。しかし、一方で、それは「キレイごと」だと反発を受ける。というのも、当時は、できるだけ障害の持つ人の存在を隠そうとしていた時代。兄妹の縁談に影響を与えると、真逆の考え方を持つ人が多かったとか。

「うちの親父は、親たちに『親が動かな、誰が動くんだ』と言うんだけど。親御さんたちは、そんなことせんでええと。兄妹の縁談に響くからと。川崎さんは障害の持った子の親じゃないから、そんな勝手なことをいうんだという話になって」

確かに、当事者からすれば、川崎昂氏は赤の他人。全くの関係ない第三者だと、そんな見られ方をしていたのだろう。

「親父はめちゃめちゃなところがあるんで。そんなこと言うんだったらと。身寄りのない障害を持つ子を、裁判して養子に入れるんですね。ほんで、俺も障害者の親だとか言って、『親の会』を作ろうと。困っている人たちの思い、親同士が助け会えるように手をつなぐ『親の会』。作ったんですね。それが今でも続いています」

「山本良比古」の人生の終焉

ここからは、良比古氏の人生を、別の角度からご紹介しよう。

先ほどご登場した、川崎昂氏の養女となった女性。彼女の名は「ノリコ」。
「良比古くんとは特殊学級の同級生で、身寄りがない。ハチャメチャな親父だったもんだから。障害があっても結婚したりだとか、そういう権利があるんだということで。良比古に誰かいないかって」

こうして、のちに2人は結婚する。
つまり、ノリコさんは純夫氏の姉で、その夫が山本良比古氏ということは…。

「だからちょっと複雑なんですけど。『ノリコ』は僕の姉になるわけですね。良比古とは、義理の兄弟になるわけで」

衝撃の事実に動揺しつつ、さらに2人の関係性にも驚いた。
「いつもけんかしてて。ノリコは気性が激しかったんで。良比古くんは怒らんよ。良比古くんはしゃべれないけど、数字が得意。ノリコは数字に弱いけど、話すことが得意。だから2人はいつも一緒だった」

晩年の山本良比古氏

結婚も果たして順調そうにみえた良比古氏だが、じつは、彼にはスランプだった時期がある。それも16、7年とその期間が長い。

「平成10(1998)年だか。スケッチしているときに、気持ち悪くなっちゃって。もう、描かんでいいよって。そこから16、7年かな。1年に1、2枚は描いていたけど。それ以上は描けなかった。その間、親父の介護をしていて」

平成17(2005)年に永眠された恩師の川崎昂氏。
亡くなる1週間前まで在宅での介護だったという。
「もう、子弟関係がすごいんで。親父が嫁とかに見てもらうよりも、よっちゃんにみてもらいたいって。もともと生活指導していたから、きちっとしていて。すごく洗濯物たたむのとか得意で。料理も最初はオムレツと焼きそばしか作れなかったけれども、最後の方は40種類くらい作れた。見よう見まねで作っちゃう。上手ですごく器用」

恩師の介護を全うし、その後の良比古氏はどうしたのか。
「ここ2、3年。急に堰を切ったように描き始めたんですよ。残っている絵を紹介して、周囲がすごいねって。それで自信がついたのか、嬉しかったのか。また描き始めようかなという思いが出て来て。これは楽しみだって、思ってた矢先に病気になっちゃって」

令和2(2020)年9月、病気のために永眠。
「ノリコが一昨年に亡くなって。あとを追うように、良比古くんも」

ちょうど亡くなる1ヵ月前まで、絵筆を握っていたのだとか。
そんな良比古氏の遺作は、冒頭のコチラの絵。未完の「皇居二重橋」。
「皇族が結構好きでね。最後に描いてた作品。途中なんですよ。水は半分描いて終わっちゃってるし。これで120号」

山本良比古「皇居二重橋」(2020年)

無念にも未完の作品となったが、純夫氏からみて後悔はない。
というのも、念願の「美術館」での展示をやり切ったからだ。

「一番嬉しかったのは、彼の花道を飾った『かわら美術館』の展示。今までずっとデパートを中心に個展をやってたんだけど。公共の美術館でやったのは、これが初めてで」

令和元(2019)年に、愛知県高浜市にある「高浜市やきものの里かわら美術館」で行われた企画展。3ヵ月間と長期にわたって開催され、入場者数も美術館始まって以来の盛況ぶりだったとか。

美術館での最初で最後の個展。
さぞや、恩師である川崎昂氏も生きていたら喜んだであろう。
「最初の頃は親父も講演で、良比古を連れてって、環境とかでこんなに成果が出るんだと。そのうちに逆転しちゃって。山本先生になっちゃって。親父があとから鞄を持ってついていくようになって。すごい笑った。『どうなるか人間わからんなって』」

障害のある方のアートと社会を繋ぐ

話題は、山本良比古氏から障害を持つ方のアートへと広がっていく。

「普通なら卒業したらそれで終わりだけど、いくとこないからってうちで預かって、段々人が増えて。で、今のこういう社会福祉施設に繋がっていくわけなんですね。最初作ったのは『ひかり学園』っていう名前で。もう50年以上経つのかな。そこから、分岐したのがこのサンフレンド」

現在、サンフレンドの理事長で施設長でもある川崎純夫氏。
精力的に多方面から、障害を持つ方と社会をアートで繋ぐ活動を推進されている。

川崎氏に、人間の持つ「可能性」についてお話をうかがった。
「褒められると、人はめちゃめちゃ変わる。うちの利用者さんもそうだけど、賞をもらったら、階段に座りながら絵を描いてる。嬉しくてね。うちの親父がよく言ってたけど、人間の可能性は無限だって。とんでもない力を発揮するって」

そんな可能性を追い求める場所として、12年前から「ふれあいアート展」を始めた。この活動が実を結び、各地方自治体や美術館も次々と企画展を開催して賛同。

平成26(2014)年には、愛知県主催の「あいちアール・ブリュット展」が開催。以降、毎年開かれ、コロナ禍においても、今年は「優秀作品特別展」として、令和3(2021)年3月16日~21日の日程で、愛知芸術文化センターにて展示される。

山本良比古「富士川遠望」(2006年)

純夫氏は、さらなる次の段階を考えている。
「ふれあいアート展をやってて、ただ賞を渡して、本人が喜んで、自信をつけてだけではダメだと、次の段階へ行こうと思って。それだけじゃなくて、さらにもっとないのかなと」

こうして生まれたのが「ふれあいアートボックス」だ。
ふれあいアート展で入選された方を中心に、彼らの作品をホームページに常時アップする。作品を見た人が使用したい場合に、申し込むことができる、そんな仕組みだ。この取り組みのスポンサーは、現在、1社を除いて全て愛知県の企業。

「ずっと引き合いがなかったんだけど、ここにきて、引き合いがすごい。色んなとこから使わせて欲しいって。ここ1、2年頃から」

なかには有名企業も。
例えば、スターバックスは、実店舗に障害を持つ人の絵を飾り始めた。実際に、サンフレンドの利用者の作品も、一宮富士店に飾ってあるという。トラックのボディに使用したいとの問い合わせも。

「今、紙のファイルを作ってて、愛知県庁の売店で売っていますよ。ふれあいアートボックスからの絵ですね。小河さんって、65歳くらいの人。温かい絵でしょ」

愛知県庁の売店で購入できる紙ファイル

それだけではない。
「『障害者の優先調達』ってご存知ですか? 障害者の作ったモノを使って応援しようというのが国の方針なんですね。だから、第2弾として、障害者の絵を名刺に載せて受注したいと。4月に人事異動があるので、これに向けて、今、準備をしているところ」

川崎昂氏の思いは、こうしてきちんと受け継がれ、新たな形へと進化している。

「障害のある人って、できないんではなくて、経験がないんですよね。自分で面白そうだからやってみようとかがあまりない。だから、とにかく陶芸とか、美術とか、音楽とかなんでも経験してみて、その中で嬉しそうな顔をするものとか、得意そうなものを見つけて、伸ばしてあげる、それがうちの親父の基本なんです。できないことをできるようにするのではなくて、できることを伸ばす。得意なことを伸ばして、才能を発揮する」

サンフレンドには、フランスの美術大学を出た職員もいるのだとか。現在、美大出身者など7名を採用しての体制。準備は万全だ。それに加えて、ようやく追い風が吹き始めた。

「SDGsの関係かな、とにかく社会貢献しようとか。誰もが取り残されない世の中にしようという感じ」

山本良比古「桜の犬山城」(2002年)

世の中が少し変わりつつある。
そんななかで、全国初の取り組みとして注目を集めているのが「アート雇用」。

自宅などでの創作活動を業務内容として、会社と雇用契約を結ぶ。週1回程度報告するという変則的な在宅勤務の雇用形態だ。今でいうテレワークの形に近いかもしれない。

「企業の所属として採用して絵を描いてもらって、その絵を会社の支店に飾ったり、パンフレットに載せる、名刺に載せるとか。専属画家みたいな感じ。企業は企業で、その人を採用することによって、障害者雇用を満たすし、本人たちも家にいながら絵を描いて給料をもらう。両方がウィンウィンです」

現在は13人が採用されているという。
「ネッツトヨタ」や、全国展開している中古車の「ネクステージ」など、有名企業が名を連ねる。「朝日インテック」にも4月から1名の採用が決まったという。

最後に、川崎純夫氏に今後の目標を訊いた。
「障害者の人の常設の美術館を作ろうと思って。今、考えているんですけど。常設の美術館は全国に7ヵ所くらいあるんだけど、愛知県にはないんで。なんとか作りたいんですよ、次の課題というか目標」

未だ、志は半ば。
やるべきことがたくさんある。
そんな言葉が、川崎純夫氏の表情からしっかりと伝わってきた。

取材を終えて。
今回のテーマについてじっくりと考えてみた。

「アール・ブリュット」という言葉がある。
フランス語で、「生(き)の芸術」という意味だとか。
障害のある人などによる、伝統や教育、流行に左右されない内側から湧き上がる独自の表現による芸術のことを指す。

まさしく、山本良比古氏の絵を見ると、「生」を感じざるを得ない。それは、色遣いがビビットで、点描画でと、そんな小手先の話をしているのではない。絵全体から伝わる、匂い立つほどの「生きる」という感覚。

そんな表現を可能にしたのは、彼自身の努力ももちろんだが。川崎昂氏をはじめ、多くの人の支援があったからだと思う。どのような環境であっても、生きることが素晴らしい。この気持ちがなければ、良比古氏の絵は生まれてこなかっただろう。

今まさに、そんな思いを1人でも多くの人が持てるようにと。
様々な方が「自分ではない」何かに向かって、活動していることを知った。

自分がいて、他人がいて。
だから、人の可能性は無限なのだ。

いつもながら、取材を終えて、こう思う。
世の中、まだまだ捨てたもんじゃないなと。

基本情報

名称:社会福祉法人あいち清光会 サンフレンド
場所:愛知県小牧市大字大山字岩次208-3
公式webサイト:http://www.aichi-seikokai.or.jp/yama/index.html

名称:あいちアール・ブリュット 優秀作品特別展
日程:2021年3月16日~21日
場所:愛知芸術文化センター地下2階・12階
公式webサイト: https://www.aac.pref.aichi.jp/search-event/exhibition.php?no=4220200000000174