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2017.12.12

国宝 法隆寺 百済観音とは? 那智瀧図とは?

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。2017年は「国宝」という言葉が誕生してから120年。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

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各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は流麗典雅な飛鳥仏、「百済観音」と神が宿る巨大な滝、「那智瀧図」です。

八頭身の美仏 法隆寺 「百済観音」

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2メートルを超えるスラリとした長身の体軀に面長の小さな尊顔をいただき、ミステリアスな微笑みを浮かべる「百済観音」。エキゾチックな雰囲気をまとい、八頭身はあろうかというスリムなその肢体は、今まさに天界から地上に舞い降りてきたかのように軽やかです。

1951年(昭和26)、文化財保護法の改正により、国宝の見直しが図られました。その際、「百済観音」は飛鳥時代を代表する仏像として、広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」などとともに、初の「新国宝」に指定。名実ともに国宝中の国宝といえる仏像です。

現在は1998年に完成した法隆寺の大宝蔵院に安置されている百済観音ですが、いつから法隆寺にあったのか、またなぜ法隆寺に伝わるのか、その来歴は謎に包まれています。

法隆寺関連の記録にはじめて登場するのは、元禄11年(1698)のこと。記録には、4~7世紀に朝鮮半島にあった国、百済から伝来した無量の功徳と知恵を蔵する虚空蔵菩薩像とあります。しかし明治時代後半、法隆寺の土蔵から観音であることを意味する化仏(化身)が刻まれた宝冠が発見され、観音であることが確定しました。

また、現在では百済からの渡来仏という伝来も疑問視されています。百済観音は、頭部から足の下の台までクスノキの一材で製作されています。ところが、当時の朝鮮半島で製作されていた仏像にはクスノキ材の現存例がありません。いっぽう、そのころ日本では同材が造仏に用いられていたため、本像は日本製であると考えられるようになりました。

しかし、天衣の表現をはじめ、横から観られることを意識して造られた百済観音は、同じ法隆寺に安置されている正面から観られることに重点がおかれている「救世観音」とは大きくその様式を異にします。そのため、「救世観音」をはじめ飛鳥仏の代表的な造り手である止利仏師とは異なる仏師集団が製作したのではないかといわれています。

衆生を救うため、この世に降り立ったかのような百済観音。神秘的な微笑みをたたえた本像は、約1400年もの間、静かに人々を見守っています。

国宝プロフィール

百済観音

7世紀中頃 木造 彩色 像高209.4cm 法隆寺 奈良 写真/飛鳥園

瘦身の流麗な像容や、左手で水瓶の頸を軽くつまむ姿が、独特なやさしさを醸し出している。現在は「百済観音」の名で親しまれているが、江戸時代までは「虚空蔵菩薩」、明治期の法隆寺の目録では「朝鮮風観音像」と記載されるなど、多くの謎を秘めた像である。

法隆寺

神が宿る巨大な滝 「那智瀧図」

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屹立した岩壁から落下する一条の滝。その流れは途中で岩にぶつかると、幅を広げて滝壺へと流れ込みます。紅葉に染まる木々に彩られた山の端には、金色の月がかかりはじめています。

成人の背丈ほどもある縦長の画面の中央に描かれているのは、高低差133メートルの「那智の滝」。むき出しの岩肌からあがる白い飛沫、変化のある流れのさまなど、克明に那智の滝を描写したように見えますが、本作は風景画ではありません。「垂迹画(神道画)」と呼ばれる、礼拝のための一幅です。

古来、那智の滝のある紀州・熊野の地は、仏教の山林修行者や修験道の行者の霊場でした。さらに、平安時代後期になると、この地は、上皇や貴族をはじめ、多くの人々が参詣に訪れる聖地となります。その背景には、本地垂迹説といわれる日本で生まれた独特の思想がありました。

もともと日本には、高山や巨木、奇岩、滝などに畏敬の念を抱く自然崇拝が根付いていました。大いなる自然に神の存在を感じるこの原初的な信仰は、やがて6世紀半ばに伝来した仏教と結びついていきます。

さらに密教が広まるにつれて、日本の神々は仏教の諸尊が人々を救うために権に姿を現した「権現」であると考えられるようになりました。神仏は一体であり、仏や菩薩は本地(=本体)、神はその垂迹(=仮の姿でこの世に現れること)とする本地垂迹思想の成立です。こうしたなか、那智の滝はそれ自体が千手観音が姿を変えた飛瀧権現として、信仰の対象となっていきました。つまり「那智瀧図」は、その飛籠権現というご神体そのものを真正面から描き出した、とりわけ意味深い作品というわけです。

いっぽうで、本図はその描法においても個性を放っています。中心となる対象を画面中央に大きく描写する構図や、墨の濃淡やぼかしによって岩の凹凸を表す「墨皴」の技法は、中国、宋元の山水画に倣うものの、山の彩色法や木々の描写などには、鎌倉時代後期のやまと絵の手法が用いられています。

「那智瀧図」は、豊かな自然に恵まれた日本の神仏が織りなす特殊な思想観を独創的な手法で絵画化した、貴重な1枚です。

国宝プロフィール

那智瀧図

13〜14世紀初め 絹本着色 一幅 160.7×58.8cm 根津美術館 東京

古くから信仰を集めた熊野三山のうち、熊野那智大社のご神体とされる、那智の滝が描かれている。一見、単なる風景画のようだが、流れ落ちる滝の全体を画面の中央に描き、滝に宿る神の姿を表した礼拝画である。

根津美術館