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10,11月号2024.08.30発売

大人だけが知っている!「静寂の京都」

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2018.09.04

西本願寺・鷹見泉石像〜ニッポンの国宝100 FILE 93,94〜

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

西本願寺

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、親鸞の法灯を継ぐ「西本願寺」と、渡辺崋山の名画「鷹見泉石像」です。

絢爛たる建築群「西本願寺」

西本願寺

西本願寺は京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山で、寺地の東にある真宗大谷派の本山と区別するため、「西」を付けて呼ばれています。桃山文化を代表するたくさんの建造物や庭園がある境内は1994年、国の史跡に指定され、また同年「古都京都の文化財」のひとつとして、世界文化遺産に登録されました。
 
7棟もある国宝建造物のうち、近年では2014年に阿弥陀堂と御影堂が新たに国宝指定されたもので、真宗本山の象徴として、文化史的に大きな意義があると評価されています。
 
この寺の起源は、浄土真宗宗祖・親鸞のためにその末娘・覚信尼(かくしんに)が文永9年(1272)、京都・東山大谷に六角の廟堂を建立して親鸞の影像と遺骨を安置した大谷廟堂(影堂)といわれています。そして元亨(げんこう)元年(1321)、本願寺を称するようになりました。ちなみに本願寺という名は本尊・阿弥陀如来の「本願(もともとの請願)」から付けられています。永享(えいきょう)10年(1438)頃、親鸞の木像を安置する御影堂と、阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂の両堂を別々に建立、現在の2堂並びの礎になっています。

その後たびたびの戦乱により、北陸、京都・山科、大坂・石山、紀州など、世の中の変遷に翻弄され移転を繰り返しましたが、天正19年(1591)に豊臣秀吉から土地の寄進を受け、京都の現在地に落ち着くことになりました。現存の諸堂は、元和3年(1617)の大火災後に再建、整備されたもので、飛雲閣は聚楽第(じゅらくだい)から、唐門は伏見桃山城からそれぞれ移築したと伝えられるなど、西本願寺は名建築の宝庫として知られています。
 
御影堂と本堂の阿弥陀堂は、浄土真宗の建築の原則である東向きで、2堂並んでいます。本尊・阿弥陀如来の木像が安置された阿弥陀堂は日本最大級の規模を誇りますが、宗祖・親鸞の木像を安置している御影堂は本堂よりさらに大きく造られています。これは前述にもあるように西本願寺の起源が親鸞の廟堂のためです。また西本願寺の名宝は建築物だけでなく、数多くの絵画や工芸品なども国宝・重要文化財に指定されています。

国宝プロフィール

西本願寺

本尊・阿弥陀如来を安置する本堂の阿弥陀堂は、日本最大の規模で、外陣は492畳敷、1000人以上の参拝者が入れる。その阿弥陀堂よりさらに巨大な、親鸞の本像を安置する御影堂があり、この2つを中心堂宇とする。境内は、約10万9752㎡(東京ドーム2.3個分)と広大で、御影堂、阿弥陀堂、書院、黒書院及び伝廊、北能舞台、飛雲閣、唐門と7棟の国宝建築が並び建つ。

西本願寺

武士のリアルな肖像「鷹見泉石像」

西本願寺

鷹見泉石(たかみせんせき)は、古賀藩(茨城県古河市)の家老で、主君の土井氏は幕府の要職を歴任。泉石はこれを補佐し「土井の鷹見か、鷹見の土井か」といわれるほどの能吏でした。また、蘭学者でもあり、19世紀初めの外国船が来航するなど対外危機意識の高まるなか、海外事情を精力的に収集しました。
 
描いた渡辺崋山も田原藩(愛知県)の武士ですが、江戸詰(江戸藩邸勤務)の家系で、江戸で生まれ育ちます。やはり蘭学者で、泉石とはその縁で知り合ったようです。天保3年(1832)、40歳で藩の年寄役に就任し海岸掛(海防役)を兼任すると、海防のため外国事情を研究し、国際的な視点をもつ先覚者と称されるまでになります。

崋山の生家は貧しく、生活の資を得るために崋山は画家を志します。文化5年(1808)、16歳で町絵師に入門しますが、十分な謝礼ができずに破門され、翌年、江戸画壇の大御所・谷文晁(たにぶんちょう)の弟子に入門し、同時に文晁門に入ります。「常日頃冊子を持ち歩き、目にしたものは何でも描き、この冊子を積むと身の丈になった」という様子が、弟子の書いた「崋山先生略伝」に記されています。また画帖からは、仏画、狩野派、伝統的なやまと絵、洋風画、中国・宋元画など幅広く学んでいる様子が見られます。23歳頃には画家として認められたようですが、初期の絵の多くは伝統的な画法で描かれています。およそ30歳ぐらいで西洋画に魅せられ、写実的な絵、とくに肖像画を描くようになったことが残された作品からわかります。
 
そんな崋山が到達した、日本の伝統的な画法と西洋の写実的画法が融合した独自の画風で描かれたのが「鷹見泉石像」です。泉石の顔は淡い赤と薄い墨で微妙な陰影を繊細に描き、明治時代に始まる近代的な写実表現の先駆的な作とされます。顔にくらべると略筆で、伝統的な画法に近い着衣の描写も、正装のパリッとした様子を感じさせ、顔の写実性と見事に融合しています。柔らかな肌を感じさせる描写に、正装姿の泉石は清らかで、優れた肖像画を多く描いた崋山の作品中、もっとも格調高い作といわれます。

国宝プロフィール

渡辺崋山 鷹見泉石像

天保8年(1837)絹本着色 一幅 115.0×57.2cm 東京国立博物館「鷹見泉石像」の写真はすべてImage:TNM Image Archives

渡辺崋山は日本の伝統的な絵画技法に西洋画の遠近法や陰影法を取り入れ、独自の画風を作り上げた。その崋山が描く肖像画の傑作がこの「鷹見泉石像」。微妙な陰影法による写実的な描写で、人物の謹厳な性格までもが表現されている。克明な面貌表現とは対照的に素早く、迷いのない線で表す着衣が見事に融合している。

東京国立博物館