仏像をじっくり見たことがない方や、どのような種類があるか知らない方も多いだろう。私は、展覧会へ行くと「もしこの中で好きな作品を持ち帰れるとしたらどれにしよう?」そういつも考える。作品の大きさとか重さとかを目で測りつつ、いま住んでいる家のリビングや寝室とか玄関先に置いてみて、ふさわしい場所を想像してみる。それほどの仏像好きだ。
そんな私が仏像の魅力や種類、鑑賞のポイントを紹介。いつも何気なく見ていた仏像に、もっと愛着が感じられるようになるかもしれない。
仏像に惹かれる理由
私たちが仏像を見るときは、お寺にお祀りしてある仏さまを拝む場合と、展覧会で美術作品として鑑賞する場合とがある。
仏さまの顔というのは、慈しんでいるか怒っているかが多い。法隆寺の泣き仏とか広隆寺の泣き弥勒もあるけれど、数は少ない。
仏像を見るときと一般の美術品を見るときは少しちがうような気がする。
私は、といえばまず仏像の「顔」を見る。
次に、着物はどのように着ているか、手の形はどうなっているか、足の組み方などを見ていく。そうして長いあいだ仏像と向きあっていると、作者が何を表現しようとしていたのかが少しずつ分かってくる。仏師はどうしてこんな顔に作ったのだろうとか、この気迫はどこから来るのだろうとか、当時の人々はこの仏像になにを拝んだのだろうとか。仏像には、人々を感動させ畏れさせた文化的な歴史と、仏師の熱意が込められているのだ。
鑑賞作品として仏像を見るときであっても、やはり仏像は仏教の信仰対象なので敬意をもつことを忘れてはいけない。そのうえで、前から横から後ろから、あるいは遠くからじっくりと観察者の視点で仏像を鑑賞してみると、より楽しく、もっと新しい発見に出会えるはずだ。
仏像の説明をかんたんに
そもそも仏像とは、仏教をはじめた釈迦の姿。釈迦はいろんな修行をして今から2500年くらい前に悟りを開き、ブッダになった。だからブッダ(仏陀)とは人の名前ではなくて「悟りを開いた人」という意味。
仏陀が省略されて「仏(ほとけ)」となる。その釈迦が仏像としてこの世に現れたのは、仏教の創始から500年後とも600年後とも言われている。
仏像には大きく分けて4種類ある。「如来」「菩薩」「明王」「天」。
最も高い位にいる「如来」は悟りを開いた釈迦の姿。出家したときのまま、何も持たず、うすい衣を一枚体に巻いて飾りもない。
「菩薩」は修行の真っ最中でお釈迦様が悟りに至る前の姿とも言われている。髪を結い、皇太子時代のちょっとおしゃれな服装。
「明王」にはどうにも救うのが難しい厄介者を怒りで導く役割がある。なにしろ怒っているから後ろには炎も燃えているし、投げ縄やら剣やら武器もたくさん持っている。
「天」はインドの神様やヒンドゥー教の神様が仏教に取り入れられたもので、仏法を守るのが仕事。数が多くそれぞれ個性的で、毘沙門天とか弁財天なども天のつく仏さまだ。
仏像の顔をみてみよう
輪郭
仏さまに遠慮することなく、まずは近くから360度ぐるりと見てほしい。
あたりまえだが、仏像には人間と同じように眉と眼と鼻と口と耳がある。だが、信仰対象である仏像は少しだけ人間と違う表情をしている。
仏像の顔立ちも丸顔だったり面長だったりと時代によって変わる。東京芸術大学名誉教授の水野敬三郎は著作『仏像のみかた』の中で次のように述べている。
「飛鳥時代前期の仏像は、表情としては厳しいです。(略)日本の神様は、きちんと祀っていれば、いいことをしてくれますが、うっかり粗末に扱って怒らせてしまうと、祟ったり天変地異を起こしたりするとして信仰されてきました。仏さまは、はじめはよそから来た“渡来の神様”というふうに思われていたのだと思います。だから、最初につくられた仏像には神様のイメージがはいってくる。その結果、なんとなくこわいような、またやさしいような表情となる」
これはつまり、仏像の顔にも流行があるということ。
例えば、飛鳥時代の仏像の輪郭は縦に長い。それが後期になると徐々に丸くなってくる。飛鳥時代の仏像の原型は中国の南北朝時代(439~589)までの仏像だ。日本の仏像は、中国の仏像の変化に連動して形を変えてきた。だから、仏像の顔は作られた時代によって表情が違ってくる。
顔
「眼」はモノを見る視覚器官であると同時に、物事の真実や善悪などを判断する部分でもある。仏像はなにを見ているのだろうか。
「如来」の場合、顔は正面向きなので、前方を向いているような感じだが、実は拝んでいる人を見ているわけではない。仏師は瞑想している如来の眼が見る者と視線が合わないようにと瞳をちょっと外にずらして描く。一方、「菩薩」は拝む人を眼を離さずじかに見るように、我が子を見つめる母親のような眼をしている。
これら仏像の杏仁形(アーモンド形)の眼は中国では美しい眼の形とされている。
対照的なのが、眼を三角形のように尖らせ、大きく開いた明王の両眼だ。強い怒りをもって人々を救うという意志が醜悪な表情で表現されている。
このように怒った顔の仏像は忿怒形(ふんぬぎょう)と言う。仏像に限らず、造形の表現ではいかに表情を誇張してみせるかが大切なので、実際はこんな眼をした人間はいない。だから、仏像のなかにはよりリアルな表現のために玉眼(目の形にくりぬいた場所に水晶のレンズをあてたもの)を使用することもある。
そして天部の視線はどうかというと、仏敵に対して注意を怠らない強い警戒の目つきが特徴だ。
人の顔を見るときに耳を見ることはあまりないかもしれない。
仏像の場合、耳は作家の個性が反映されやすいという。仏像の耳は彫って作られるものだから、右と左のどちらかが崩れてしまうこともある。また、右利きのひとなら左耳が彫りやすいという傾向もあると、水野は指摘する。時代ごとの特色もある。例えば、飛鳥時代の仏像は先に述べたように中国南北朝時代の耳を真似て作られている。人間の耳を模して作るのではなく、中国の仏像を真似たので変な形になってしまったというのは面白い。
仏像の口は私が最も注目する部位だ。
口はだいたいつぐんでいるが、開いているものもある。例えば「音声菩薩」。菩薩が口を開けて歌を歌っている様を表現している。鎌倉時代からは歯を見せている如来像も現れる。水晶などで作られた歯を入れているのだが、これは玉眼とおなじで、仏が生きているように見せる方法だ。ほかにも、唇の膨らみや高さなど、人の手ならではの彫刻技術に注目しながら鑑賞するとそれぞれの仏像ならではの美しさや力強さを感じられると思う。
立体彫刻として工夫されている仏像のからだ
口の次に私が好んで注視するのが、仏像の手足。
もし周囲にあまり人がいないようだったら、仏像と同じポーズをとってみてほしい。表情はもちろん、仏像は両手を使って私たちと会話しようとしているので、手の形はさまざまな意味を表現している。これを印相(いんぞう)という。
また、人間とおなじように、仏像の手足にもきちんと爪があるのはご存知だろうか。そして人間と異なるのは、立体彫刻として工夫が施されていること。
人間の爪は横から見た場合、ほとんど爪の厚みを見ることができない。一方、仏像のなかには爪の厚みがしっかり強調されているものがある。立体感のほどこされた爪先は、仏像が芸術品だということを思いださせる。
さいごに
今回は私流仏像鑑賞で注目してもらいたい造形部分を紹介してきた。仏像を見たときの感想はその人の立場や信仰、あるいはその日の心境で変わるかもしれない。仏像にはもちろん、歴史的な背景がある。材料や制作技法などの美術的な側面に着眼するのも大切だけれど、ちょっと難しいことは端に置いて、まずは自分の身体と仏像の身体を比べながら、その違いを楽しんでもらいたい。そして、仏像っていろいろな見方があるのだなあと理解してもらえたら嬉しい。