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2024.05.03

奇妙キテレツ! 河鍋暁斎の『武四郎涅槃図』モデルは“北海道の名付け親”!?

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明治中期に画家の河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい、1831〜89年)が、探検家の松浦武四郎(1818〜1888年)を描いた少々奇妙な絵が公開されている。『武四郎涅槃図(たけしろうねはんず)』という作品だ。静嘉堂@丸の内で開かれている静嘉堂文庫竣工100年・特別展「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」に出品されており、このたびじっくりと鑑賞することができた。

釈迦に代えて松浦武四郎を描いた「涅槃図」

何が奇妙なのか? 第一には、「涅槃図」という仏教絵画で描かれるべき釈迦に代えて、松浦武四郎という人物が描かれていることである。松浦武四郎は、「北海道の名付け親」として知られる探検家である。北海道を調査などのために6度も訪れた武四郎は天神(菅原道真)と観音を篤く信仰していたという。

河鍋暁斎『武四郎涅槃図』 明治19(1886)年 松浦武四郎記念館蔵 重要文化財

「涅槃図」は、釈迦が亡くなったときに菩薩や弟子、さらには鳥や牛、馬、猿、象などの多くの動物が集まって悲しんでいる様子を描いた仏教絵画だ。35歳の時に悟りを開いた釈迦は、死を迎えて肉体が無くなり「完全な涅槃」の状態になる。つまり、釈迦の生涯においても、極めて重要な場面を表しているのだ。キリスト教の磔刑の場面と同じくらいの意味合いとインパクトを持つ。古代インドを起源に大陸から日本に伝来し、国内でも平安時代以来、多くの作例がある。

時代が下ると、人物や動物を別種のモチーフに置き換えた「変わり涅槃図」の作例が出てきたことにも注目したい。釈迦を大根に置き換えるなどすべてのモチーフを野菜にした伊藤若冲の『果蔬涅槃図(かそねはんず)』(京都国立博物館蔵)が有名だ。『武四郎涅槃図』が「変わり涅槃図」の一種であるのは間違いない。

河鍋暁斎『武四郎涅槃図』(部分) 明治19(1886)年 松浦武四郎記念館蔵 重要文化財

しかし、釈迦を実在の別の人物に置き換えるのは、やはりかなり大胆な行為である。しかも、作品を間近にすると、亡くなった姿が描かれているはずの武四郎は、実にすやすやと、気持ちよさそうに寝ているように見える。武四郎が豪華な首飾りをつけているのも、「涅槃図」としては特異な点だろう。腰には、「火用心」と書かれた煙草入れを提げている。それらは、釈迦にはおよそ似つかわしくない。

十二支にいない猫が登場

さらに奇妙なのは、周りに集まっている菩薩や動物たちである。菩薩たちの中に、まるで仏像のように見えるものがたくさんあるのだ。動物たちの中にも、変わったものがある。画面下部の彩り豊かに表現されたモチーフに注目してほしい。一部がまるで玩具のように描かれている。天上の雲の上には、通常の「涅槃図」なら釈迦の母である摩耶夫人が描かれるが、この絵では華麗な衣装をまとった遊女のように見える。「涅槃図」は厳かな気持ちで向き合うのが通常のあり方だと思うが、『武四郎涅槃図』については、じっくり眺めているとだんだん楽しくなってくる。

河鍋暁斎『武四郎涅槃図』(部分) 明治19(1886)年 松浦武四郎記念館蔵 重要文化財
黒い工芸品が福島県の「三春駒」。右斜め上に小さく「張子の虎」が描かれているのがわかるだろう。その下のガマガエルの石の置物の下には猫が描かれている。

これらのモチーフの正体は、実は武四郎の「収集品」だという。武四郎には骨董品収集の趣味があり、コレクションの目録を作ったり、自宅で骨董の品評会を開いたりすることもあったほどの熱の入れようだったという。この絵で武四郎は、自分が集めた収集品に囲まれて眠っているのである。たとえば、画面下部の黒を基調にした少々変わった形の馬は工芸品の「三春駒」、その右上に小さく描かれた虎は玩具の「張子の虎」である。画面の右下部分に描かれた2匹の猿は、普通に描かれた猿に見えるかもしれない。しかし実はこれらも武四郎の「収集品」を描いたものだった。武四郎が所有していた周耕という室町時代の画家の『猿猴図(えんこうず)』(対幅)に描かれた猿の模写なのである。

釈迦の上には通常の「涅槃図」にはない朱漆の卓が描かれ、その上にたくさんの彫像が載っている。しかも馬に乗った聖徳太子や西行法師など、歴史上の重要人物たちが含まれている。この絵は、武四郎の収集品で埋め尽くされているのだ。大首飾りや「火用心」の袋が描かれている理由もわかったのではないか。

ここで、少々ユーモラスな例を一つ。画面右下に描かれた猫である。十二支に登場しないので普通涅槃図には描かれないという。なぜ登場するのか。武四郎が飼っていたからだ。

もはやこれは「涅槃図」なのか?

骨董品の収集家はもちろん、自らのコレクションをこよなく愛している。それゆえ、こうして囲まれれば至福を感じているはずだ。武四郎が幸せそうな顔をして寝ているのもむべなるかな、である。

この展覧会で特に興味深いのは、この「涅槃図」の周りに武四郎の収集品をたくさん集めて展示したことだ。大首飾りや「火用心」と書かれた煙草入れ、西行法師の木彫像、先に挙げた周耕の『猿猴図』など、多くの作品を見ることができる。これらの収集品は、実は以前から静嘉堂が所蔵していたものだ。ただ、これまで『武四郎涅槃図』と一緒にこうした形で展示されたことはなかったという。本展は、この絵の成り立ちを実証する展覧会になったのだ。

『大首飾り』 縄文時代〜近代 静嘉堂蔵

『西行法師立像』 年代不詳 静嘉堂蔵

松浦武四郎の旧蔵品が並んだコーナー。

周耕『猿猴図』 室町時代 14〜16世紀 松浦武四郎記念館蔵 重要文化財
『武四郎涅槃図』の右下隅に、この2匹の猿の模写が描かれている。

もはやこれは「涅槃図」なのか? とも思う。だが、収集品の中に登場する菩薩などの顔は、悲しみの表情に描き変えられている。武四郎の左下で大きなお腹を見せて泣いているのは、七福神の一人の布袋である。七福神が泣いた場面を描いた絵など、ほかにあるのだろうか? やはり「涅槃図」として描かれた絵なのである。亡くなっているのか眠っているのかは、見るほうの主観でも判断が変わってくるだろう。

おそらくは、収集した骨董品への愛好心と、晩年を迎えて深まりを見せた信仰心がないまぜになり、技術・着想・表現のすべてに長けていた河鍋暁斎の手によって、味わい深い名作となったのではあるまいか。1889年に亡くなる暁斎にとっても最晩年の作品に属する。もともと宗教的な画題も多く描いた画家だったゆえ、さまざまな思いを込めたことが推しはかられる。

完成までに足掛け6年

この絵は、60歳を超えていた頃の武四郎が暁斎に注文した作品だ。抜群の技術と諧謔的(かいぎゃくてき・ユーモアがあること)な表現に長けた暁斎に頼んだ気持ちは、筆者にも想像がつく。武四郎自身は何と「馬角斎(ばかくさい)」というお茶目な号を名乗る趣味人で、著述に勤しんだほか、ここまで書いてきたように、骨董品の熱烈な収集家だった。絵画に対する目は相当肥えていたはずだ。暁斎に依頼した武四郎には、「涅槃図」として自分を釈迦の代わりに描いてもらうならこの画家で、という強烈な思いがあったのではなかろうか。

その分、描いてもらう内容にも相当な執着があったようだ。何かを収集するたびに「これも描いてほしい」と暁斎に注文する。度重なるので、暁斎のほうは辟易してしまう。そしてなかなか完成しない。暁斎はけっこうな速描きの画家だったが、この絵に関しては足掛け6年ほどをかけて完成したという。

この企画展を担当した静嘉堂文庫美術館の吉田恵理学芸員は、「この絵の武四郎は本当に幸せそうな寝顔を見せています」と話す。6年越しにようやく完成を見たこの絵は、結果的には武四郎の気持ちを十二分に汲んだ絵になったのではないだろうか。武四郎は、好きな骨董品に囲まれて本当に幸せそうに眠っている。

小野湖山『武四郎涅槃図箱書』 明治19(1888)年、『武四郎涅槃図旧軸木』明治19(1888)年7月5日 松浦武四郎記念館蔵 展示風景

実はこの絵には、『北海道人樹下午睡之図』という別名がある。小野湖山という人物がしたためた箱書きにそう記されているのだ。武四郎本人ももともと使われていた軸木(軸装作品で絵を巻く中心となる木)に「北海翁松下午睡」と自書しており、「午睡」すなわち昼寝であることを断言している。

この絵が完成した頃、武四郎は「一畳敷(いちじょうじき)」の小さな書斎を全国の寺社から集めた古材を使って自邸内に造り、そこで2年ほどの余生を過ごして亡くなった。吉田さんは「ひょっとしたら、『武四郎涅槃図』に描かれた風景は、一畳敷のある晩年の武四郎邸内ではないか」と言う。信頼できる根拠もある。武四郎の孫の松浦孫太が、武四郎が建てた書斎の周囲には「赤松」などの植え込みや「十六羅漢」や「七福神」などの石像があり、書斎の北窓下の池には「緋鯉(ひごい)」がいるなどのことを記述した文書(注)があるというのだ。『武四郎涅槃図』には、それぞれに該当するものが描かれている。書斎で至福の昼寝をしている武四郎の姿が目に浮かんでくるのは、筆者だけではないだろう。

注)松浦孫太「祖父武四郎」『書斎』第三号、大正15(1926)年

※写真はすべて、筆者がプレス内覧会で主催者の許可を得て撮影したものです。

つあおのラクガキ

ラクガキストを名乗る小川敦生こと「つあお」の、記事からインスピレーションを得て描いた絵を紹介するコーナーです。Gyoemonは雅号です。

Gyoemon『猫の白日夢』

猫はよく眠りますが、昼寝をしたときにはいったいどんな夢を見るのでしょうか? 魚を愛するあまりに自分が魚になってしまった! そんな猫もいるのではないでしょうか。

展覧会基本情報

展覧会名:静嘉堂文庫竣工100年・特別展「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎《地獄極楽めぐり図》からリアル武四郎涅槃図まで」
会場:静嘉堂文庫美術館 静嘉堂@丸の内(東京・丸の内)
会期:2024年4月13日(土)~6月9日(日)
公式ウェブサイト:https://www.seikado.or.jp/exhibition/current_exhibition/

参考文献

◎静嘉堂文庫美術館『徹底分析「武四郎涅槃図」』
◎小川敦生「画鬼、河鍋暁斎(中)」(日本経済新聞2010年7月18日付朝刊「美の美」面)

書いた人

美術ジャーナリスト&日曜ヴァイオリニスト&ラクガキスト(雅号=Gyoemon)。そして多摩美大教授。新聞や雑誌の美術記者を経験しながら「浮世離れ」を目指し、今日に至る。音楽面ではブラームスのヴァイオリン協奏曲のソロをコンプリート演奏する夢を実現し、自己満足の境地へ。著書に『美術の経済』。