日本美術史において、近世以降の日本美術史観を根底から覆し、新たな日本美術史の流れを決定的に作り上げた1冊の本があります。その本のタイトルは、「奇想の系譜」。1970年に発売されて以来、新版や文庫版、海外版など複数のバリエーションを交えながら、約50年にわたり読みつがれてきた驚異的なロングセラーです。
執筆したのは、今年86歳となる、日本美術史界における最長老となった辻惟雄氏。学生時代の卒料論文で岩佐又兵衛についての画期的な研究成果を発表して以来、近世日本美術を中心として、先鋭的・独創的な作品を残した「奇想」の絵師たち、桃山~江戸期にかけて日本で独自発達した華麗な装飾美術「かざり」の世界など、ユニークな切り口の研究で日本美術史をリードし続けてきました。
まさに「生けるレジェンド」といっても過言ではない辻惟雄氏。その偉大なる研究成果の集大成として、2019年2月から東京都美術館で「奇想の系譜展」が開催されるともに、小学館から豪華装丁を施されたハードカバーでの愛蔵版「新版 奇想の系譜」が発売されました。
この「新版 奇想の系譜」を早速読み進めてみましたが、辻惟雄氏が当時まだ気鋭の学者だった37歳の時の若々しい筆致を極力そのままに残しつつ、各章には最新の研究成果を踏まえた補筆がなされるなど、内容面も非常に充実。
そこで、本稿では新版「奇想の系譜」発売を記念して2月10日に東京国立博物館で開催された展覧会監修者・山下裕二氏(明治学院大学教授)との対談講演会「若冲だけじゃないぞ!―今『奇想の系譜』を読み直す」の内容も踏まえて、本書の見どころや魅力を探っていきたいと思います。
50年間読みつがれてきた大ベストセラー「奇想の系譜」とは?
美術書「奇想の系譜」は、1968年7月~12月にかけて、美術出版社の雑誌「美術手帖」で6ヶ月に渡って連載された記事原稿をベースにしてまとめられ、1970年に単行本として出版されました。1960年代当時、伊藤若冲や曽我蕭白といった、強い個性を持ち、狩野派や土佐派といった伝統的な流派から大きく外れたユニークな作風を持つ画家たちは、美術史研究の中で正当な評価を受けられず、人々の記憶から忘れ去られた存在となっていました。
「美術手帖」での連載で、辻氏はこうした埋もれてしまった個性派の画家たちを、「新しい“美”を打ち出した時代の最先端を象徴するアヴァンギャルドな前衛画家」として定義し直し、豊富な図版とともにその新奇性、先進性を積極的に評価したのでした。
取り上げられた作家は、岩佐又兵衛、狩野山雪、曽我蕭白、伊藤若冲、長沢芦雪、歌川国芳の6名。それぞれの作家の生涯と作品を紹介し、図版を参照しながら、画家の生き様や人間性にも踏み込みつつ、画業の特徴や各作品の鑑賞ポイントを冴え渡る筆致で紹介していきます。
何度読んでも引き込まれてしまう「奇想の系譜」の魅力とは?
「奇想の系譜」の著者・辻惟雄先生。講演会でも、好きな作品を語る時は話への熱の入り方が違っていました。
年間何万点と市場に出版物が溢れる中、1970年に発売されて以来、50年間変わらず美術史学習者や美術ファンを中心として読みつがれてきた「奇想の系譜」。文芸小説やマンガといった固定ファンが多数存在する分野ならともかく、美術書という非常にマイナーなジャンルで版を重ね、売れ続けてきたのはまさに異常なことだといえます。また、村上隆や横尾忠則など、大物現役アーティストの中にも、熱烈な「奇想の系譜」ファンがいるのだといいます。
では、なぜ「奇想の系譜」だけがこれほど世代を超えて読者から熱烈な支持を得るに至ったのでしょうか?
その最大の原因は、圧倒的な「読みごたえ」にあると思うのです。まず、辻氏の各作家・作品に対する思い入れの強さが筆圧となって読者にビシビシと伝わってくるのが素晴らしい。各作品を取り上げ作品の面白さを語る時の辻氏の筆の走り方からは、美術史家というより、むしろ熱心な一美術ファンとしての側面を感じさせます。小説家顔負けの豊富な語彙力で、波状攻撃のように作品の素晴らしさを訴えかけられているうちに、読み手である自分自身もいつしか熱に浮かされたようにページをめくる手が止まらなくなってしまうのです。
会場で購入したばかりの「新版 奇想の系譜」を熱心に読み進める女性。そう、非常に中毒性の高い本なのです。
一方で、事実や論理を積み上げて冷徹に分析を進める「学者」としての構築力も冴え渡っています。奇想画家たちが生み出した作品のユニークさ・斬新さを単に表面的になぞるだけでなく、「なぜ、この作品が素晴らしいのか」を、フィールドワークを通じて積み上げた事実把握と他作品との比較検証等を通じてロジカルに解説してくれています。特に、ライフワークとして長年の研究成果を凝縮した、岩佐又兵衛について触れた第1章でのスリリングかつ重層的な論理展開は、ちょっとした推理小説を読み進めている気分も味わえるでしょう。
なぜ、今回出版された新版「奇想の系譜」がおすすめなのか?
筆者も日本美術に深くハマって以来、新版の約15年前に発売されたちくま新書「奇想の系譜」を、ベッドの枕元に常備するなどして定期的に読み返してきました。書籍内で取り上げられた6人の奇想の絵師たちについては展覧会にも通ってその「奇想」ぶりをたっぷり味わってきたつもりです。
最初に「新版」が豪華装丁で出ると聞いた時は「値段もかなりするだろうし、どうなんだろう」と思っていました。しかし思い切って購入し、読み進めてみるとその否定的な考えは一変。確かに値段はそれなりにかかりましたが、日本美術が好きなら絶対買っておいて損はない1冊だと確信しました。
なぜ「新版 奇想の系譜」は「買い」だといえるのか。それは、「新版 奇想の系譜」にはそれまでの文庫版・旧版などにはなかった画期的な魅力があるからです。
新版「奇想の系譜」だけが持つ3つの魅力とは?
魅力1 大量130点のカラー図版
「奇想の系譜」を読み進める面白さの一つが、辻惟雄氏による作品の見どころ解説。鋭い観察眼で、我々一般の美術ファンが気づかないようなポイントを解説してくれるのです。例えば、伊藤若冲作品の各モチーフに配置された丸い斑点や空洞の表現。辻氏は、これを「鑑賞者を見据える『眼』であると分析しますが、確かに若冲の各作品を丹念に見ていくと、あらゆる箇所に無数の「◯」型の図形が配置されていることに気付かされます。
旧版や文庫版では、辻氏の作品解説に対して掲載された図版が白黒画像で不鮮明だったり、掲載が省略されている箇所が多くて消化不良気味だった箇所もありましたが、この新版ではそういった欲求不満を一気に解消。旧版に比較して図版の掲載点数が130点と大幅に充実した上、全ての図版が鮮明なカラー画像で掲載されているのが非常に大きな魅力になっています。読み進める時の満足度・理解度が全く違うといっても過言ではありません。
魅力2 各章に追加された研究の「その後」を味わえる
「奇想の系譜」の魅力の一つが、辻氏の冴え渡る筆致です。元原稿の連載時、若干30代後半と気鋭の美術史学者だった辻氏が、各作家・作品を思い入れたっぷりに語るロマンチシズム溢れる文体は、学者が陥りがちな無味乾燥な論文調とは大違い。
「新版 奇想の系譜」では、1968年当時の若さと勢いが感じられる原文の良さをできるだけ生かしつつ、出版当時から約50年間の間に判明した新たな発見や事実関係、自らの作品や作家に対する見解の変化を、それぞれ各章に「あとがき」という形で、随筆スタイルで平均約10ページずつ追補。(つまり、全体ではオリジナル版より約60ページ程度の大幅加筆がされていることになります)
この「あとがき」が実に面白いのです。第3章「幻想の博物誌 伊藤若冲」で、ジョー・プライス氏との長年の交友関係における茶目っ気ある面白エピソードや、第5章「鳥獣悪戯 長沢芦雪」では、他章と違いかなりトーンを抑え気味に論じている理由や1970年当時の心境が吐露されており、辻氏の意外な人間臭さを味わうことができます。
圧巻なのは、第1章「憂世と浮世 岩佐又兵衛」で自らの内面の葛藤も含めて記された「洛中洛外図屏風 舟木本」の鑑定をめぐる後日談です。岩佐又兵衛本人の真筆であると美術史界の大勢が認めた「洛中洛外図屏風 舟木本」に対して、長年「又兵衛前派」の手による作品であるという自説を堅持し、これを又兵衛の作品と認めてこなかった辻氏。しかし約15年前、周囲の指摘を踏まえて検証を重ね、ついに「舟木本」は又兵衛の真筆であると「改心」に至った結果、それまで展覧会で幾度となく「伝 岩佐又兵衛」と紹介されてきたキャプションから「伝」の字が消え、作品自体も重要文化財から国宝へと格上げされたのです。辻氏の美術史界に対する影響の大きさや、美術史家の見解が作品の価値を大きく左右する古美術界特有の動向や事情なども読み取ることができる、非常に興味深い追加エピソードでした。
魅力3 意外に見落とされがちだけど、とても大事な「よみがな」の充実
美術書を読んでいて、意外にストレスを感じるのが、難解な漢字が使われた作品名や作家名に「よみがな」が振られていない時です。もちろん、本に書かれた内容の全体的な意味を把握するという観点では、大勢に影響はありません。ただ、文字の発音がわからず、正確に読めないということは、記憶できないということ。漢字が難しくて読み飛ばした作品や作家名は、まず後日になって記憶に残っていないことが多いのではないでしょうか?
本書「新版 奇想の系譜」では、この「よみがな」問題をほぼ完全に解決。日本美術分野での初心者向けの書籍制作に携わってきたベテラン編集担当が、徹底的に「文章のわかりやすさ」にこだわって校正作業を進めてきただけあって、本当に読みやすいのです!
展覧会と合わせて読めば、江戸絵画を味わう愉しさを味わえる
2019年2月現在、86歳となった辻惟雄氏。御本人は自伝となる著書「奇想の発見―ある美術史家の回想―」(新潮社)のあとがきで、老境にさしかかって、最近ではどんどんものを忘れていってしまう、とこぼしておられましたが、講演会の壇上で自らの研究生活の原点でもある「奇想の作家」を論じる時の語り口は、未だ現役の美術史家そのもの。連載時から変わらぬ情熱を感じることができました。
講演会で辻惟雄氏の対談相手を務めた山下裕二氏。辻氏の大学での教え子なのです。
山下氏に「これで若冲より長生きになりましたね。先生、次は北斎超えを目指しましょう」とハッパをかけられていた辻氏。これからもまだまだ現役でご活躍いただき、「奇想の系譜」を超える新たなヴィジョンを新著にて拝読できる日を楽しみに、「新版 奇想の系譜」をもう一度読み返してみたいと思います。
文/齋藤久嗣 写真/黒石あみ(小学館)