文明の利器の恩恵に授かったとき、あるいは情報化社会の生きづらさに悩んだとき、ふと「昔の人ってどうしてたんだろう?」と思ったことはありませんか?たとえば、近代化以前の江戸時代はどうだったのか、と。
2019年4月6日より、渋谷区立松濤美術館(東京・渋谷)で、企画展「女・おんな・オンナ〜浮世絵にみる女のくらし」が開催されました。同展では、江戸時代に生きた女性たちの「くらし」の様相を、浮世絵を中心に探っていきます。会場は10章で構成され、浮世絵のほかにも、着物や装身具、化粧道具といった多数の史料によって、江戸時代の女性の仕事やファッション、美容、そして性生活も取り上げています。
渋谷区立松濤美術館の「女・おんな・オンナ〜浮世絵にみる女のくらし」展会場風景。カーブを描く展示空間が、各章のテーマを有機的につないでいく。
多角的に江戸時代の女性の姿を紹介した充実の企画展ですが、展覧会の冒頭では、展覧会の内容が当時の女性の生活の全容ではないことが断られています。なぜなら、私たちが目にする浮世絵の多くは当時流通した“商品”だからです。そこに描かれた女性たちは賞翫の対象であり、美化され、脚色され、不都合な情報は消されています。浮世絵の多くは、フィクション(実在の人物や場所、事件に取材していても)なのだということを肝に命じておかなければなりません。
とは言え、浮世絵の中にいきいきと描かれた女性たちは、現代の私たちの心を揺さぶります。そしてこの展覧会は、そうした浮世絵に描かれた美人に見られるリアリティの本質が何なのかを、私たち鑑賞者に示唆してくれることでしょう。
優品揃いの展覧会なので、ぜひ会場に足を運ばれることをお勧めしますが、ここでは同展出品作の中から数点を選び、浮世絵が女性をどのように描いているかに注目したいと思います。
お利口はダメ? 「女の教養は不要」に異議アリ!
喜多川歌麿(1753?-1806)の「教訓 親の目鑑(めがね)」は、酒癖の悪い女性やぐうたらな女性、ミーハーな女性など、さまざまな女性を反面教師として描いた美人画のシリーズ。現在10図が確認されていて、寝起きだったり泥酔していたりと、生活臭の漂うシチュエーションで女性たちが描かれています。画中に書かれた文章は、親が説教をするような体で女性を批判した内容が主です。(ここまで読むと、あまり気分の良くない浮世絵ですが、もう少々ご辛抱を。)
そして今回、展覧会のメインビジュアルにも採用され、松濤美術館に展示されている(前期展示:4/6-5/1)のがこちら、同シリーズの一図「理口者(りこうもの)」。
喜多川歌麿「教訓親の目鑑 理口者」19世紀 東京都江戸東京博物館 前期(4/6-5/1)展示
「利口」であることがなぜ批判されねばならないのでしょうか? 描かれているのは、寝転がって『絵本太閤記』と記された本を読む女性。画中の文からは、女性は教養を身につけるよりも家事に勤しむべき、という考えが汲み取れます。今となってはかなり時代遅れな価値観ですが、当時はやはり、こうした考えが社会に浸透していたのだと思います。
ただ、そういう批判的な趣旨とは裏腹に、描かれた女性はとても美人でおしゃれです。左右にしなやかに張り出す灯籠鬢(とうろうびん)、艶やかな黒髪に鼈甲(べっこう)の櫛やかんざしを挿し、緑色系の地に緋色の二筋格子が走る着物、桔梗文の黒繻子(くろじゅす)、首元に見える襦袢(じゅばん)はおそらく当時流行の有松絞り。冊子の表紙の瓢箪柄、黒繻子の桔梗文は、『太閤記』の登場人物である豊臣秀吉と明智光秀を連想させます。
美人で、ファッションセンスがあって、教養もあって……なんだか趣旨とビジュアルが矛盾しているのです。そして、あくまで推測ではありますが、この浮世絵の出版の意図は、そこにあったのではないでしょうか。
喜多川歌麿「教訓親の目鑑 理口者」(部分図) 女性がワクワクしながら本を読んでいる雰囲気が伝わってくる。
この「寝転がって『絵本太閤記』を読みふける利口者」という設定を、強いて現代の感覚に置き換えると「ベッドの上でマンガばっかり読んでるダメな女子」のような感じでしょうか。こう書くと当然、「マンガばっかり読んで何が悪い」「別に、どんな格好で何読もうが構わないじゃん」「家事が女の仕事って誰が決めたの」「っていうか『ダメな女子』っていう上から目線の類型化ムカつく」と思う読者がいらっしゃると思うのです。
たぶん、ここで生まれる反感に比較的近いものが、当時も多かれ少なかれあったのではないかと想像します。そうして「いやいや、俺はこういう『絵本太閤記』を読むような女の方が好きだね」と、この美人画を買う層がいたはずです。繰り返しになりますが、浮世絵は商品。期待できるマーケットがないのに、版元(江戸時代の出版社)も「ダメな女」を10図もシリーズ化しないでしょう。「女はかくあるべき」といった旧弊な価値観に対して、疑問を抱いたり(近代的な女性解放の考え方とはやや異なっていたにせよ)、退屈している人々が、男女ともに一定数いたのではないでしょうか。
白井晟一の設計による松濤美術館。2階展示室は、ゆったりと落ち着いた雰囲気で、一点一点の作品とじっくり対話できる。
「女の教養は不要」「酔っ払った女は下品」といった社会のフィルターを「親の目鏡(めがね)」と題し、「不良」を小粋に、愛らしく描いた皮肉の中に、私たちは単純に一括りにできない当時の「女性像」や「女性観」を読み解いていかなければならないと思います。それは難しいことではあると思いますが、同時に、浮世絵の中に当時のさまざまなジェンダーバイアス(社会的・文化的性差別)と人々の心情を発見できるということでもあります。
ちなみに、太閤、つまり豊臣秀吉の生涯に取材した「太閤記物」は、旧政権のヒーローの物語。これが浄瑠璃や歌舞伎でも人気となり(この絵のように、家事そっちのけでハマった奥様も実際にいたと思います)、危機感を覚えた当局は規制に踏み切りました。『絵本太閤記』は発禁処分を受け、歌麿も豊臣秀吉を題材にした浮世絵を描いた罪で、手鎖50日の刑を受けることに。そんな背景を知ると、ますます面白い、この一図。こんな風に『和樂 web』を読むと、かなりの「理口者」になってしまうので、どうぞくれぐれもご注意くださいね。
でもやっぱり浮世絵は男のドリーム
と、歌麿の美人画の一図をコンセプトの視点から鑑賞しましたが、実際のところ消費者には、絵師や版元の思惑なんて、そんなに関係なかったかもしれません。巻頭グラビアのアイドルが可愛かったら、消費者はその雑誌がどんな種類の雑誌であれ買うでしょう。重要なのはイメージとインパクト。
そういう意味で、ぜひ見ていただきたいのが、展覧会の第7章「労働 – はたらく」で展示されている(前期展示:4/6-5/1)こちらの作品。(またしても歌麿ですが。)
喜多川歌麿「料理をする母娘」 18世紀 神奈川県立歴史博物館 前期(4/6-5/1)展示
蛸唐草の立派な大皿と、そこに美しく並べられた刺身から察するに、裕福な家庭か、料亭での一幕なのでしょう。まるでよそ行きのようなきれいな格好の少女が、片肌脱いで、胸もはだけるほどに、大根をおろしています。
はい、そうなんです。状況として不自然なのです。あまり台所の臨場感がないのです。(ちなみに、大根おろしといえば焼魚の付け合せですが、江戸時代は刺身に大根おろしが定番でしたので、その点は自然。)
歌麿は生涯を通じて、働く女性の姿を浮世絵に数多く描いています。そこでの女性たちは、襷(たすき)をかけ、頭に手ぬぐいを巻き、とてもエネルギッシュに動いています。息遣いや汗の匂いまで感じられそうなそれらの作品に比べ、本作の静謐な画面は明らかに異質です。
喜多川歌麿「料理をする母娘」(部分図) いかにも育ちの良さそうなお嬢さん。はたしてモデルはいたのだろうか。
おそらく本作は、多くの男性の「清楚系お嬢さん」への憧れと「ポロリが見たい」という欲求に、ストレートに応えた作品なのだと思います。ストーリー性やリアリティは二の次。「刺身」や「大根」といった小道具は、少女の透き通るような白い肌のイメージを連想させたでしょう。あるいはもしかしたら、当時どこかの料亭に、評判の美少女がいたのかも知れません。
働く女性の美も、浮世絵においてはまず大前提として大衆に“消費”されるものでした。しかし、人々の願望を描いたと思われるこの作品、動機はさておき、歌麿の数ある働く女性の図の中で、出色の出来栄えだと思います。年代の違う二人の女性の対照性を細やかに描き分けながら、画面全体をとても上品で涼やかなものにまとめています。
画面中心を通る垂直線上に二人の頭部を並べ、二人の身体で大きく「人」の字を描く優美な構図。さらに、画面を流れる着物の稜線に対して、皿や盆の円弧、台の直線でメリハリをつけています。着物の配色のセンスは言わずもがな、女性の肌、着物、磁器や漆盆、刺身におろし大根、といった対象のさまざまな質感の違いが、木版で見事に表現されているのには驚きです。
単純にエロティックな要素が消費された作品と言い切るには、一枚の絵としての完成度が非常に高い。結果、私たちは消費され得ない美を見出すことができます。この作品は色違いで摺られたものも現存するので、おそらく人気が出て増刷されたのでしょう。
展覧会の会場には、櫛やかんざしなどの装身具、お歯黒や紅をつけるために使った化粧道具も展示されている。
「ワ印」のワは笑いのワ! 自虐と寛容の江戸の春画
同展の最終章である第10章は「色恋−たのしむ」。このコーナーでは春画が展示されています(18歳未満の入室は保護者の同伴が必要)。この最終章のタイトルについては、当初「秘めごと」という案も出ていたのだとか。しかし、「春画に表現される女性たちは男性に貞淑に従うばかりではなく、相手の男性と等しく性を楽しみ、おおらかで開放的な存在として描かれる例が多い」(「女・おんな・オンナ〜浮世絵にみる女のくらし」展覧会公式図録より)ことから、「たのしむ」としたそうです。
「女・おんな・オンナ 〜浮世絵にみる女のくらし」展の第10章はこちらの一室に。この扉は大人への入り口?(18歳未満の入室は保護者の同伴が必要)
最近はほとんど耳にしなくなりましたが、昭和世代にはまだ、アダルト本を「ワ印(わじるし)」と呼ぶ方々がいます。これは春画が「笑い絵」と呼ばれたことに由来していて、150年近く(あるいはもっと長く?)使用されている隠語。春画は検閲を通さない非公式の出版物だったので、公衆の面前では、やはり言葉を濁したようです。
とは言え、「笑い絵」と呼ばれる通り、江戸の性表現には笑いが結びついていて、現代ほどコソコソ見るものではなかったのではないか、という見方もあります。男女の甘いやりとりを微笑ましく眺め、ときに自分の苦い思い出を重ねて苦笑し、極端な誇張表現やありえないシチュエーションに声を立てて笑う。江戸時代は、笑いによって回収できる性のコンテンツの振り幅が広かった、と言えるでしょう。
「女・おんな・オンナ〜浮世絵にみる女のくらし」展の第10章では、鈴木春信(1725? – 70)、鳥居清長(1752 – 1815)、葛飾北斎(1760 – 1849)、歌川国貞(初代 1786 – 1864)、河鍋暁斎(1831 – 89)と時代も画風も異なる多数の浮世絵師の春画を紹介し、春画の多様性を紹介しています。描かれている二人(だけでないこともありますが)は、年齢も身分も関係も本当にさまざま。バリエーションの広さは、享受層の広さでもあるのでしょう。
喜多川歌麿「歌まくら」(部分) 1788年 浦上満氏 B期(4/24-5/9)展示 浮気疑惑が浮上した男女の修羅場。春画と言えど、これはちょっと笑えないかも。
やや語弊があるかも知れませんが、春画の場合、「本当に男ってバカだよね〜(笑)」という類の笑いが、男性側の自虐的な笑いと、女性側の寛容的な笑いの双方向からの笑いで成り立っているように思います。憎めない人の性(さが)を笑いで包み込むこの精神は、江戸落語などにも通じているのではないでしょうか。
実際には、現代よりも一層の社会的性差が存在した世界で、女性たちはさまざまな困難に直面していたと思います。色恋のたのしみにおいても、社会的なプレッシャーがかかったり、医療衛生的な観点から危険な局面にさらされることもあったでしょう。それでも「憂き世」を「浮世」と呼び、性の悩みも悦びも「笑い」ですくい取る江戸の人々のたくましさ。そこで「女」として生きてきた人たちの輝きに私たちは惹かれます。
撮影可能エリアに掲げられた江戸時代の女性版人生ゲーム。子供や孫に囲まれてお金に不自由しない老後が幸福な人生のゴール?
「女・おんな・オンナ〜浮世絵にみる女のくらし」展覧会情報
浮世絵という夢見る装置を介して、現代の私たちはいま、そうした江戸時代の「女」のリアルの一端に触れることができます。そしてそこからはきっと、時代を超えて普遍的な、人間のポジティブなパワーを受け取ることができるでしょう。
ぜひ多くの方に観ていただきたい、たくさんのメッセージが込められた展覧会です。「女・おんな・オンナ〜浮世絵にみる女のくらし」は5月26日まで(会期中、展示替えあり)。会期中には、学芸員によるギャラリートークやワークショップなども開催されます。美術館公式サイトでイベント情報もチェックの上、ぜひ皆さまでお出かけください。
女・おんな・オンナ〜浮世絵にみる女のくらし
会 期 2019年4月6日〜5月26日
会 場 渋谷区立松濤美術館(東京都渋谷区松濤2-14-14)
休館日 月曜日(ただし、4月29日、5月6日は開館)、4月23日、5月2日、7日
時 間 10:00〜18:00(入館は閉館30分前まで)※金曜日は20:00まで
公式サイト
撮影/松崎未來