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2019.12.05

制作者の恍惚と不安、二つながら我にあり!日本画もプロレスも人生を懸けた闘い

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前代未聞の企画で、恐らく今後も類似のテーマはないであろう「日本画とプロレス」。前半は日本画とプロレスの結びつきについて対談いただきましたが、後半は現役の日本画家であるお二人に、個人的なプロレスへの思いを語っていただきます。

羽二重の黒のガウンに白字の力道山。ブラック琳派!

―そもそも、プロレスのどういうところが好きなんでしょうか?

山本:僕は4歳で力道山をそば屋のテレビで見たんだ。その頃、外国人が珍しくて、海外からやって来るプロレスラーにロマンを覚えたんだろうな。ファンタジーあり、サーカスあり、アクロバットあり、怪奇物もあった。「桃太郎」ことリーダーの力道山には前座がいて役割分担されてる。犬、猿、キジの。「赤ずきん」のおばあさんのふりした狼がマスクマンだったり、巨人の「ガリバー旅行記」もあれば、全身包帯づくしのミイラ男まで登場するんだよ。力道山の最後の試合の相手はザ・デストロイヤーで、「インテリジェント・センセーション・ザ・デストロイヤー」って触れ込みで来たんだ。来日してから日本語で「白覆面の魔王」ね。中一の音楽鑑賞の授業で歌曲の「魔王」を聴かされたばかりだったから、シューベルトと重ねたりして。

間島:子供の頃のプロレス観戦は、息をひそめてTVの中継に集中していましたね。会場のお客さんも静かに見ていました。戦っているレスラーのうめき声や息づかいも良く聞こえてたので、今のプロレスの雰囲気とはだいぶ違います。プロレスがアマチュアスポーツと異なる点は、5カウント以内なら反則し放題ですから、選手によっては、ほとんど反則をしている場合もあるでしょうね。

山本:プロレスはルールがあってルールがないんだ。ルールは侵すためにあるんだから。

―好きなプロレスラーは誰ですか?

山本:僕はやっぱり力道山が好きだったな。力道山と木村政彦が試合をした時の日本選手権の試合で、力道山がガウンを着ていたんだよ。力道山は着物みたいなガウンを着ていた。で、ガウンに「力道山」って書いてあるんだけど、その字のかっこいいこと。丹下左膳だよ。一方、木村は短いジャンパーで裸足、それに対して力道山はロングガウンにシューズ履いてるんだよね。そこで全然違う。コスチュームに感動したね。その後のプロレスのマスクの意匠も顔へのペインティングもプロレスラーのは独特なんだよ。

※丹下左膳…林不忘による新聞連載小説・映画の主人公である架空の剣士。隻眼隻手のニヒルな侍という個性的で魅力あふれるキャラクターは、小田富弥の挿絵の人気と相まって一気に有名になった。挿絵では黒襟の白の着流しスタイル、映画では白地に太筆の文字が描かれた着物姿で登場する。

間島:戦う前から相手を威圧するために、服装にもレスラー独自の日本をアピールしていたのでしょうね。

山本:羽二重の黒のガウンに白字の力道山。ブラック琳派!

間島:女子プロレスラーで最高に人気のあるASUKAという選手は、現在WWEで大活躍の選手で、元々は芸術系の大学を出ていることもあってか、入場時の格好は、もの凄くデコラティブでゴージャスですが、試合が始まるとストロングスタイルの正統派です。

※WWE…アメリカのプロレス団体及び興行会社の略称で、正式名称はWorld Wrestling Entertainment。現在の米マット界を独占する強豪団体で、欧米だけではなくアジアや中南米など、ワールドワイドに興行を行っている。過去には1975年ごろから新日本プロレスと業務提携を結び、1985年に提携解消した。今ではWWE出身のレスラーが日本のマットに上がることも多い。

※ストロングスタイル…アントニオ猪木が提唱したプロレスのスタイルの1つで、強さによる実力主義を打ち出したスタイル及びコンセプトの総称。今でも新日本プロレスを中心に継承されており、レスリング技術の攻防を見せるスタイルとけんかに近いプロレスの凄みを見せるスタイルを融合させたものを指す。

山本:50年代の日系レスラーはアメリカでお決まりの田吾作スタイル、お百姓の格好をしてるんだね。

※田吾作スタイル…田吾作とは農民や田舎者を指す蔑称で、プロレスにおいて田吾作スタイルとは膝までのロングタイツを履いたスタイルを指す。昭和の一時期、日系レスラーはアメリカで悪役に徹して活動したが、彼らの多くは田吾作スタイルだったという。

―そんな恰好で、戦いづらくないんでしょうか?

間島:プロレスラーの個性をどの様にプレゼンするかは、どの時代でも戦略があったのだと思います。初期のジャイアント馬場のアメリカ遠征では、口ひげ、つり目で下駄を履いてましたよね。

山本:それが売りになるわけでしょ。先輩の超悪役、グレート東郷も高下駄だし。グレート東郷は、最初は東条だったらしいね。

―それは批判が多すぎてやめたらしいですね。

山本:当たり前だよ、東条って東条英機でしょ。東郷だと東郷平八郎か、日露戦争だよね。あと、「ナチの亡霊」っていう設定のレスラーもいましたね。ドイツ人じゃないくせにナチの格好してくるとかさ。

―いろいろ問題ありますね。

間島:八百長やインチキと非難を浴びせられながらも、真剣勝負というエンターテイメントは、多くの観客を熱狂させたのです。

山本:あの頃の小人プロレスとか女子プロレスもいかがわしかったよね。まだ見世物小屋が残ってた時代だったからな。

間島:私はフリッツ・フォン・エリックとか、大木金太郎に惹かれていました。その戦いぶりは、大きな手で相手のどこかを掴むだけで、観客は大興奮で、握力120と言われていた手で顔面を掴むだけで相手を失神させる鉄の爪でした。大木金太郎は、試合の最初から最後まで頭突きしかしない試合を覚えていますが、その執念には感動させられましたね。

山本:エリック父だね。フレッド・ブラッシーは「噛みつき」と「急所撃ち」だけなんだよね。それだけで魅力的だった。「銀髪鬼」ブラッシーにはしっかりした基礎があるらしいよ。客にはそれを絶対見せない。とにかく噛むのと急所撃ちだけ。怖かったよ。1963年のブラッシーは。もちろん、テレビで見てただけだけど。

16文の靴の中に生まれたばかりの3匹の子猫が

山本:力道山の次はアントニオ猪木に惹かれたな。とんでもない企画と戦略は負のパワーを醸し出していたんだ。異種格闘技とかさ。

間島:猪木だと、並び称されるのはジャイアント馬場ですかね。

山本:馬場さんはもともとピッチャーだったんですよ。巨人の。高校時代から足が大きすぎて、ひとりだけスパイクを持ってなかったんだ。で、野球部の部長が苦労して探して買って渡しても、練習に履いてこない。当然怒られ、みんなで見に行ったら、16文の靴の中に生まれたばかりの子猫が3匹入ってたんだって。馬場さんは気持ちの優しい人なんだろうね。巨人のあとの大洋ホエールズ(横浜DeNAベイスターズの前身)のキャンプの風呂場で滑って野球できなくなるんだ。万歳三唱で送り出されているから、国には帰れないんだよ、それでプロレスラーになるわけ。馬場さんは、猪木みたいな争いを見せるプロレスじゃなかったんだと思う。馬場さんは本当は格闘技なんかやりたくなかったんだよ。

―馬場は絵も描いてますよね。海の絵とか。

間島:馬場は、風景を油絵で描くのが好きだったみたいですね。

山本:前田日明さんと立ち話をしたことがあるんだよ。前田日明は新生UWFの旗揚げの挨拶で、「選ばれし者の恍惚と不安、二つながら我にあり」と言った人なんだ。

※「選ばれし者の恍惚と不安、二つながら我にあり」…前田日明氏によるこの言葉は、太宰治が短篇『葉』の冒頭で引用している、「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」というヴェルレーヌの詩をアレンジしたものとされている。

―前田日明さんとは、どうやって出会ったんですか?

山本:僕はチェコに留学していたことがあって、日本のチェコ大使館のパーティーで一人だけすごく背の高い人がいたわけ。で、大使館の人に「あの人、前田日明さん?」って聞いたら、誰も知らなかったんだよね。それで勇気を出して前田さんのところに行ったんだ。その時、行ったはいいんだが何を話していいか、「前田さん、いつかラジオで、腋臭が臭くてたまらないって話をしてましたよね」って言ったんです。

間島:まあ、長時間組み合っていると、体臭の強さ等は、リアルにあるのでしょうね。

山本:後に前田さんの対談を読んだら、前田さんは「自分は理念や思想だけだと思われてるけど、実は面白い話をいっぱいしてるのに」って言っていた。僕はそっちの面白い話から入ったんだよね、偶然なんだけど。そこから話が始まって、「オープニングの時のあの『選ばれし者の恍惚と不安……』って言葉、ボードレールですよね」って言ったら、「あれはヴェルレーヌですよ」だって、ヴェルレーヌの『叡智』の一節だって。まいったな、恥ずかしかったよ。

※ヴェルレーヌの『叡智』…ポール・ヴェルレーヌ は近代フランスを代表する詩人で、アルチュール・ランボーとの恋愛関係で有名。『叡智』はランボーとの同性愛から二人で逃避行を実施し、その後発砲事件を起こして投獄された後、カトリック教徒に改心した際に詠んだ詩集。前半は監獄で書かれており、透徹した美しさを放つ美しい詩句はヴェルレーヌの最高傑作の一つに数えられる。

間島:前田日明の少年時代はケンカに明け暮れ(ストリートファイトは負け無し)読書家であることのインテリと暴れん坊ぶりが入り交じって、独特の凄みをかもし出していましたね、まさに勝ち負けでは判断できない危険な戦いがあった気がします。私は年代的に同世代なので、前田のプロレス後の人生も気になるところです。

山本:ふつうは引退試合は本人が勝つんだけど、前田はきちんと負けるんだよね。それは前田が前田日明だからさ。

間島:トラブルは試合でも、その裏側でも色々とあったみたいですね。

山本:恐らくね。前田さんがチェコ大使館に何故来てたかというと、中欧の隠れた選手を探しにきてたんだと思うんだよね。これ、想像だけど。参考までに、ミレ・ツルノはユーゴスラビアの選手だって。で、そこで日本テレビの人と前田さんが会ってたんだけど、前田さんは終わった後で帰り際に僕の方を向いて、一言言ったんだよ。「山本さん、『プロレス』はもう終わったから」って。15年くらい前かな。

※ミレ・ツルノ…1955年生まれのユーゴスラビア(後のクロアチア)出身のプロレスラー。ベビーフェイスとして活動、甘いマスクと肉体美によって多くの女性ファンの心をつかんだ。新日本プロレスへの参戦経験がある。ニックネームは「ユーゴの鷹」。

間島:プロレスが終わったと聞くと、日本画も既に形骸化して終わっていると言われて長いですが……。

山本:あの時、僕は個展『DOOR』の図録を持ってたんだ。それを見せたら前田さんが、試合中だか夢だったか忘れたけど、巨大な黒い扉が目の前に幻影のように何度も出てくるんだって言ってたんだよ。

《DOOR is Ajar Ⅰ,Ⅱ》1996年、鉄扉、岩絵具、箔、アートグルー 287.5×276.9㎝、287.5×300.0㎝ 山本直彰 撮影・山本糾 神奈川県立近代美術館蔵

間島:試合中にドアもありえますかね。WWEのアンダーテイカーは、リングに棺桶を持って登場してましたから。

※アンダーテイカー…アメリカ合衆国出身のマーク・キャラウェイ(1965年)のリングネームで、正式にはジ・アンダーテイカー。アンダーテイカーは墓堀人を意味し、出身地は死の谷で、超常現象を操る魔力を持つという設定がある。レスラーとしての豊富な実績と圧倒的な存在感で非常にリスペクトされている。

山本:夢の方でしょうね。試合中といえば、試合中に、子どもの頃に見た夕焼けが出てくるんだって。

―何でしょうね、それ。

山本:肉体と肉体の、そのバトルの恐怖、そんなすき間をふいに吹き抜ける郷愁じゃないかな? 落日の。

―ああいう祝祭的なものを見終わった時って、虚しくなったりしないんですか?

山本:虚しさも感動ですね。だから、こんなバカみたいなものを観てるのは、世界中で僕だけかもしれないっていう虚しさというか、独りぼっちの感動だよ。人間山脈にはない独りぼっちの感動だよね。

間島:山本さんは、プロレスに哀愁を見ているのでしょうか。一般のお客さんは、その場を全力で共有し楽しんでいるように見えますが。現在はエンターテイメントから地下まで、大小色々あるのは美術と、そこも共通しているのかもしれません。

日本画家としての自分をプロレスラーになぞらえる

―そもそも、お二人が日本画を専攻したのはなぜなんですか?

山本:とにかく美大へ行きたかっただけで、日本画専攻にした。大学時代の先生は片岡球子だったよ。片岡先生は「一生基礎」だってことあるごとに言っていた。

間島:片岡球子の様な突出した個性(プロレスラー?)が日本美術院にいたのは、画期的な時代でしたね。

山本:片岡先生はいろいろな意味で型破りだからね。間島さんはどうして日本画に入ったの? 油絵は受験しなかった?

間島:油絵で受験はしなかったですね。1970年代後半の頃の私は、日本画からもアヴァンギャルドな人が出ているのを知ってからは、日本画から始めてみようと決意しました。

Installation in Steps Gallery Kinesis No.705(jackknife) pigment,resin glue,acrylic,indian ink,water,linen paper on panel 225.0×680.0cm 2017 間島秀徳

―ご自分をプロレスラーになぞらえると、誰になると思いますか?

山本:吉村道明かな?

※吉村道明…1926年生まれのプロレスラー。日本プロレスの黎明期を支えた一人で、火の玉小僧のニックネームがある。力道山のパートナーとしてタッグを組んだ経験があり、力道山が急逝して窮地に追い込まれた日本プロレスで重役を兼務しながら現役レスラーとして活動した。引退後は母校である近畿大学の相撲部で顧問を務めた。

―日本画の作品を描くときに、プロレスから影響を受けているんでしょうか。

山本:興奮してどんなに血まみれになっても、客観性を持っていなければならないっていうことをわかっていながら、それでもそれを踏みはずしてしまうところかな。プロレスのどこにしびれているかっていうのは、人によって違うだろうけどね。

間島:プロレスが普通のアスリートと違うのは、長く続けられることですよね。しかし、画家として、この先どのように続ければよいのかとなると、逆にアスリート的な緊張感を持ち続けて制作に臨めるのか。体力が落ちても精神を鍛えることは可能なのか。身体と精神の関係を探求しながら、制作に挑み続けることは可能なのかです。

Kinesis No.215 In Rokkakudoφ200.0cm 2004 間島秀徳

山本:あと、プロレスに関しては、見る側の意識もあるよね。タイトルマッチで負けたのにチャンピオンベルト奪って逃げるレスラーもいたよ。判定が不服なのか……。ファンはそれを平気で見ている。判定も権威も信じてないから。芸術もそうだよ。

お二人が熱く語るプロレス論を聞いていると、現代における日本画家であるお二人にとって、人生そのものが闘いであり、見えない敵とぶつかりながら制作していくスタイルはプロレスと共通しているのだろうと感じました。
山本先生の「一人の人間がいいって言ってくれればいいんだ」という言葉には、制作者としてのロマンを感じつつ、制作者の戦いは孤独なのだろうなとも思います。また、プロレスの鑑賞方法や楽しみ方などにも、アーティストならではの視点がたくさん見えました。
前田日明氏が山本先生に「『プロレス』はもう終わったから」と語ったというエピソードがありますが、プロレスは新しいファンが増え、昔とは違う形で楽しまれているようにも思います。一方、日本画はどうかと言えば、答えは出ていない状態のようです。
対談のお二人は今までも、そしてこれからもアートというフィールドで戦い続けるのでしょう。そのお姿にエールを送り続けたいと願いながら、観ているこちらも鑑賞者として成長しなくてはならないのだろうなと気を引き締めました。

書いた人

哲学科出身の美術・ITライター兼エンジニア。大島渚やデヴィッド・リンチ、埴谷雄高や飛浩隆、サミュエル・R.ディレイニーなどを愛好。アートは日本画や茶道の他、現代アートや写真、建築などが好き。好きなものに傾向がなくてもいいよねと思う今日この頃、休日は古書店か図書館か美術館か映画館にいます。