漫画やアニメ、寿司など、日本の文化が海外でブームになっているというニュースを聞いたことがある方も多いのではないのでしょうか。
実は1855年に日本が開国した時も、ヨーロッパ圏では扇子や着物、美術品など、鎖国体制では入ってこなかった日本の文物が一気に大量に流入し、日本ブームが起こりました。
人々は着物を部屋着としてまとい、扇子や団扇を飾るなど、生活の中に積極的に取り入れたのです。
人気を博した品々の中でも特筆すべき存在が「浮世絵」です。
漆器や陶器の梱包材として用いられていた「浮世絵」は、それまでの遠近法を重視し、写真のようにリアルな再現を目指してきたヨーロッパの伝統とは全く異なる美しさ、表現でもって人々の心を捉えました。特に若い芸術家たちにとっては、これまでにない「新しい美の世界」そのものであり、「新しい芸術表現」へのヒントを与えてくれる標だったのです。
浮世絵に接し、浮世絵を集め、そこから学び取った要素を基に「独自の表現」を展開、周囲や次世代に影響を与えた画家は少なくありません。
そこで、3人の画家のエピソードをご紹介します。
クロード・モネ(1840~1926年)
浮世絵に多大な影響を受けた一人として、まずクロード・モネの名が挙げられます。
彼は1870年代、30代の時には浮世絵の収集を始めており、生涯に集めた数は現在確認できるだけでも292点に及びます。
彼はそれらの絵をただ集めるのみならず、しばしば自らの作品の構図の参考にもしていたことが指摘されています。
さらに1893年には、ジヴェルニーの自宅の隣の土地を購入、日本風庭園「水の庭」を作り始めます。
そこには、太鼓橋や藤棚など、浮世絵にも登場するモチーフが散りばめられ、日本の植物が多く植えられました。
モネ自身、庭を「最高傑作」と自負していましたが、中でも注目したいのが池の存在です。
睡蓮を浮かべた水面、柳、そして池にかかる太鼓橋ーーー1899年から1900年にかけて、彼はこの組み合わせを主題に18点もの作品を描いています。これらの作品は、同じモチーフを描いていても、比較して見ると色調や雰囲気が全く異なります。
さらに時代が下ると、太鼓橋などのモチーフが姿を消し、画面は光にきらめく水面、そして睡蓮とだけに占められていきます。
モネと言えばすぐに思い浮かぶ〈睡蓮〉の作品群、そのインスピレーション源であり、モネ自身も最高傑作と呼んだ「水の庭」、それらの源流をたどっていくと浮世絵の存在があるのです。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890年)
1882年、弟テオを頼って単身パリにやってきたゴッホを待っていたのは、色彩との出会いでした。
それまで彼の画面を支配していた茶色や灰色に代わり、ピンクや緑、赤など明るい色彩が溢れ、彼の絵は大きく変化します。
そのきっかけを作ったのが、印象派、そして浮世絵との出会いでした。
絵に限らず、新たな技術、要素を自分のものにするには、とにかく実践することが要です。部分的にでも取り入れる工夫をしてみたり、あるいは忠実な再現を試みたり、そのような試行錯誤を通じて、自分の血肉としていくことができる、と言えましょう。
ゴッホもまた、パリに着いた翌年、浮世絵作品を3枚、油彩で模写しています。
その一つが〈亀戸の梅〉です。
フィンセント・ファン・ゴッホ、亀戸の梅、1887年10月~11月、ファン・ゴッホ美術館
原作は歌川広重の〈亀戸屋梅舗〉、江戸時代に賑わった梅の名所を取り上げた作品です。前景に大きくクローズアップされ、しっかりと枝を伸ばす梅の樹の存在感が印象的です。後ろには小さく花見客が描きこまれています。
広重の原画を、ゴッホはキャンバスの上に拡大模写したのです。幹の部分をよく見ると、升目状の線も認められます。
輪郭は忠実に写し取った一方で、色彩はより明るく鮮やかなものに変えられています。
空はより赤く、下に行くに従って金色へと変化し、まるで燃えているかのようです。
また、花見客にも注目してください。遠景に配されているため、ざっくりとした筆致で簡単に描かれているだけですが、原作のような着物姿の日本人、というよりも、パリを行き交う洋服姿の人々のようにも見えます。
そして、絵の両端には、「大黒屋」や花魁の名前と推測される「錦木」など様々な漢字が書きこまれています。が、ゴッホは、「日本らしいイメージ」を他の作品から引っ張ってきてコラージュしただけで、何を意味するかはわかっていなかったと言われています。
つまるところ、この作品は、ただの作品の模写ではなく、新たな技法の実験場であり、ゴッホの中での「日本」像を描いたもの、と言って良いでしょう。
やがて、「日本」への憧れを強めたゴッホは、1888年2月、南仏アルルへと移り住みます。陽光と明るい色彩にあふれるアルルにこそ、浮世絵に描かれている「日本」に近いものがあると信じていたためです。
この地で、彼の色彩はより明るさを増し、代表作として挙げられる〈向日葵〉をはじめ、強烈なまでのエネルギーにみちた傑作の数々を生み出していきます。
メアリー・カサット(1844~1926年)
浮世絵の人気ぶりは、1890年、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で、700点以上もの作品を集めた「日本版画展」が開かれたことからも、うかがえます。
この展覧会を足しげく訪れ、新たな一面を切り開いたのが、アメリカ出身の女性画家メアリー・カサットです。
1865年、彼女は父親の反対を押し切り、プロの画家になるべくパリへとやってきました。
画塾やルーヴル美術館に通い、さらにはヨーロッパ各地で古典絵画を学びながら、画家の登竜門であったサロンに作品を送ります。しかし、やがて保守的なサロンに見切りをつけ、ドガの誘いに乗って1879年からは印象派展に参加します。
その根幹にあったのは、描くことに対する熱い思いでした。
自由に描きたい。
学べることは学び、取り入れていきたい。
そんな彼女は、「日本版画展」にも足しげく通い、歌麿の美人画をはじめ多くの版画を購入しています。
さらに「版画展」が開催された1890年から91年にかけて、⼥性の⽇常⽣活をモチーフにしたカラー版画を、浮世絵の「揃物」の形式にならって「10点組」で制作する計画を立て、実行したのです。
手紙を書く、身づくろいをする、親しい人とお茶を飲む、そしてカサットがそれまでにも幾度も描いてきた、母と子の触れ合い。
画面の中では、女性が生活の中で見せる何気ない表情や仕草が美しく切り取られています。
これらの作品制作にあたって、鮮やかな色彩、平面的な表現など、浮世絵ならではの表現、魅力を自分なりに再現すべく、彼女はドライポイント、アクアチントと複数の技法を組み合わせて使っています。特に輪郭線に使われているドライポイントは銅板を直接引っかいて描く、描き損じても訂正をすることが難しい技法です。
満足のいく出来に至れるまでの苦労は、並大抵のものではなかったでしょう。
そうした彼女の努力の成果である作品を見たドガの一言がこちら。
「女がそんなに上手に素描をするとは許せない」
それまでのやり方(伝統)に限界を感じ、その壁を乗り越えたいと願った時、思わぬところからヒントを得られることは往々にしてあります。
自らの表現、芸術を追求したいと願っていた三人に、ヒントを提供したのは、当時の日本では「美術」とは見なされていなかった浮世絵でした。
そんな彼らの作品の魅力の源にあるのは、「それまでにない美」に触れた「感動」と言えるでしょうか。
日本で生まれた浮世絵が、海の向こうの人々の心を揺さぶり、その中から生まれた作品はまた私たちの心に触れ、捉えている、そう考えると感慨深いものがありますね。
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