ニッポンの「顔」となった歴史的建造物を使い継ぐ、クラシックホテル
もはや東京の顔でなく、ニッポンの顔。2024年発行予定の新一万円札裏面に描かれる、東京駅丸の内駅舎内にあるのが「東京ステーションホテル」だ。東京駅開業の翌年、1915年(大正4年)にオープンし、当時の建物をいまに引き継いで営業するこのクラシックホテルは、国指定重要文化財の中に宿泊できる国内唯一のホテルでもある。
「宝石の原石のようなホテルに関われることに、喜びを感じました」。総支配人、藤崎斉(ひとし)さんは、着任した再開業準備当時をそう振り返る。2020年、日本は空前のホテル開業ラッシュに沸き立つ。そんな今だからこそ、日本のホテル文化をつくり上げてきたクラシックホテルについて知っておきたい! 今回はリビングヘリテージ(Living Heritage)として日々、多くの人に使われ活かされる文化財の建物とともに歩む、東京ステーションホテルに秘められた物語を藤崎総支配人にお話しいただこう。
まずは、東京駅丸の内駅舎の歴史を振り返ろう
東京ステーションホテルの入る東京駅丸の内駅舎は、赤レンガの外観が印象的な建物だ。創業から104年を経たホテルは東京では2番目に長い歴史をもち、創建時の建物を唯一いまに留める。明治から大正期を代表する欧風建築は、2003年に国の重要文化財に指定された。
地上3階建てで全長は約335m。両サイドにそびえるドーム部分に駅機能としての北口、南口改札がそれぞれあり、正面中央に駅中央口と皇室専用の出入口がある。ホテル正面入口は南ドーム寄りにあるけれど、その存在はさりげない。「いまでも、『東京駅にホテルがあるの? 宴会ができるの?』とおっしゃられる方もいらっしゃいます」と藤崎総支配人が言う。たとえ駅で乗降しても、注意しなければ見過ごしてしまうほどに控えめなのだ。
また、建物は左右対称だと思い込んでいたけれど、外観を撮影するために改めて対面して、そうではないことに気づいた。南ドームの先が少し長い。建設当時は現在と同じように海外からのゲストを迎えるためにホテル建設が迫られていた。それも国の威信をかけたものが。「駅舎にホテルを併設する決定が二転三転し、設計変更を迫られてこの形になった」といわれている。
東京駅、渋沢栄一、日本銀行。新一万円札をつなぐカギは建築だった
設計は日本近代建築の父、辰野金吾だ。「辰野先生は工部大学校(現在の東京大学工学部)に進学し、首席で卒業しました。ここで教えを受けたのが、鹿鳴館やニコライ堂を設計したイギリス人建築家のジョサイア・コンドルです。卒業後、イギリスに留学して先進の建築技術を現地で身に付けました。イギリス建築の影響を非常に強く受けています」と総支配人。建築のスタイルはクイーン・アン様式をアレンジしたもの、とされる。
辰野の経歴はエリートそのものだが、実際には人の何倍もの努力で道を拓いた。生まれは幕末の唐津藩、下級武士の家。そこから這い上がろうと上京前には藩が開いた英語学校で東太郎(あずま・たろう。後の内閣総理大臣、高橋是清のこと)に学んでいたりもする。工部大学校にはギリギリで入学してなんとか奨学金を得た、というエピソードも。
200以上の建物を設計し、20余りが現在も残る。よく知られるのは日本銀行本店、クラシックホテルでは木造瓦葺きの奈良ホテルがある。現存はしないが日本橋兜町の渋沢栄一邸もそうだった。えぇ? 表が渋沢、裏が東京駅、発行元は日本銀行……なんだ、新一万円札は辰野建築つながりだったのか!
それはともかく、東京駅は辰野後期の代表作だ。丸の内駅舎に象徴される赤レンガに白い花崗岩の帯、いくつもの塔屋を持つスタイルは「辰野式」と呼ばれる。構造は鉄骨を芯に、レンガを積み重ねた「鉄骨レンガ造」というハイブリット。専門家からすると過剰なほど強靭につくられた躯体だそう。藤崎さんは言う。「建設素材としてコンクリートが入ってきた時期でしたが、辰野先生はその当時得体がしれなかった素材を頑なに拒み、鉄骨+レンガにこだわった。地震国であることを強く意識されたのでしょう。そういう意味でも先見的でした」
関東大震災には耐えた。しかし、1945年5月の空襲でドーム屋根と3階部分が消失してしまう。再建は終戦から2年という早さで進んだ。2階建てに姿は変えようとも建物は残って、戦後、復興のシンボルとして東京駅が人々に与えた力は大きかった。ホテルも一時休業に追い込まれていたが、1951年には営業を再開する。
創建時の姿よ、再び! 「保存」・「復原」の大プロジェクト
「明治の欧化政策で日本は一気に西洋化が進み、丸の内一帯は一丁倫敦(いっちょうろんどん)と呼ばれたぐらいに赤レンガのビルが建ち並んだオフィス街(※コンドルが設計)でした。それらはほとんどなくなり、コンクリートとガラスの建物に変わってしまった。スクラップ&ビルドで形成されてきた都市景観に100年を経過した建造物を保存し、復原できたことは、大きなテーゼを世の中に提示したと思います」と藤崎総支配人は感慨深げ。古いものに対するノスタルジーを呼び起こすだけでなく、「古いものは素晴らしく、価値がある」ことを具現化できた貴重な場所の事例である、と思うからだ。
周囲には高層ビルが居並ぶが、駅舎の前に立つと空がスコンと抜けて見え、気分はいつも清々しい。実は、東京駅も長い間、建て替え論争が続けられ、高層ビル化が検討されていた。一方で「赤レンガ駅舎」を愛する市民が保存を求める活動を起こす。2003年に重要文化財に指定されたことは保存への追い風に。そして2007年に保存・復原の大プロジェクトが開始され、ホテルも生まれ変わることになる。
工事は近年まれにみる大がかりなもの。2つのドームを再建し、2階建てを3階建てに戻すというが、単純に姿を元に戻すのではなく、素材や工法も含めて原型に戻そうする試みだったからだ。ゆえに「復元」ではなく「復原」の文字が使われている。地下を新設し、既存の建物との間に免震装置を配置する工事もされた。しかも、駅の機能を1日も止めることなく、再開業日を遅らせることなく完了させたのだから、恐れ入る。
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