人気絶頂の中で連載を終えつつも、アニメ化が人気に拍車をかけ、老若男女を問わず愛される『鬼滅の刃』。すでに年内において第2期シリーズ『鬼滅の刃 遊郭編』の放映が予定されており、その人気はとどまることを知らない。『鬼滅の刃』の時代設定が大正時代ということもあり、大正時代がどんな時代であったのかについて興味を持っている人は少なくないことだろう。
思えば大正時代は今から約100年前のことだ。今や大正生まれも日本の全人口の数パーセント。当時の生活ぶりについて詳しく知る人は少ない。
大正時代にはスペイン風邪が世界的に流行し、世界恐慌があり、そして大正末期にはマグニチュード7.9規模の大地震が関東地方を襲った。明治中期から不穏な空気が漂い、ついには日清戦争が勃発。その戦争を機に、世界は戦争ムードへと突入した。新型コロナウイルス感染症に東日本大震災、そして景気の停滞……。領土問題などをめぐり、日中間に緊張が走っており、また第三次世界大戦の勃発が囁かれている現代と重複するものがある。一時は第一次世界大戦の好況で工業化が一気に進んだ。その点でもアベノミクス効果で株価が上昇し、マンション価格がバブル期並みとなった現代と通じるものがある。
このように、大正時代は現代との共通点が多く、約100年前の出来事がまるで昨日のことのように思われるかもしれない。遠いようで近い過去、なんだか矛盾めいているようにも聞こえるが、それが大正時代なのだ。
大正時代とマジョリカタイル
大正時代を語るうえで欠かせない存在とも言えるのがマジョリカタイルだ。全体的に暗い世相を彷彿(ほうふつ)とさせられる大正時代だが、「大正ロマン」という明るい部分もあった。
そんな大正ロマンを彩ったのが、英国のヴィクトリア朝スタイルを踏襲したマジョリカタイルである。
マジョリカタイルって何?
優美であり、どことなく上品さが際立つ、今や幻となってしまったマジョリカタイルだが、一体どのようなものであったのだろうか。
まず、マジョリカタイルの「マジョリカ(Majorca)」とは、地中海に浮かぶスペインのマヨルカ島に由来する。今でこそヨーロッパ屈指のリゾート地としての印象の強いマヨルカ島だが、ルネサンスの時代には釉薬(ゆうやく)陶器の発祥の地として注目を集めた島であった。
その後、イギリスのメーカーが自社ブランドとしてマジョリカタイルの生産に着手。日本へは文明開化とともに持ち込まれた。当時は「自国のタイルは自国および自国関連の建造物に使用する」という暗黙の掟が存在したが(実際、横浜市山下居留地遺跡では、ドイツ系の商館からはドイツ製のタイル、イギリス系の商館からイギリス製のタイルが出土している)、日本国内のイギリス関連の建造物(大使館や洋館を含む)に英国製の輸入タイルが使用されたほか、県庁などの建造物の床などでもその使用が見受けられた。
その後、明治20年頃から、淡路島に拠点を置く淡陶社(現. 株式会社ダントータイル、以下「淡陶」)を筆頭とする日本のタイルメーカーが、英国製のものに程近いマジョリカタイルの生産に着手し始める。(以下、英国製のマジョリカタイルと区別するために、淡陶などの日本企業によるものを「和製マジョリカタイル」とする)。当初は上流階級を中心に受け入れられていた和製マジョリカタイル。決して英国製の劣化版ではなかった。時代の流れの中で大量生産が可能となり、タイルの価格が下がったことで、大正時代には一般家庭にも出回るようになった。
淡路島は“東洋のマヨルカ島”?
明治時代から昭和にかけて和製マジョリカタイルの製造に携わった企業のひとつが、淡路島に拠点を置く淡陶だ。
とはいえ、淡陶は創業当初からタイルの製造に関与していたわけではなかった。淡陶の歴史を振り返ると、江戸末期の寛政8(1796)年、賀集珉平(かしゅうみんぺい)が珉平焼として開窯されたことに始まる(淡陶はその後、珉平焼の流れを汲み、誕生した会社である)。当時は増米法および木綿会所法の実施により米価が高騰。農民は経済的に苦しい生活が強いられ、「縄騒動」と呼ばれる淡路島最大の百姓一揆も起きていた。淡路島の産業の乏しさ、島民の生活が貧窮していくさまを憂いていた賀集珉平は淡路島の南端に位置する三原郡南淡町伊賀野村(現. 南あわじ市南淡町北阿万伊賀野)にて京風路線の「珉平焼」を創業。黄や緑などの釉薬(ゆうやく)で施された珉平焼は当初「淡路焼」として広く出回っていたが、その後「珉平焼」「淡路焼」として流通していった。
珉平の死後、先代からの陶器手法を親族や地元有力者が引き継ぐ形で事業を継続。外国への輸出に重きを置くとともに、黄色・緑色・紫色・白色・レモン色・黒色など、色とりどりの釉薬を生み出した。こうして、江戸時代の創業以来培った釉薬・焼成・型などの技法を活かしつつ、珉平焼は飛躍的な発展を遂げた。
明治16(1883)年、珉平焼は「淡陶社」に社名を変更。池ノ内土を原料とする軟質陶器(食器・花器を含む)を生産し、海外への輸出を積極的に行った。
さらに明治26年(1893)年、「淡陶株式会社」に社名を変更し、日本郵船に次ぐ日本で2番目の株式会社となる。幕末から明治にかけて製陶業一筋でやってきた淡陶だが、その裏には陶器製造のみではやっていけないという経済的事情もあったという。結果的に製陶業とタイル産業を主軸に据えたそのビジネス戦略は功を奏し、独自の手法をもって英国製と同質のマジョリカタイルを生み出すことに成功し、一躍日本一のタイル生産会社へと成長を遂げた。大正時代にはタイル生産の専門会社となり、現在に至る。
ちなみに、淡陶は愛知県の広正製陶とともに、擬石タイルを開発することもあった。そのタイルは、秋田市内にある旧秋田銀行本店本館(現在の赤れんが郷土館)の金庫室前室にも使われた。
淡陶と広正。同業他社であるとはいえ、決して敵対する関係にはなく、互いに信頼の置けるビジネスパートナーとして協力し合いながらタイルを生産することもあった(その証拠に、共同で開発・生産した大理石調のタイルの裏面には「HD(Hは広正、Dは淡陶を表す」の文字が記されている)。
淡陶は成形機によるタイルの大量生産が可能となったことで、明治末期から昭和初期にかけて、多種多様なデザインの和製マジョリカタイルを世に輩出した。
こうして見ると、独自の釉薬陶器の手法をもって日本のタイル業界を牽引してきた淡陶を拠点に置き、和製マジョリカタイルの発信地である淡路島は、“東洋のマヨルカ島”の異名を冠するに相応しいと言えるだろう。
タイルの流通で人々の生活はどう変わった?
明治41(1908)年、金型による圧縮、成形機によるタイルの大量生産が可能になると、色鮮やかな色彩や花柄文様が施された上質なタイルがより安価に入手できるようになり、大正時代には一般家庭にも浸透していった。住居内においては応接間など、洋風の造りを取り入れた間取りが目立ち始めたが、英国のヴィクトリア王朝風の和製マジョリカタイルに合わせるように、人々の生活様式も和から洋へと変化していった。
例えば和風の家屋でも、風呂や洗面所などの水回り周辺などのアクセントに和製マジョリカタイルが使用されるというケースが見受けられた。こうして、洋風の家のみならず、日本家屋でも洋式化が徐々に進んでいったことが分かる。
現代の私たちは部屋の壁紙を変えたり、インテリアにアクセントを付けたりとちょっとした模様替えに、安っぽく見られないよう、ちょっと高価なアイテムを活用することがある。大正時代の人々は現代の私たちのそのような感覚で和製マジョリカタイルを活用していたのかもしれない。
生産開始当初、公共施設などへ行けば、和製マジョリカタイルがあった。つまり、特別な場所にある特別なタイルのイメージが強かったわけで、和製マジョリカタイルが使用された場所へ赴くたびに、人々は流行りの洋文化を嗜んでいたことだろう。そして、大量生産をきっかけに一般の方にとっても手に届くものとなった。誰しも自分のスペース内に流行りの文化を取り入れたいもの。大正時代の人々は流行りの洋文化に乗っかり、自宅のインテリアとして積極的に取り入れた。
また、淡路島の淡陶社の社長や重役筋の自宅などでも和製マジョリカタイルが使用されていた。例えば風呂場の壁面に使用したり、素焼き段階で歪みやヒビが入った失敗品を風呂の焚口に防火用として張ったりと、その使われ方は非常に質素なものであったという(ある意味で、関係者だからこそのリサイクル感覚といったところだろうか)。
当時はスペイン風邪が流行し、その後世界恐慌が訪れた。経営者にとっても、そして一般の人々にとっても慎ましやかな生活を送らざるを得ない事情があっただろう。不況下を生きる現代の私たちは、節約生活に徹したりと、基本は質素な生活を送りつつも、ちょっと高価なものでプチ贅沢をすることがある。
そんな感覚が大正時代の人々にもあったのかもしれない。冒頭でも述べた通り、様々な観点で共通項の多い大正時代と現代。置かれた状況が似ているがゆえに、それぞれの時代に生きる人々の精神性もまた似通ったものであったのではないだろうか。
淡陶の製品は海外でも人気に
淡陶は大正時代から昭和初期にかけて(明治時代から輸出をしていたが……)、海外への輸出にも力を入れるようになった。和製マジョリカタイルをはじめとする淡陶の製品は中国や台湾、さらに中華系とマレー系との融合によるプラナカン文化が形成された東南アジア諸国を中心に受け入れられた。(ちなみに、同じく中華系である日本の華僑への供給は報告されていない)。以下は中華圏での親和性が高いと思われる淡陶の製品の一例である。
和製マジョリカタイルについては、西はアフリカの果てまで流通していたという報告がある。実際、タンザニアのザンジバル島では、当時島を治めていたスルタン家やインド系ムスリムの墓地などにおいて和製マジョリカタイルの使用の痕跡が確認されている。(イギリスのものに比べ、安価に手に入りやすいというのが最大の理由であった)。和製マジョリカタイルの流通経路については定かではないが、恐らくザンジバル島のインド系の商人を経由し、流通したのではないかと推察されている。
マレーシアの首都・クアラルンプールより南西に位置し、16世紀には東西交易の拠点として機能していたマラッカのヒーレンストリートや、クアラルンプール沖のペナン島の歴史的建造物には今も尚、和製マジョリカタイルが残存している。マレーシアのマラッカやペナン島を訪れた際にはぜひ足を運んで、大正ロマンの息吹を感じ取ってみてはいかが?
ちなみに、中華圏では、風水や運気アップのために、建造物の随所に和製マジョリカタイルを使用していたという。スペイン風邪や世界恐慌の影響を強く受けていたのは、世界どの国も同じ。「早く平穏な世の中に戻ってほしい」、そんな思いがそのタイルに込められていたのかもしれない。
今や生産中止となり、幻と化してしまった和製マジョリカタイル。とはいえ、日本国内でも由緒ある荘厳な歴史的建造物や大正ロマンが漂うお店などを中心に、そのタイルは今も尚生き続けている。タイルの絵柄は多種多様であり、さらに組み合わせにより、その模様は無限大に広がる。組み合わせ次第では、例えば日本古来の市松模様を生み出すことも可能であり、当時の人々はこうして洋と和が織りなす美を楽しむことができたのだろう。もしかするとコロナ禍における安寧を祈りながら、偶然入ったレトロな雰囲気の漂うお店で、炭治郎と出会えるかも……。
基本情報
兵庫県立考古博物館
住所:兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1
(取材協力)
兵庫県立考古博物館
名誉学芸員 深井明比古氏
(参考文献)「タイル考古学の現状と課題」深井明比古 『兵庫県立考古博物館研究紀要第8号』2015年3月
「ザンジバルにおける日本製タイルの流通と利用」増田研/深井明比古『多文化社会研究5』長崎大学多文化社会学部・多文化社会学研究科 2019年
『広域営農団地農道整備事業南淡路地区に伴う発掘調査報告書I(南あわじ市 珉平焼窯跡)』兵庫県教育委員会 2005年
『タイルの本No.47』タイルの本編集室 2011年