道路にたぬき、店頭にたぬき、宿にも風呂にもトイレにも、たぬき。初めて信楽を訪問して驚いた! 信楽といえばたぬきの焼きもの。たしかにそのイメージは持っていたけれども、こんなに大量とは…。でもなぜ、そのイメージが定着しているのだろう?
謎に満ちたたぬきの焼きもの史
日本におけるたぬきの焼きものの起源は、謎に満ちている。現存するたぬきの焼きものをたどると、信楽を筆頭に、京都、備前、常滑、萩、笠間、益子など全国各地に古くから存在していることがわかっている。
全国各地にたぬきの焼きものが存在していたのには、理由がある。たぬきといえば日本人なら誰もが想像できる動物だが、世界的に見てみると非常にマイナーな生き物で、東南アジアから中国、韓国、日本、ロシアなど、ごく限られたエリアで生息している。
16,7世紀に中国から日本に招来された「交趾 狸香合」という作品がある。一説によると、これは猿をモチーフにつくられたが、日本人はその丸みあるかたちと手を添える姿、愛らしい顔つきから、たぬきに見立てたといわれている。日本人は昔からたぬきを身近な動物に感じていたようだ。
ひょうきんものイメージはどこからやってきた?
822年頃成立した日本最古の仏教説話集『日本霊異記』には「ネコ」と読ませるが、紛れもない「たぬき」が登場する。それ以降、説話や物語にたぬきが登場するが、古代から中世にかけての記録の多くで描かれるたぬきは動物としての姿ではなく、どちらかというと恐ろしい妖怪としての姿だった。
しかし、現代におけるたぬきのイメージは、少しまぬけでお調子者のほうがメジャーかもしれない。たぬきと聞いて真っ先に「分福茶釜」や「かちかち山」など昔話や民話を思い浮かべる人も多いだろう。これらで描かれているような、たぬきのイメージの起源はどこにあるのか?
ひょうきんなイメージが広がりを見せたのは、江戸時代以降のことらしい。擬人化されたたぬきの姿は、陶磁器が大きく流通し、絵画や物語などにさかんに描かれるようになった江戸時代後期〜明治時代前期にはじまったのではないかと考えられている。
たぬきの焼きものは3つのスタイルに分けられる
江戸時代後期以降に見られるたぬきの焼きものは以下の3つのスタイルに分けられる。いずれもやはりひょうきんなイメージだ。
1.伝説スタイル
「分福茶釜」など狸伝説にちなんだ格好。たぬき和尚や勧進たぬきもここに含まれる。
2.腹鼓スタイル
ぽんぽこと腹鼓を打つたぬき。
3.酒買い小僧スタイル
笠をかぶり通帳と徳利をもった現在もっとも主流のスタイル。
酒買い小僧スタイルの謎
ご存知のとおり、現代の信楽のたぬきの焼きものの多くが、裸で徳利に通い帳など持った「酒買い小僧スタイル」である。このスタイルが信楽発祥かというと…これまた違うらしい。起源は諸説ある。
江戸時代末期、信楽の長野村に奥田信斉という陶工がいた。陶芸家・古陶磁研究家の冨増純一さんの調査によると、信楽町内に彼のつくったたぬきが残っていることがわかっている。その造形は、例の酒買い小僧スタイルではなかったが、信楽でたぬきをつくった陶工としては、おそらく最初の人ではないかと考えられている。
酒買い小僧スタイルはどこで誰がつくりはじめたか、はっきりしていないが、徳利と通帳を下げて酒を買いに行く行為そのものは、江戸中期元禄頃(1688年〜1704年)に成立したのではないかといわれているため、それ以降であることは確かだ。
また、その姿に関しては、妖怪「豆狸」また関西のわらべ歌「雨のしょぼしょぼ降る晩に 豆狸が徳利持って酒買いに」の歌詞に登場するたぬきにヒントを得ているのではないか? と研究者たちは指摘している。
信楽のたぬきの焼きものが全国に広まったきっかけ
酒買い小僧のたぬきは、備前や常滑でもつくられていたが、1931年(昭和6年)に窯元「狸庵(りあん)」が京都から信楽に移って、たぬき専門の窯元「たぬきや」を開いた。ここから信楽のたぬきが大繁盛することになる。
1951年(昭和26年)11月15日、昭和天皇が信楽に行幸された。そのとき沿道に立つ人々は日の丸の旗で天皇を歓迎したのだが、より賑わせようと、たぬきの焼きものにも旗を持たせた。その光景を目にして昭和天皇は大感激。「おさなとき あつめしからに 懐かしも 信楽焼の 狸を見れば」という歌を詠まれたことと、歓迎するたぬきの焼きものの写真が報道されて、一躍、全国的に信楽のたぬきが有名になった。
縁起のいいイメージがブームを後押し
さらに、1952年(昭和27年)に石田豪澄さんの提唱した「たぬき八相縁起」がブームに拍車をかけた。以下のように、たぬきの焼きものは縁起のよいものと宣伝されたのだ。
目・・・何事も前後左右に気を配り、正しく見つむることな忘れそ
顔・・・世は広く互いに愛想よく暮らし、真をもって務めはげまん
徳利・・・恵まれし飲食のみにこと足利て、徳は密かにわれにつけん
通・・・世渡りは先づ信用が第一ぞ 活動常に四通八達
腹・・・ものごとは常に落ち着きさりながら、決断力の大胆をもて
金袋・・・金銭の宝は自由自在なる、運用をなせ運用をなせ
尾・・・ないことも終わりは大きくしっかりと、身を立てるこそ真の幸福
その独特な造形に、ミロもびっくり
信楽のたぬきは、実際のたぬきの姿に近い細おもての顔から、徐々に丸くかわいらしい顔へと変化を遂げていった。愛嬌ある風貌は、信楽のたぬきの先駆者である「狸庵(りあん)」がつくりあげ、そこで指導を受けていた人たちがそれぞれに独立し、信楽のたぬきの定型として浸透したとされている。ちなみに1966年(昭和41年)、信楽の狸庵に訪れた画家ジョアン・ミロは、信楽のたぬきを見て「これはなんという動物なのか、まったく独創的だ…」と言って喜んだそうだ。
信楽といえばたぬき。そのイメージは中世から続いているものではなく、昭和に入ってからメディアによって定着し、全国へ広まったものだった。それ以降のたぬきは、キャラクターとして定型化しているが、特別展「ようこそたぬき御殿へ おもしろき日本の狸表現」の図録に掲載された古いたぬきの焼きものの写真を眺めていると、表情もポーズも人間のように多彩で、つくり手の個性がいかんなく発揮されていた。
今回の取材で訪れた「滋賀県立陶芸の森」にも、たぬきの焼きものがあちこちに置かれていたことを思い出す。
陶芸の森を歩いていると、アメリカの陶芸家によるたぬきの焼きものが屋外に展示されていた。
それは酒買い小僧スタイルのたぬきをベースにしていながら、そのイメージとは一味違った顔をしていた。瓶ビールをくいっとあおるようなポーズも、ユニークだ。
令和の時代は多様性が叫ばれている。たぬきの焼きものだっていろんなスタイルがあるほうが、おもしろいんじゃないだろうか。信楽のたぬきも、信楽という街も、昭和につくられたイメージから新しく生まれ変わる日が近いかもしれない。
滋賀県立陶芸の森
住所: 〒529-1804 滋賀県甲賀市信楽町勅旨2188-7
公式サイト: https://www.sccp.jp/