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2021.03.02

子どもがダメなら孫に皇位を継がせた~い!飛鳥時代の女帝、持統天皇の夢は叶うのか!?

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旧家名家や政財界での後継者争いはよくあること。これを見誤ると一族の衰退に繋がりかねません。しかしそう分かっていても、自分の子どもは可愛いものです。日本史上に度々「跡継ぎは最愛の我が子に!」という人物が現れるのも、そんな思いが強いからでしょう。

今回、紹介する飛鳥時代の女帝・持統天皇もその一人。我が子や孫を皇位につけるべく、あの手この手を使います。ライバルをとにかく蹴落とした、彼女の夢は叶うのでしょうか。

「女帝」って響きいいなあ

そもそも持統天皇ってどんな人?

「持統天皇って、いつの時代の人なの? 何をしたの?」「『彼女』ということは女帝なの?」

うんうん。そうですよね。天智天皇や天武天皇は日本史の教科書などを通して名前を聞いたことがある方が多いと思いますが、持統天皇はたぶんそれほどでもないですよね。そこで本編に入る前に、彼女について少しだけご紹介を。

●プロフィール
・漢風諡号:持統天皇
・日本の第41代天皇(飛鳥時代の女帝)
・西暦645年生まれ~702年没
・父:天智天皇
・母:遠智娘
・兄弟:大田皇女・建皇子
・配偶者:大海人皇子(のちの天武天皇)
・皇子・皇女:草壁皇子

漢風諡号(かんふう しごう)は、古代日本の天皇が崩御した後に贈られた称号です。主に奈良時代から平安時代初期にかけての天皇に贈られ、その称号を名前代わりに呼ぶことが多く見られます。本編では、天皇になる前は鸕野讚良皇女(うののさらら ひめみこ)、天皇になってからは持統天皇と呼びます。

●天皇としての実績など
・律令制度の基礎ともいえる飛鳥浄御原令を完成・頒布
・全国を対象とした戸籍・庚寅年籍(こういんのねんじゃく)を作成
・天武天皇が発願した薬師寺を完成させる

「庚寅年籍」日本史の重要キーワードとして習ったような!


歌人としては万葉集と小倉百人一首に、彼女が詠んだ歌が残されています。
「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」
(万葉集)「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山」
(小倉百人一首)「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」

……こうしてみると、意外と教科書に載っている事柄が見られますね。それでは、彼女が自身の夢をどんなふうに叶えていったのか本編へ!

13歳の皇女(ひめみこ)、叔父のもとへ嫁ぐ

それは飛鳥時代に起きた政変・乙巳の変(大化の改新)から十数年後のこと。13歳の少女が実の叔父に嫁ぎました。嫁いだ少女は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / 後の天智天皇)の次女・鸕野讚良皇女。

うののさららひめみこ!覚えにくい…


嫁ぎ先は父親の弟にあたる大海人皇子(おおあまのおうじ / 後の天武天皇)です。

叔父に嫁いだのか…


少女の年齢的にも近親婚にあたることからも、現代では考えられないことですよね。しかし、古代日本史上ではそう珍しいことではなく、同じ年に鸕野讚良皇女の姉・大田皇女も大海人皇子へ嫁ぎました。

叔父さんモテモテ


それから5年後の662年に、鸕野讚良皇女は大海人皇子の次男・草壁皇子を出産。翌年には大田皇女が大津皇子を出産しました。年子で生まれた草壁皇子と大津皇子は母親同士が姉妹なことからも、イトコとはいえ兄弟のような感じだったのかもしれません。

それから数年後、姉の大田皇女が亡くなったため、鸕野讚良皇女は大海人皇子に嫁いだ女性の中で頭ひとつ抜き出ることができました。当時の男性皇族は多くの女性を妻にしていましたが、その中で一番尊い身分を持つ女性が妃の地位につくことができたからです。大海人皇子の長男・高市皇子の母親は地方豪族の娘。中大兄皇子の娘として生まれた鸕野讚良皇女とは身分が違います。
さらに翌年には、中大兄皇子が即位し天智天皇となりました。それに伴い鸕野讚良皇女の夫君・大海人皇子は皇太弟に。

天智天皇の娘で天武天皇の妻って…持統天皇強い


もしかしたら、私は将来、皇后になれるかもしれない。
ひょっとすると、我が子・草壁皇子は天皇になれるかもしれない。

そんなことを彼女が思ったとしても不思議はないでしょう。

ただ、草壁皇子が皇位につくには、少なくとも次の3点はクリアしなければいけませんでした。1つ目は、大海人皇子が天皇になること。2つ目は、大海人皇子の長男・高市皇子を排除すること。そして3つ目は、草壁皇子と血統的には遜色ない大津皇子も排除すること。

当時の大海人皇子は皇太弟として周りからは見られていましたが、まだきちんとした皇太子制度がなかった時代なので、必ずしも次期皇位継承者ではなかったのです。しかし、それは皇位を賭けた叔父─甥間の争い・壬申の乱で大海人皇子が勝ち、天武天皇として即位したことによりクリアしました。皇后は、もちろん鸕野讚良皇女です。

ふむふむ。大海人皇子→天武天皇


残る条件は2つ。
これを彼女はどうクリアしたのでしょうか。

蹴落とし作戦、決行

卑母拝礼禁止の詔(みことのり)、発令!

壬申の乱後の処置が一段落した679年、草壁皇子が他の皇子たちより皇位継承に有利となる「卑母拝礼禁止の詔の発令」と「吉野の盟約」が起こりました。

「卑母拝礼禁止の詔」は簡単に言うと「諸王は、自分の母親であっても王の名を称していない者へは拝礼してはいけない。正月だけではなく普段からダメだ。違反者は罰する」というものです。

き、厳しいなあ。うののさららのひめみこ…


諸王とは皇族の男子のこと。そして王の名を称するというのは、皇族出身者であるということです。天智と天武、2人の天皇の皇子たちの中で、母親が非皇族出身者といえば、まず高市皇子の名が挙がります。高市皇子は天武天皇の長男ですが、前出のとおり母親は地方豪族の娘。鸕野讚良皇后が「私から生まれた草壁皇子と、アナタとは身分が違うのよ」と、言外に匂わせているかのようですね。

皇子に順列をつけた吉野の盟約

さらにその4カ月後には、天武と天智、両天皇の皇子たち6人を吉野へ集め、「異母兄弟同士は互いに助けあい争わないこと。天皇に逆らわないこと」を誓わせました。後世で「吉野の盟約」と呼ばれる出来事です。

この時の宣誓方法ですが、6人まとめてではなくて、皇子1人1人が天武天皇と鸕野讚良皇后の前で宣誓しました。その順番は、草壁皇子→大津皇子→高市皇子→河嶋(かわしま)皇子→忍壁(おさかべ)皇子→芝基(しき)皇子。年齢順だと高市皇子がトップに来なければおかしいのですが、母親の身分が低いからでしょうか、3番目でした。

2番目の大津皇子は、亡くなった鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)の姉・大田皇女の子どもだね


河嶋皇子以下の母親はいずれも臣下の娘です。皇子たちの筆頭となった草壁皇子は、次期天皇後継者としての存在が大きくなりました。

焦らずに着実に。
ゆっくりとだけれど確実に。
鸕野讚良皇后は草壁皇子を次代の天皇につけるべく動きます。
そのことに天武天皇が関与していたかどうかは分かりませんが、兄・天智天皇の晩年に、次の天皇には天智天皇と臣下の娘との間に生まれた長男ではなく、その皇后・倭(やまと)皇女を推していたことからも、血統を重んじていたことは確かだと言えましょう。

草壁皇子、阿閇(あへ)皇女と結婚

この年に草壁皇子が結婚しました。相手は鸕野讚良皇女の異母妹で、草壁皇子よりも1歳年上の阿閇皇女です。我が子の妻には皇女を、と思っていたかどうかは定かではありませんが、将来的に草壁皇子が天皇になった時、皇后になれる身分の女性であることはたしかです。
ちなみに、ライバル高市皇子と大津皇子の妻も、それぞれ鸕野讚良皇后の異母妹です。当時の皇族は近親婚が多く、母親が異なればきょうだい同士でも結婚もできたんですよ。

草壁皇子、皇太子となる

その後の皇子たちはというと、2年ごとにキャリアなどがステップアップしました。
まずは681年に天武天皇と鸕野讚良皇后は、天智天皇が施行した近江令をもっと進化させた飛鳥浄御原(あすかきよみはら)律令の制定を命じました。律令とは統一的な成文法で、刑法(律)と行政法や民事法(令)のことです。
そして20歳になった草壁皇子を皇太子にしたことも公表。とはいえ、正式に皇太子制が発足するのは、689年の飛鳥浄御原令施行を待たねばなりません(※律は施行されませんでした)。ただ「吉野の盟約」で皇子間に順列をつけたことは、草壁皇子を次期皇位継承者とする布石にはなったようです。

683年には、大津皇子が臣下から政務の報告を聴き取る朝政に参加するようになりました。

草壁皇子は21歳、大津皇子は20歳頃かな?

これは天皇または、それに準じる者が行う政治的行為です。ということは、草壁皇子が皇太子的存在にはなれたものの、この時点では血統的に遜色のない大津皇子も、天武天皇の有力な後継者と考えられていたことが分かります。

さらに2年後の685年に改めて官位が制定され、皇子たちにそれぞれ授けられました。彼らの中で一番高い官位はもちろん草壁皇子に。次に高い官位は大津皇子、その後は高市皇子、さらに続いて河嶋皇子と忍壁皇子は同じ官位でした。官位の上下は「吉野の盟約」時の宣誓順で、芝基皇子はまだ20歳に達していなかったようで、この時には官位を与えられませんでした。

鸕野讚良皇后、天皇代行をする

鸕野讚良皇后にとって、我が子・草壁皇子が皇太子にはなれたものの、気がかりな点もありました。

うののさららのひめみこ!(覚えられないのでしつこく言う)

それは草壁皇子の身体が弱いということです。彼は愛妻家だったのか、正妃は阿閇皇女ただ1人。阿閇皇女との間に子どもは3人いましたが、その中で男児は軽(かる)皇子だけでした。
ライバルの高市皇子と大津皇子は健康体。特に大津皇子は体格性格ともに良く、文武に優れていて周囲からの人気もあったのです。

クラスに1人はいる人気者みたいな感じかなあ?

しかも母親は鸕野讚良皇后の姉皇女。草壁皇子に万が一のことがあれば、皇位は彼のもとへと行くでしょう。気が安らぐ暇はありません。

彼女の不安はほかにもありました。686年5月には天武天皇が病に倒れ、7月に政務を鸕野讚良皇后と草壁皇子に委ねたのです。当時は統治能力の観点から、皇位継承者といえども30歳以上にならないと即位はできませんでした。皇太子とはいえ草壁皇子はまだ20代半ば。そのため、天武天皇の身辺で政務補助をしてきた鸕野讚良皇后が天皇の権力を代行することになったのです。

天武天皇はそれから数カ月後に亡くなりました。この時、草壁皇子はすぐに即位することなく亡き父帝の山陵造営工事の指揮を執るなどし、政務は天皇代行をしていた鸕野讚良皇后が称制(しょうせい)という形で執り行いました。称制とは正式に即位せずに執政すること。古代日本では斉明天皇の没後など、過去にも事例があったんですよ。

もう少しで我が子・草壁皇子を、皇位につけることができるのに。

でも20代半ばで指揮をとるなんてすごいことだよ…


鸕野讚良皇后は、そう思いながら称制をしていたのかもしれません。なにしろ天武天皇が亡くなった直後に大津皇子が企てた謀反が発覚し、彼は処刑されてしまったからです。残るライバルは高市皇子のみ、といっても過言ではありません。しかし、彼女の思いを打ち砕くかのように、天武天皇の死から約3年後の689年5月に、草壁皇子は亡くなってしまいました。

26!?今の私と同い年だ…

我が子が無理ならば、我が孫に皇位を!

3人目の女帝誕生

残された草壁皇子の遺児・軽皇子はまだ7歳。皇太子にするには、あまりにも幼すぎます。さらにもうひとつ大きな問題がありました。それは草壁皇子が皇太子身分のままで亡くなったことです。当時は高市皇子のほかにも、天武天皇の皇子たちが存命していました。天武天皇から見て息子たちと孫とを比べれば、それはもう、どうしたって息子たちの方が血筋が近いに決まっています。

どうしても軽皇子を天皇にしたい。
したいったら、したい!!
ではどうすればできるのか。

考えた結果、鸕野讚良皇后が取った行動は、「自分が天皇になること」でした。我が国で3人目の女帝・持統天皇の誕生です。40代半ばになっていた彼女は、天武天皇の皇后で称制の経験もあります。皇位を継ぐのに特に不都合な点は見当たらないでしょう。

自らが即位して皇位をキープし、軽皇子の成長を待ち彼に皇位を譲る。
はたしてこの作戦は成功するのでしょうか。

高市皇子を補佐役に任命

いくら女帝の孫になったとはいえ、まだまだ軽皇子の立場は弱いもの。ライバル皇子は大勢います。なかでも、年長者である高市皇子は「卑母拝礼禁止の詔の発令」や「吉野の盟約」で皇位から遠ざけることはできましたが、ないがしろにすることはできません。持統天皇は彼を次期皇位継承者に近い太政(だいじょう)大臣に起用し、自身の補佐役を任せました。

すごい策略…


それから約6年後の696年。高市皇子は皇位につくことなく、持統天皇政権下で亡くなりました。

軽皇子を皇太子に!


愛孫にとって最大のライバルであった高市皇子が世を去った翌年。持統天皇は軽皇子を皇太子にしました。

と書くと、すんなりと事が運んだかのように思われるかもしれませんが、実はひと悶着ありました。

ですよね〜

それは、天武天皇の皇子たちのなかで、弓削(ゆげ)皇子が同母の兄・長(なが)皇子の皇位継承権を主張しようとしたから。この兄弟皇子は軽皇子よりも年上で、天武天皇を父親に持ち母方の祖父は天智天皇です。このような立場の皇子は、高市皇子が亡くなった697年の時点で、長皇子と弓削皇子のほかにもう1人いました。

679年の「吉野の盟約」から18年。10人いる天武天皇の皇子たちのなかで、「吉野の盟約」に従ったのは長男から4男まで。残りの6人は幼少だったため参加していませんでしたが、18年経ち成長したこともあり、皇位継承権を主張し始めたのです。

それを阻止したのは、天智天皇の孫・葛野(かどの)王でした。葛野王の父親は壬申の乱で皇位を追われた弘文天皇(大友皇子)。世が世ならば、葛野王は皇太子になっていたかもしれないのです。

「昔から皇位継承は親子でしてきた。兄弟間での相続は世の中が乱れることになる。血統などを見れば次期皇位継承者は自然と決まるよね!?」そんな葛野王の言葉で弓削皇子はそれ以上の発言を控えました。

おぉ!おさまった?

天智天皇の次女として生まれ天武天皇の皇后となり女帝となった持統天皇でも、まだ幼い孫を強引に皇太子とすることはできなかったため、葛野王の言葉をとても喜んだそうです。そして、軽皇子は無事に皇太子となることができたのです。

軽皇子が即位・持統天皇は太上天皇に

皇太子になってから半年後の697年8月、軽皇子は祖母から譲りうけて天皇に即位しました。文武天皇の誕生です。

あの文武天皇だったんだ!

この時に素早く動いたのが藤原不比等(ふひと)で、即位間もない若き天皇に、自分の娘・宮子を嫁がせました。不比等は平安時代に栄華を誇った藤原家の祖。文武天皇の父親・草壁皇子に仕えていた彼は、こうして天皇家の外戚となる一歩を踏み出したのです。

さて、無事に皇位についたとはいえ、彼の年齢はまだ15歳です。それまでは30歳以上でないと、統治能力の観点から皇位にはつけませんでした。かつて皇太子だった草壁皇子は、年齢が満たしておらず即位できなかったのです。

それをカバーするために、譲位した持統天皇は史上初の太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)となり、以後、若年の文武天皇に代わり政治の中心人物となります。この太上天皇は”上皇”と略されました。そして白河上皇から本格的に始まる”院政”のきっかけを、持統天皇がつくったんですよ。

初めて院政を行ったのは白河上皇だといわれているけど、上皇の称号は持統天皇からだったんだ!

長年の夢が叶い、念願の孫皇子に皇位を譲ることができた持統上皇は、その後、702年の暮れに亡くなりました。享年58、波乱万丈に満ちた生涯でした。

姉の大田皇女が若くして亡くならなければ。
夫君が壬申の乱で勝ち、天武天皇にならなければ。
その天武天皇の長男が卑母から生まれていなければ。

歴史に「if」は禁物とされていますが、もし、これらの条件が揃わなかったら、鸕野讚良皇女は皇女のままで皇后になることも、ましてや天皇になることもなく、自分の孫を皇位につけることができなかったかもしれません。しかし、ただ運が味方しただけでは、彼女の夢は叶わなかったと思いませんか?

自分が思い描いた夢の実現に向かって、さまざまな困難を乗り越える。それは夢が大きければ大きいだけ大変なこと。ブレない心情を持ち続け長年の夢を叶えた彼女の生き方は、あなたの目にはどう映るでしょうか。

参考文献
『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男著 角川書店 2005年1月
『女帝の古代日本史』吉村武彦著 岩波書店 2012年11月
『女系図でみる驚きの日本史』大塚ひかり著 新潮社 2017年9月

草壁皇子の妻・阿閇皇女については、こちらをどうぞ
なんでウチのダンナは天皇になれないの!?天武天皇の息子たちに嫁いだ姉妹の運命