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2020.10.02

全身タトゥの美人盗賊、雷お新の一生。「私の皮膚を剥いで残しておくれ」遺言のその後

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全身に刺青を入れた女盗賊が、幕末の大阪でその名を轟かせた。

彼女の名前は、雷お新(かみなりおしん)。

背中には、溪斎英泉(けいさいえいせん)の浮世絵「北条時政」、尻には竜、股から腿にかけては岩見重次郎の大蛇退治の図、腹には『水滸伝』の豪傑のひとり、九紋龍史進(くもんりゅうししん)、右腕には金太郎、左腕には4名の人物画。全身に隙間なく、豪華絢爛な刺青が施されていた。

近所で評判の美少女

1850(嘉永3)年、お新は土佐の武士の家に生まれる。次々と縁談が持ち込まれるほど、近所でも有名な美少女だった。

1867(慶応3)年、18歳の頃、お新は結婚する。しかし、なかなか相手の家になじめず、すぐに離縁を言い渡される。
まだまだ若く、離縁されたことがショックだったに違いない。行くあてもなく、家出を決行した。

幕末の動乱の中、お新がたどり着いたのは大阪。
頼る者も金を稼ぐ術もなく、町中で万引きや恐喝など悪事に手を染め始める。

全身に刺青を入れた理由は

2,3年後、盗賊「雷お新」の名前は大阪中に知れ渡った。彼女はたくさんの子分を従え「姉御」と呼ばれ慕われていた。

悪事を働き続ける自分を嫌いになるどころか、どんどん自信をつけて、好きになっていった。自信をアピールする狙いもあったのだろう。全身に刺青を入れることを思いつく。当時、派手な刺青は男たちの間で大流行していたが、女性が入れることは大変珍しかった。思惑通り、全身刺青の女盗賊は瞬く間に注目を集めた。

刺青を入れたあと、お新は、ますます大胆な犯行に手を染めるようになる。その美貌で金持ちを宿に誘い、着物を脱いで刺青を見せつけ、脅す……これが常套手段だった。あの伊藤博文も、被害にあったといわれている。

一方で西郷隆盛の弟、従道(つぐみち)も酔って寝ているところをお新に脅されたが、従道が自身の刺青を見せ返したところ、恐れ入ったと言わんばかりにお新が逃げ帰ったという逸話も残っている。

遺言は「私の皮膚を剥いで残しておくれ」

1874(明治7)年、お新は25歳になった。全国に悪名を轟かせた頃、ついに監獄に入れられる。獄中では従順で、深く反省しているように見られたが、それは脱獄のための準備だったようだ。1882(明治15)年、暴風雨の日に脱獄。翌年、再び逮捕されている。その後、赦免されたお新は、東京へ拠点を移して窃盗や恐喝を繰り返し、またも逮捕された。

お新のその後について、詳しくは残されていないが、悪事を重ね続けたことは伝わっている。これまでの報いか、1890(明治23)年、40歳の若さで流行り病にかかり、この世を去った。

死後も「毒婦」として、世間の注目を集め続けた雷お新。

「全身の皮膚をナメシ革にして、私の自慢の刺青を、永遠に残してくれ」

彼女の遺言のとおり、全身の皮膚は標本として大阪医科大学に保管され、大正時代には警察主宰の展覧会などに出展された。

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アイキャッチ:国立国会図書館デジタルコレクションより。画像はイメージです。