Culture
2020.10.26

寺子屋の教科書に漉き込まれた髪の毛を分析!?江戸の食生活がわかる「同位体分析」とは

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江戸時代の食文化は、農業や漁業の発展、陸路や海路の整備、流通や運輸技術の向上、そして何より泰安な世が続いたことで、社会全体で豊かに育まれていきました。

江戸時代には多くの出版物が出され、現存するものはこの時代の食文化や生活を知るための貴重な資料となっています。しかし文献を読むことだけが、歴史の謎をひも解く手段とは限りません。江戸時代に作られた本の中には髪の毛がすき込まれているものがあり、この毛を使えば、当時の食を科学的に分析することも可能なのだとか。「わ、気持ち悪」と引いてしまったアナタ、まだこのページから離れないで! もうしばらくこの記事に付き合ってください。

では、古書に残された髪の毛を使って当時の食文化を調査している龍谷大学の丸山敦准教授に、科学的な分析でアプローチする研究の強みを語っていただきましょう。

サンプルを集めるには恵まれた環境だった

―― 1からの質問になりますが、古書にある髪の毛を使った研究を始められたきっかけを伺えますか。

丸山:私の専門は水域生態学です。水生生物は喋ることができないので、何を食べているのかを知るためには、科学的に分析をしないといけない。ですから本職の研究の関係で、(江戸の食文化の研究に使う)「同位体分析」という分析技術をもともと持っていたということが1つあります。


本業の陸水生態学の調査を行う丸山敦先生

丸山:また、以前から人間の食についても興味がありました。ただ人間は話ができるので、科学者の出る隙はないんですよね。それでオープンキャンパスで集まってくれた学生を対象に、髪の毛を分析して食の傾向を当てる、ということをやっていました。すると例えば、ファーストフード店のハンバーガーのような輸入肉を多く食べている人なのか、魚好きの人なのか、そうした食の傾向が分かるんです。

あとこの研究は共同研究になるのですが、共同研究者の一人である国文学研究資料館で日本文化の研究をされている入口敦志先生は、最近の和装本のデジタルアーカイブ化する動きに対して、本そのものの価値が忘れられてしまうことの危機感を持っていらっしゃいました。

そんなとき、もう一人の共同研究者である神松幸弘先生(立命館大学・助教)から、「古い書籍にすき込まれている髪の毛を分析すれば、今では話を聞くことができない昔の人の食生活が分かるのではないか」という提案をいただき、研究が始まりました。

―― 書籍なら場所と出版年が記載されているから、把握もできるわけですね。ただ髪の毛を抜き出した研究をするためには、多くのサンプルが必要だと思いますが。

丸山:一番良かったのが、私の所属する龍谷大学が浄土真宗の大学で「仏教」を中心とする伝統的・歴史的な研究を行っていて、その資料となる膨大な古書籍のコレクションがあったことです。とても貴重なものから大衆向けのものまで幅広く寄贈されています。

研究では、本を傷めないことを条件にサンプリングすることが許可されていて、許可がおりた蔵書だけでもざっと7万冊はあります。その中から分析上、データが重複してしまうサンプルは除外し、髪の毛が取れるもので、かつ時代と地域が明記された本に限定すると、使える本は400点ほど。これらの分析を2020年1月に終えたところです。

―― 400点ですか! 2018年8月に発表された最初の論文は、1690年代から1890年代までの古書24点を分析したもので、江戸、大阪、京都を中心に、名古屋の本も1点あったということでしたが、その400点の古書も三都で出版された本が中心だったのでしょうか?

丸山:そうですね。そもそも出版文化は京都で始まり、大阪と江戸へと広がっていったものですから、出版された数の多い江戸、大阪、京都の本が中心です。ですが、7万冊の中には地方で作られた田舎本(三都および名古屋以外で出版された本)もあって、尾張や近江、伊勢のものもありました。伊勢は伊勢神宮があるので出版社もあったのかもしれません。

―― 身近にサンプルがたくさんあった、恵まれた環境だったわけですね。その400点の分析はどのくらいの期間で行われたのでしょうか?

丸山:図書館での本の選出に2019年3月から約10ヶ月、同位体分析そのものは2019年11月から2020年1月まで3ヶ月弱かかりました。

―― そもそも髪の毛を調べるために使われている同位体分析とは、どのようなことが分かるものなんですか?

丸山:例えば、炭素にも重い炭素と軽い炭素があり、窒素にも重い窒素と軽い窒素があって、私たちの体の中には両方あります。軽い炭素の食べ物を多く食べている人は、徐々に徐々に軽い炭素の割合が増えていきます。その身体の中に入っている炭素や窒素の重さの割合を計るのが同位体分析です。

例えば、典型的なのはトウモロコシ、アワ、ヒエですね。重い炭素が他の植物よりも多い。つまり、トウモロコシを多く食べている人、あるいはエサにトウモロコシを与えられる牛肉を多く食べている人は、明らかに同位体比が高くなるんです。

―― トウモロコシ自体をとるだけでなく、エサとして食べてきた牛の肉でも値として出るんですね。

丸山:そう、上まで伝わってくるんです。

―― 生態系を見ているようです。

丸山:同位体分析はもともと、生態系の食物連鎖を調べる技術として使われてきた手法なんですよ。

米と雑穀をとる食文化の地域差が明らかに

―― 江戸時代の食文化についても伺っていきたいのですが、今の和食の形ができ上がっていく食生活の変遷には、白米が好まれるようになった米文化の変化も重なるかと思います。さきほど雑穀の話がありましたが、日本人の主食となる米のとり方について、髪の毛の分析でどのようなことが分かったのでしょうか?

丸山:上方では白米を多く食べられていて、江戸ではアワやヒエを混ぜた雑穀が多く食べられていた、という地域別の傾向が分かりました。江戸での雑穀食は、「江戸煩い」と呼ばれた脚気の対策であったことも理由の1つとして考えられます。


書籍の鑑定

丸山:あとはもう1つ、窒素の同位体比の上昇が見られ、海産物への依存度が上がったことが分かっています。海産の魚を多く食べるようになったこと、そして海の魚を田畑の肥料としても使っていた時代があり、その結果、重い窒素が体内に入り髪の毛に残ったのではないかと思われます。

―― 魚を食べる量が増えたというのは、江戸時代の人の食の嗜好が豊かになり、好んで魚も多く食べられるようになっていったということでしょうか。

丸山:2つ可能性があり、1つはその食文化の変化です。もう1つ、史実として分かっていることに船の大型化があります。それまではいわば原始時代同様の漁だったものが、江戸時代になって大量に魚が獲れるようになりました。すると江戸や大阪、京都の庶民にも魚を口にする機会が増えます。それらがどの程度の量だったかを文献から読み解くことはできませんが、同位体分析なら量を計算して地域ごとに比較できる可能性があります。

―― 武士の日記が残されていて、今でも当時の食生活をうかがうことはできますが、地域別に見た傾向や摂取した量は分からないですね。

丸山:そうなんです。

雑穀食については後日談があって、明治初期の米の生産、消費について統計をまとめている経済学者の鬼頭宏先生から連絡をいただいたんです。この時代でも東京ではアワやヒエがよく食べられ、上方の方が米の生産量や消費量が多いそうです。明治まで続いていた食の傾向から、私たちの研究の裏付けが取れました。

学芸員さんは「ちょっと気持ち悪い」と思っていた

―― ちなみに、同位体分析に使う髪の毛は、どういった流れでサンプリングされるんでしょうか。

丸山:摘出自体はとても簡単です。髪の毛が入っている本の場合、ほとんどが本の厚紙にあってそれが見えています。あとは本を痛めないように、ピッとピンセットで引き抜くだけです。

―― 江戸時代の人の髪の毛は、いい状態で残っているものなんですか?

丸山:はい。短いもので1センチほど、長いもので10センチぐらいあります。気持ち悪いかもしれませんけど。

―― じつは先生も気持ち悪いと思っていたりしませんか?


髪の毛が書籍にすき込まれている

丸山:僕は生物学者なのでそうでもないですが、昔の本を扱っている資料館や博物館の学芸員の人たちは、髪の毛がすき込まれていることをもちろん知っていて、みなさん「気持ち悪いと思っていた」とおっしゃいますね。

―― 資料として丁重に扱う立場にありながら、やはり心の中では「気持ち悪い」と思っていたと(笑)

丸山:当初、髪の毛がすき込まれた厚紙の部分は上質な薄紙で隠してあったんです。ですから江戸時代には読む人に見えない仕様になっていました。当時の人も髪の毛が見えたら、きっと気持ち悪いと思ったのでしょう。ただこの頃の本というのは、虫に食われないようにわざとのりを薄くつけていたため、現在はほとんどの本の薄紙が剥がれていて、髪の毛が見える状態になっています。

―― ちなみに髪の毛が含まれる本は、どれくらいの割合でありますか?

丸山:意外なことに半分くらいの本に摘出可能な髪の毛が入っています。わざと入れたものなのか、髪の毛がすき込まれるような手順を踏んでいたためなのかは分かりませんが、髪の毛が入るような(製本の)工程だったのではないでしょうか。

新しい研究のテーマは「水」

―― 共同研究がスタートしたのは2017年1月。1本目の論文が発表されたのが2018年でしたね。最初の論文を発表されたときも新聞各社が取り上げていて、かなり反響もあったんじゃないでしょうか。その結果、研究しやすい環境に変化した進歩もあったかと思いますが、逆に研究を続ける上で困難なことはありますか?

丸山:ほとんどないですね。順風満帆です。7万冊をかたっぱしから調べて、傷めずに髪の毛を摘出するのは手間のかかる作業で、研究室の学生さんにはだいぶ手伝ってもらっています。そういった意味では大変なのでしょうが、多くの場合、研究で苦労するのは許可を得る部分です。報道をきっかけに、より多くの本を分析できるようになりましたから。

また大きな展開としてあったのは、PIXE(ピクシー)分析という、とても高額な分析機を使った共同研究が始まったことです。新聞を読んだ方から共同研究の話が来て、現段階ですでに40点ほどのサンプルを使ったデータ分析を行われています。


PIXE(ピクシー)分析

―― その機械では、どのようなことが分かるのでしょうか?

丸山:各元素が髪の毛にどれだけ含まれているかが分かります。例えばマグネシウム、カリウム、亜鉛、水銀などです。

―― 以前の分析とは違った食材が分かるということでしょうか?

丸山:例えば、(当時の人が)どんな水を飲んでいたかが分かりそうです。これは現代人と比較すると、けっこうな差が傾向として出ています。

その理由としてはおそらくですけれど、今と飲み水が違う。あるいは農業か、料理の仕方が変わったんじゃないかと。それは野菜経由なのか、海藻経由なのか、魚経由なのかはまだ分かっていません。今後、この分析をさらに進めていきたいと考えています。

さらにもう1つ、髪の毛とは別の歴史的試料を使う研究になりますが、昔の建物にアクセスしたいと思っています。農業の歴史についても科学的に調べてみたいと思っていて、例えば昔の米がどんなもので、どのように作られていたかに興味があります。これについては、秘策があります。建築年代の記録が残っている明治以前の古民家や土蔵をご存じの方、ぜひご紹介ください。

おわりに

髪の毛はちょっと気持ち悪い。レストランで運ばれてきた料理に髪の毛が入っていたら、内気な人でも手をつけずに残すか、「変えてください」と頼むでしょう。でも、歴史を解明するための資料的価値があるとすれば、見え方も変わってきます。江戸時代の文化研究は、他分野の研究者たちの多角的な視点を得て、科学的なアプローチにより飛躍的な進展をみせています。

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【参考文献】

『江戸の食生活』原田信男、岩波書店、2009年

『江戸諸国萬案内』高田衛、小学館、2009年

書いた人

もともとはアーティスト志望でセンスがなく挫折。発信する側から工芸やアートに関わることに。今は根付の普及に力を注ぐ。日本根付研究会会員。滑舌が悪く、電話をして名乗る前の挨拶で噛み、「あ、石水さんですよね」と当てられる。東京都阿佐ヶ谷出身。中央線とカレーとサブカルが好き。