江戸時代、生活のために牛馬を飼うことは必要不可欠だった。農耕や運搬、戦など、様々な場面で牛馬を利用したのだ。電車も、バスも、車も、飛行機も、自転車もない時代。交通手段としても活躍したことは言うまでもない。だから、人々はより良い馬を手に入れたいという願望があった。
それに応えるべく16世紀に生まれたのが、博労(ばくろう)という職業。よい牛馬を仕入れて売る商人だ。今回はこの博労の暮らしや恋の実情を紹介したい。
博労は牛馬の取引で大活躍
博労の起こりは猿回し!?
博労を最初に始めたのは、猿回しを披露する「猿屋」という職業の人々。なぜ猿?と思われた方も多いだろうが、猿はもともと馬の守護神として信仰を集めてきた。そのため、猿屋はサルに芸を覚えさせて各家を周り、厩(うまや)にいる馬を祈祷して回ったらしい。それが近世に入ると、次第に博労や馬医を兼ねるようになった。つまり、猿屋は馬の祈祷をしていたがゆえに、馬の善し悪しや状態を判断できるようになり、それを仕事に生かすようになったのだ。馬と合わせて、牛の売買もするようになり、博労という職業が生まれた。
博労の信用度は賭けのよう
博労は多くの場合、自分の得意先を何十軒か持って、牛馬を交換売買することで生計を立てていた。例えば、農家に行って、「この馬に乗り換えた方が良いですよ」と営業をするのである。まるで、今でいう携帯電話の乗り換えをお勧めしているような状況だ。素人からしたら、どれを選んで良いかわからない。悪い馬を良い馬と偽って販売することも度々あった。そのため、買う側は信用のおける博労を見つけることが急務だった。
博労は牛市・馬市で大活躍
博労は個人間で取引をするだけでなく、日本各地で開かれる馬市や牛市にも出店した。これは1年のうちで数週間から数ヶ月のみ開催される市で、隣国から博労が集まり競りが開催された。中でも三河(現在の愛知県)牛窪の市は京や堺などからもたくさんの博労が出向いたとされ大盛況だった。また、東北では南部(現在の岩手県)盛岡の「おせり」という市では名馬の競りが行われ、嘘か本当かわからない駆け引きの面白さが祭礼以上の賑わいをもたらしたと言われている。
博労の身分違いの恋!?『忘れられた日本人』から読み解く
博労として生きた80歳の老人の話
民俗学者・宮本常一の著作『忘れられた日本人』に出てくる土佐源氏の話では、博労の生活の実態が描かれている。常一はある日、ボロボロの古屋に住む80歳の老人と出会った。老人は「わしは80年何にもしておらん。人をだますことと、おなごをかまう事で過ぎてしまうた」と言って、自らの人生を振り返り始めたそうだ。
ここからは常一が老人、土佐(現在の高知県)梼原の元博労から聞いた話である。
幼少期から行為に明け暮れる
まず、自分は「母が夜這いに来る男と行為をして、身ごもって生まれた子」だという。子守りに育てられた所から記憶があるが、父母の顔は覚えていないとのこと。幼少期は学校に通わず、ひたすら子守りと遊んでいたそうだ。子守りと子供が何人か集まった時のこと。特に遊ぶこともないので、股の大きさを比べたり、前をはだけたりして、しまいに行為を覚えるようになった。そして、それが最も面白い遊びとなった。しかしある時、女の子が一緒に遊んでくれなくなり、大人になったことを実感したという。
博労の手伝いを始める
15歳になると、そろそろ奉公せねばということで、伯父の勧めで博労の手伝いを始めた。親方は口上手で嘘ばかり言って牛を売った。基本的には山の上から麓に向けて各家を周り、良い牛をもらって悪い牛を残していった。なぜ良い牛をもらうかといえば、宇和島で牛相撲が盛んだったため良い牛は高値で売れるからとのこと。道中にばくろう宿があって、大概は小ぎれいな後家(未婚の女性)の家が提供された。そのため、博労と後家が結婚することは珍しくなかった。このような経緯があり、博労は女と馬のことばかり考えている、と老人は話した。
女を連れ去り、駆け落ちする
20歳の時、親方が女の恨みをかって、後家と寝ているところを殺されてしまった。それ故、独り立ちしなければならなくなり、親方の得意先をもらいうけて一人前の博労になった。家がないので知り合いを頼ってさまよい歩いたが、村に入ることはできず、結局、後家遊びを始めるようになる。親方の知り合いの娘と関係を持つようになり、結局、その娘を連れ去って逃げた。そして、家を借りて暮らしを始め、平穏な生活は3年ほど続いた。
役人の娘との身分違いの不倫
ある日、お札の原料になる楮(こうぞ)を買うために役人に会いにいった時、旦那は留守で家には嫁しかいなかったという。お茶を出してもらってついつい話し込んでしまい、洗濯物を干すのを手伝ったそうだ。その時に、「あなたは本当に親切じゃ」とお礼を言われ、それが恋の始まりとなった。身分が自分より高い人に、一人前に扱われてお礼を言われたのが初めてだったようだ。それから旦那が留守の時に通うようになり、手土産を持っていくようになった。お互いに両想いだったが、4〜5回会った後、嫁を奪うのは迷惑だと思い相談もせずに立ち去った。そして、先ほどの駆け落ちした女の元に帰った。
庄屋の奥さんに出会い、人生最大の恋をする
大きな喪失感が襲ってきた、と老人は続けた。その後も色々な女と関係を持ったが、なかなか役人の娘のような人には会えなかった。しかし、人生80年の中で1度、その娘を越える女と出会ったという。「人に話せない話はわしにもある。この話は誰にも話したことがない」と前置きをしつつ、話はクライマックスを迎える。
相手は庄屋の奥さんだった。ある日どういう風の吹き回しか道端で声をかけられ、高い石垣と石段があるお城のような家に招かれたそうだ。そこで奥さんに「牛が好きだから飼ってみたい」と言われた。素晴らしい牛を探して差し出したところ喜んでくれて、赤飯や酒を振舞って牛を人間同様に優しく扱ったのだ。身分が高いにも関わらず、牛の世話を自ら率先して行う姿に感心したという。そこで、旦那がいないときを見計らって、手伝いをすることにした。ある時、奥さんが牛を尻が舐められるくらい磨いている事に絡めて、「私は奥さんを……」と行為に誘った。この奥さんはあまり幸せでないことを悟り、守ってあげなくてはならないと思うようになったそう。しかし、初めて行為をして1年も経たないうちに、奥さんは風邪をこじらせて死んでしまった。三日三晩、男泣きに泣いたそうだ。
女だけは労らねばならないという教訓
身分の違いにかかわらず、どんな女も優しくすれば気を許すもの。次第にそう思うようになったという。そして、女を構い続けた。そんなある日、目が見えなくなって、なんとか再び駆け落ちした女の元へ帰った。すると女は泣いて喜び、目が治るようにと世話をしてくれたそう。しかし、結局目は治らず、2人とも今のような生活になるしかなかった。
女は男の気持ちになって労ってくれるが、男は女の気持ちになって可愛がる者が滅多にいない。だから、女だけは労ってあげねばならない。それから、人並みな事はしておくべきだった。それがこの老人の教訓だという。
文献から昔の日本の暮らしを想起する
博労の暮らしを想像するのは難しく、歴史の表舞台に出てこないため記録が少ない。しかし、僅かな文献をたどることで博労および昔の日本の暮らしの片鱗が明らかになる。そして、知られざる現実が浮かび上がってくるのだ。
参考文献
『忘れられた日本人』,宮本常一,岩波書店,1984年5月
『人と物の旅百科③山・里を越えて』,岩井宏實, 河出書房新社, 1999年4月